1973年の少年マンガ地図
虫プロ倒産、そしてほぼ同時に「ブラック・ジャック」が連載開始された1973年とは、どんな年だったのか。手塚治虫のエッセイ「ささやかな自負」が掲載された「児童心理」1973年9月号に、当時の「少年マガジン」「少年サンデー」の作品一覧が載ってました。
1973年当時、マガジン、サンデーは発行日、発売日も同じ。定価100円、ページも300ページと同じ。
■週刊少年マガジン1973年7月15日号
○ガクラン仁義(大平原の決闘): 本宮ひろ志
読切50ページ。「鷹を道づれのひとり旅。ガクラン野郎の行く先は、血の雨風がまっている」 ジャンプの「男一匹ガキ大将」は、途中に「武蔵」の連載をはさんで中断しながら、この年、1973年に終了。マガジンに1972年から1973年に連載した「群竜伝」は、意欲だけがからまわりして打ち切り。本宮ひろ志にとっては谷間の時期の作品です。
○天才バカボン: 赤塚不二夫
まさに全盛期。
○愛と誠: ながやす巧/梶原一騎
「あしたのジョー」の最終回が1973年21号。その後も4号にわたって特集が組まれるほどの最高の人気作でした。「愛と誠」はジョーとダブってて、1973年2/3合併号から連載開始されていました。
○突撃ぐれん隊: みなもと太郎
戦記ギャグマンガ。
○闇の土鬼: 横山光輝
忍者マンガ。でも往年の少年マンガらしさは、チャンピオンの「バビル2世」のほうにありました。
○空手バカ一代: つのだじろう/梶原一騎
つのだじろうは、この年末からマガジンで「うしろの百太郎」の連載を開始し、「空手バカ一代」は影丸譲也にタッチすることになります。
○恋ってなんじゃろ: 仁一郎
○ひとりぼっちのリン: 池上遼一/阿月田伸也
競輪マンガ。原作の阿月田伸也は、雁屋哲の初期の別名です。勝鹿北星=きむらはじめ=菅伸吉も参加していたらしい。池上遼一/雁屋哲コンビはそのままサンデーに移行して、大ヒット作「男組」は翌1974年から連載開始されます。
○ボク3男雪之丞: 白木卓
○ロボット刑事: 石森章太郎
この時期、フジテレビで実写版「ロボット刑事」放映中でした。マガジンの「リュウの道」の終了が1970年。その後ビッグコミックの「佐武と市捕物控」の終了が1972年。わたし自身は、これ以降の石森章太郎には、あまり興味がなくなっていました。
○男おいどん: 松本零士
TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の放映はこの1年後、1974年秋です。旧虫プロ最後のTVアニメ「ワンサくん」(1973年4月〜9月)のプロデューサーだったのが西崎義展。この作品のスタッフの多くがヤマトに参加しており、ヤマトは虫プロ倒産によって作られたともいえます。
○愛の戦士レインボーマン: 小島利明/川内康範/伊藤恒久
これもメディアミックス。
■週刊少年サンデー1973年7月15日号
○柔道讃歌: 貝塚ひろし/梶原一騎
これが巻頭にあるというのが、当時のサンデーの弱さか。
○レッツラ・ゴン: 赤塚不二夫
まさに全盛期。
○黒い鷲: バロン吉元
これも戦記マンガですが、舞台は第1次大戦のヨーロッパで、主人公は日本人。
○バカ草物語: てらしま・けいじ
○漂流教室: 楳図かずお
小学館は連載作品を自分のところで単行本化しないという方針を、長くとっていました。ゴールデンコミックスという新書版レーベルがありましたが、これは白土三平「カムイ伝」や手塚治虫全集のためのもの。少年サンデーコミックスというレーベルで新書版を出し始めたのは、1967年開始の講談社コミックス(自社作品中心でした)よりかなり遅れて、1974年6月発行の「漂流教室」1・2巻からです。
○ダメおやじ: 古谷三敏
ダメおやじが、まだいじめられてるころ。
○じんじんの仁: 影丸譲也/小松君郎
落語家マンガ。
○みなしご仁義: あだち充/井上知士
30年たった現在も、第一線で少年マンガ誌に描き続けてるのは、あだち充だけですなあ。
○ぼろぼろゴルフ: 森正人
読切30ページ。もっとも早い時期のゴルフマンガでしょうか。
○人造人間キカイダー: 石森章太郎
このころキカイダーは兄弟ふたりで戦ってます。
○おっ母ァやくざ: 田丸ようすけ/早坂暁
早坂暁は「夢千代日記」などの脚本家。この作品は高野長英を描いたものらしい。
○駒が舞う: 大島やすいち
将棋マンガ。やたらと絵のうまいヒトで、このころまだ17〜18歳。ご存知のとおり大島永遠のパパです。
○ウルトラマンタロウ: 石川賢
マガジンがロボット刑事とレインボーマン。サンデーはキカイダーとウルトラマンタロウだったのね。
連載中だったはずの、水島新司/佐々木守「男どアホウ甲子園」は休載してたのかしら。水島新司は1972年、マガジンでは「野球狂の詩」、チャンピオンでは「ドカベン」、1973年11月には「あぶさん」が連載開始。この後、ちばあきおと共に、梶原一騎やアストロ球団の魔球マンガを駆逐します。
■ジャンプとチャンピオン
わたしの印象では、このころイキオイがあったのは、マガジン、サンデーよりもジャンプとチャンピオンです。
当時、「少年チャンピオン」には、横山光輝「バビル2世」と藤子不二雄A「魔太郎がくる」があったし、前年の1972年からは水島新司「ドカベン」が始まってました。そして1973年秋より「ブラック・ジャック」開始。
「少年ジャンプ」のほうは多士済々で、ちょうど同時期の連載陣が、
○マジンガーZ: 永井豪
○庖丁人味平: ビッグ錠
○荒野の少年イサム: 川崎のぼる/山川惣治
○侍ジャイアンツ: 井上コオ/梶原一騎
○アストロ球団: 中島徳博/遠崎史郎
○プレイボール: ちばあきお
○ぼくの動物園日記: 飯森広一/西山登志雄
さらに、
○はだしのゲン: 中沢啓治
そしてギャグマンガが、
○ど根性ガエル: 吉沢やすみ
○トイレット博士: とりいかずよし
○ドリーム仮面: 中本繁
うーむ、やっぱりジャンプ買うかな。1973年にジャンプの部数はマガジンを抜いて少年誌トップとなっています。
各誌をひととおり見てみると、このころの帝王は、やっぱり梶原一騎ですね。
1973年秋に、第四次中東戦争をきっかけにしたオイルショックのため、日本全国大不況になるのですが(商売やってたわたしの実家も1年休業しました)、中野晴行「マンガ産業論」によりますと、1974年には、なぜか少年マンガ週刊誌だけは、発行部数で6割増という驚異的な伸びを見せることになります。
■少年キング
ごめんなさい。このころのキングはまったく読んでないので、コメントできません。人気があったのは、赤塚不二夫「おそ松くん」や、日大健児「ドッキリ仮面」だったらしい。
■少女マンガ
じつは、こっそりと、オトコノコの知らないところで、少女マンガが動き出していました。1972年に開始されたのは萩尾望都「ポーの一族」シリーズ、池田理代子「ベルサイユのばら」。1973年には、山本鈴美香「エースをねらえ!」、里中満智子「アリエスの乙女たち」。翌1974年には一条ゆかり「デザイナー」が始まります。
この時期、わたしはそんなことも知らず、美内すずえはオモシロイなあとつぶやきながら、月遅れで買ってきた別マを読んでいました。
Comments
コメントありがとうございます。わたしは少女マンガの絶対的な読書量が少ないので、tsumireさまのサイトなど見ますと、圧倒されてしまいます。1970年代前半は少女マンガがまさに爆発した時期で、少年マンガ誌を卒業したオトコノコが、青年誌と少女マンガを読むようになる時代でもありましたね。
Posted by: 漫棚通信 | September 06, 2005 11:36 PM
漫棚通信さんには今更言うまでもないですが、1972年から1973年は少女漫画の黄金時代でした。
特に少女コミックでは萩尾望都、竹宮恵子だけでなく、大島弓子の活躍もめざましく、
別マでは美内すずえの跡を継ぐかのように(いや、亡くなっているわけではないけど)和田慎二が短編の佳作や冒険活劇物を発表し、槙村さとるがデビューし、
りぼんでは大矢ちきや佐伯かよの、太刀掛秀子、陸奥A子らが次々とデビューし(1974年には内田善美もデビューしている)、絵はともかく井出ちかえのミステリータッチの冒険物が面白く、
週マでは志賀公江が次々とSF作品を連載し、土田よしこの 「つる姫じゃ~」 も始まり、
少女フレンドでは大和和紀が 「クレムリンの丘に眠れ」や 「わが命燃える日に」などの読み応えのある長編を発表し、文月今日子がデビューし……と、書き出すとキリがないくらいで、当時は立ち読みで面白い作品が載っている雑誌をチェックするのも大変なでした(←立ち読みするなよ)。
Posted by: tsumire | September 06, 2005 12:00 PM
そうかあ、キングには2つの大長編がありましたね。この時期の水島新司は全少年誌を制覇してましたか。
Posted by: 漫棚通信 | September 03, 2005 10:36 PM
1973年の少年キングは、前の方も書かれてますが「ワイルド7」と、あと「サイクル野郎」ですね。
水島新司の「輪球王トラ」は1972年だったか。73年は「へい!ジャンボ」だったようで。
参考データここら辺
http://www.h7.dion.ne.jp/~kangoku/c-king.htm
そんな連載があったので当時はキングだけ貸本落ちを買って、一部の作品はスクラップしてました。
Posted by: a.sue | September 03, 2005 08:15 AM
ひとりぼっちのリンは一年で打ち切りになりました。
謎が長く説明されなくて(打ち切られたため謎のままの伏線もいくつかある)
いまひとつでした。この点は男組も同じだけどこっちは戦いの連続で魅せていた。
リンの方は公式戦は終りに一回あるだけじゃなかったかな。
雁屋哲はその後マガジンでかざま英二と組んで「海商王」を連載しますがこれまた一年ほどで
打ちきり。でもこれは面白かった。こっちは戦いの連続で男組に近い印象です。
「以降の石森章太郎には、あまり興味がなくなっていました。」
そう、ロボット刑事も前半みごとなドラマなのに後半はアクションがページを食うようになって
長セリフで設定を説明して唐突に終わりました。その時期を象徴する作品ですね。
黒い鷲は紙不作で打ち切られました。
それも主人公が墜落してゆき終わりという「結ばない打ちきり」
昭和柔侠伝の戦闘描写がいまひとつだったのに比べてこっちは活き活きと描かれている。
機体性能の低さゆえか?
漂流教室は打ち切りとは逆に引き伸ばされていた。
普通に描いてたらもっともっと名作になってたはずだ。
このころから小学館には「媒図かずおは極限まで薄く引き伸ばし」という
方針が出来てしまったのかもしれない。(69-71年の「おろち」は密度の高い名作)
じんじんの仁は「第一部完」で二部は無し。しかしドラマはちゃんと完結しており、
普通に「完」で良かったと思います。
キカイダーは後発の「イナズマン」と連載期間がダブっています。
二本合わせて20ページという妙な連載になっていた。
イナズマンが7ページしか無かったりして。
キカイダーは最初から山田ゴロが代筆しておりイナズマンを石森が描いていた。
マガジンがレインボーマンサンデーがダイヤモンドアイの期間もありましたね。
「男どアホウ甲子園」は高卒後短い休載があったと思います。
この、「三年計画のストーリーを達成した後どうするか迷って休載」は
「あしたのジョー」と同じ。
Posted by: 砂野 | September 03, 2005 06:16 AM
1973年当時、少年キングの人気作と言えば「ワイルド7」もあるのではないでしょうか。
Posted by: 池本 剛 | September 02, 2005 11:57 PM