政治的主張とマンガ(その1)
日本マンガの多くがフィクションを描き、めざすところは娯楽だったり感動だったりするわけですが、これ以外の目的で描かれたマンガも当然存在します。学習マンガのように知識を与えるのが目的だったり、政治的・社会的啓蒙のためであったり、商品の広告であったり、電化製品の使い方を教えるためだったり、布教のためだったり。
この手のマンガを集めた、北原尚彦「本屋にはないマンガ」が発売されてます。こちらについては、またいずれ。
本屋にあるマンガで、娯楽と感動以外を目的とするのに、経済的にも社会的影響においても成功した代表例は、小林よしのり「ゴーマニズム宣言」でしょう。
一時のイキオイはなくなったとはいえ、やはり政治的主張をするマンガとしては、お手本のような存在ではあります。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」の先行作品に対する新しさは、以下の点です。
(1)作中キャラクターとして作者が登場する。
(2)政治的主張をする。
(3)その結果、発言は戯画化され、過激になる。
(1)は、これまでもおなじみの手法。(2)の部分が、「マンガの描き方を講義する」とか、「フーゾクのルポルタージュをする」とか、「ミュージシャンにインタビューする」ならば、以前からあたりまえに存在していました。「政治的」というのがキモですね。もちろん最初からそんな意図のマンガ連載じゃなかったはずですが、SPA!を離れてから、どんどんエスカレートして今の形に。
いっぽう、(2)から考えると、これまでに政党の機関紙などにも、政治的発言をするマンガはありましたが、ほとんど作品内でつくられた架空のキャラクターの口を借りて語られていたものです。彼らはたとえば自民くんや平和ちゃんであって、血の通ったキャラクターではなかった。
(1)と(2)が組み合わされ、作者自身が発言者となり前面に登場することになり、いわゆる、キャラが立ちました。アクションは戯画化され、主張は過激となります。マンガという表現形式は、滑稽で過激なものが好まれるのです。
エッセイや論文もウケを狙って書かれることがあるのでしょうが、マンガはそれ以上にウケることを目的としてきました。というか、ウケなきゃマンガじゃないでしょ。たんたんとした絵解きだけでは、シロートの作品です。マンガでも論理的展開で読者を喜ばせることはできるのですが、それ以外のこともいっぱいできてしまう表現形式がマンガです。
たとえば1ページ全部使った大ゴマで、叫ぶ人間のアップ。口を大きく開けて、口の中には流線(本宮ひろし調ね)。ぎざぎざを持ったフキダシで叫ばせれば、内容は「人は右ッ、車は左ッ」(昔、御用牙でかみそり半蔵が実際に叫んでました)でも、「お父さんお母さんを大切にッ」でも、それなりに感情移入ができてしまう。
音楽などを使った映像作品の場合、もっと感情をゆさぶることができるのは経験的にわかっています。しみじみした音楽にカワイイ幼女が泣く姿。ナレーションは「中絶をやめよう」でも、「戦争をやめよう」でも、何でもなりたつ。短時間の選挙CMが効果的なのも、論理でなく、感情に訴えるからです。
映画やTVと違い、マンガは「読む」メディアですから、繰り返し作者の主張を確認することが可能で、映像作品よりは論理的展開が得意なはずです。実際にマンガで描いた論文といえるスコット・マクラウド「マンガ学」という、お見事な例も存在します。
文章、マンガ、映像、いずれも論理にも感情に訴えるようにも展開できるのですが、あえて得意分野を言うならば、文章は論理、映像は感情。そして、マンガは両者に訴えることが自在に選べるメディアではないでしょうか。あるときは諄々と理屈を語り、あるときは読者を泣かせるように。
さて、「論理」という点からは、ヒキョーな手であると非難されてしまう、文章にもない、映像作品にもない、いろいろなマンガ上のテクニックとはどのようなものか。
「ゴーマニズム宣言」の形式は比較的単純で、作者が読者のほうを向いてしゃべる。フキダシ内でもしゃべるし、ナレーションでもしゃべる。ひたすらしゃべる。作者が登場していないときは、事件や文献の絵解きがあるか、再現ドラマのどちらかですが、他者のセリフも多くは作者自身が書き直しており、その間もほとんどずっと作者の声が聞こえています。
作者の語りはひたすらツッコミ役で、敵対する誰かの言葉←ツッコミ、何かの事件←ツッコミ、が繰り返されます。作者のツッコミの言葉が作品内の最終意見であり、これに対する反論は、もちろん書かれることはありません。
これまでも言われているように、作者自身のキャラクターはあくまで美しくデザインされ、作者と対立する個人、民族は醜くデザインされます。作者の敵は、間抜けや極悪に描かれ、これは場面によって描きわけるという芸の細かさ。
お見事なのは、作者のキャラが見せる千変万化、変幻自在の表情です。基本は美形で、冷静な語り口ですが、反論するときは「はぁ?」と口をゆがめ、あざ笑うときはあくまで大爆笑。ここぞというときに、ベタフラッシュやカミナリフラッシュのバックで、ぎざぎざフキダシの大声でキメると、敵対者は汗をかいて震え上がります。
そして、自身を道化として見せることにも躊躇なし。自分のおまぬけな姿や表情で笑わせることも積極的におこなわれ、作者はマンガのキャラクターとしての役割を十分認識しています。
さらにスペシャル版など、ページに余裕のあるときは、大きなコマをとって、作者が涼しげな目で遠くを見つめる静かな演出も。余裕見せてます。さすがに文章いっぱい詰め込んだページ数の少ないレギュラーの回では、こういう見せ方はしませんが。
このように「ゴーマニズム宣言」では、論理よりも読者の感情に訴えるテクニックがいろいろと使われています。これこそマンガという形式が得意とするところ。特殊なことをしているのではなく、古典的手法をいろいろ組み合わせているだけですが、そこがベテランの腕、たいしたものです。娯楽作品、ギャグマンガを長年描いてきた蓄積ですな。
もちろん最大の強みは、「小林よしのり」という、エキセントリックなマンガキャラクターを創造したことです。少なくとも「小林よしのり」は「ゴーマニズム宣言」というマンガ内では絶対正義の士であり、無敵の存在です。おそらく100万馬力の鉄腕アトムよりは強く設定されているはず。
では、最近評判の山野車輪「マンガ嫌韓流」はどうか。
以下次回。
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