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August 10, 2005

マンガの時間:「コマ」から「フィルム」へ

 秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』読み終わりました。主に、日本マンガと日本アニメにおける表現の特異性と関係性を論じたもの(という理解でいいのかな)で、特に前者から後者への影響を細かく分析しています。いや、面白かった。

 マンガとアニメを比較するとき、大きなテーマが「時間」です。

 本書の中で著者が多く引用しており、特に影響を受けたであろう本が3冊。ジェラール・ブランシャール「劇画の歴史」(1974年河出書房新社)、米沢嘉博編「マンガ批評宣言」(1987年亜紀書房)に収録されている加藤幹郎「愛の時間 いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」、そしてスコット・マクラウド「マンガ学」(1998年美術出版社)です。

 著者が本書の内容の基礎となる論文を書いたのが1990年ですから、1998年に訳されたスコット・マクラウドから影響を受けるというのはヘンな話なんですが、マンガ内の時間を語るなら、「マンガ学」は無視できない本でしょう。

 マンガのコマに描かれるのは「瞬間」のようでも、実はセリフや擬音を読む「時間」が経過している。動線があるなら、その距離を移動する「時間」がある。さらにコマの大きさが時間経過に比例する。これらは、マンガにおける時間を考えるとき刺激的な問題です。

 マクラウドが、時間に対する作者側の仕掛けを語るの対し、加藤幹郎「愛の時間」は、マンガ内の時間経過を決定するのは読者であるとします。加藤幹郎の文章は「漫画=時間」という魅力的な命題を提出しています。「サイボーグ009」でジェット機の墜落を遠景のサイレントでとらえたシーン、「のたり松太郎」の上方からのモブシーン、「じゃりん子チエ」の過剰なフキダシとセリフを例にあげ、コマ内での時間経過はそれぞれの読者の読むスピードにより異なるとして、これを「愛の時間」と呼びました(マンガへの愛ですな)。

 秋田孝宏も、マクラウドや加藤の論を受けて、複数のコマが同時の瞬間をあらわす例や、少女マンガに見られるような、枠線が無くコマが溶け合うような例を出して、マンガの時間構造を考察していますが、このあたり楽しいわ。作例として出されている、北条司の「キャッツ・アイ」などは、いやー、お見事なコマわりで感心しましたし、こせきこうじの「山下たろーくん」で、ピッチャーがボール投げてからバッターが打つまで、ボールが空中にある2ページの間、チームメイトが解説しまくってるのにも笑った。

 ジェラール・ブランシャール「劇画の歴史」は、ヨーロッパ、アメリカにおけるマンガの歴史を旧石器時代までさかのぼって俯瞰した本です。ここで言う「劇画」とはフランス語の「bande dessinee」の訳語で、戦後日本のいわゆる劇画とは何の関係もありません。

 西欧のマンガの歴史を必要十分に知るための好著だと思ってるんですが、なんせ訳文がひどいので評判が悪い本なんだよなあ。「劇画の歴史」は映画やアニメーションの誕生についても書かれており、これら後発の芸術は、誕生したときにはマンガから影響を受け、のちには逆にマンガに対して影響を及ぼしたと。

 マンガとアニメの関係を考えるという意味で先達の書ですが、『「コマ」から「フィルム」へ』では、さらに戦後日本で手塚治虫がTVアニメ「鉄腕アトム」を作ったとき、日本マンガの影響のもと、従来のアニメーションとまったく異なる「アニメ」が出現したと説きます。

 経済的、時間的制約のため出現した、動かない日本アニメをネガティブにとらえるのがジブリに代表される東映アニメーション視点。これに対して押井守には、「鮮やかな印象を与えるには、むしろ動画の枚数は少ない方がいい」という発言まであって、動かないアニメはすでに日本アニメのお家芸になっちゃってる。著者は、こういう動かないアニメの表現は日本マンガより影響されたものだと述べます。

 手塚マンガへの映画からの影響がよく語られますが、もう一回りして日本アニメはマンガから創られたとも言えるんですね。

 そしてマンガとアニメを比較してマンガに戻ったとき、『「コマ」から「フィルム」へ』の中で、最も興味深かったのは、作品内の時間の流れを決めているのは誰か、という話です。

 映画(TVやアニメも含まれる)、芝居、文学の朗読なら、時間の流れは自分ではない他者が決定しており、ストーリーの逆行は不可能。ただしビデオなら、巻き戻しやストップモーションをかけることで、時間を一部だけですが自分が管理することが可能になります。

 文学の黙読は、時間を管理するのは読んでいる自分ですが、文字の流れは時間軸に沿って一直線であるという意味で、フィルムやテープと同じ。著者はこれら時間的に一直線の流れを持った映画や文学を、「一次元的なメディア」と呼んでいます。

 これに対しマンガは、「読む」ことで時間を管理するのが自分、そして大きくページ全体を眺めたとき、時間と空間を同時に一望できる「二次元的なメディア」であると。新しい言葉が定着するかどうかは別にして、これは説得力あるなあ。

 そうか、かつてのコママンガが、単なるコマの羅列に過ぎなかったのに対し、現代マンガは、ページごとのコマわり、さらには見開き2ページを一単位とするコマわりを発明し、進歩させたことで、新しいメディアとなったのか。

 うーん、ならば将来、コンピュータのモニタでみるデジタルコミックは、どうなるのか。1ページを一望できなくなったとき、そして見開き2ページの単位がなくなったとき、マンガはどう変化していくのでしょう。

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Comments

ジャンプ誌の鳥嶋さんが、大垣女子短大へ
講演にみえたとき、生徒に、「見開き単位
でネームを書いてほしい」と語っていました。
 これは<時間>の問題ではなく、まあ絵の
見せ方への配慮ということからなんですが、
でもそれは、コマを割る時間構成と、密接に
つながっていますね。
 彼が編集長時代のときです。生徒と共に
傍聴したのです。

Posted by: 長谷邦夫 | August 12, 2005 07:30 PM

コメントありがとうございます。常に批評は創作の後追いでしかないのですね。ただし創作の方法を言語化することで、確かに実用に役立つようになるのですから、これらの研究の意義は十分あると思います。最近は読んで面白い研究が増えてうれしいです。

Posted by: 漫棚通信 | August 12, 2005 10:53 PM

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» [本]「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画 [こうせい日誌]
秋田孝宏著。メディアとしての特性に焦点をあてて書かれた「マンガ」論です。漫画からアニメに連なる表現形式の構造を丹念に読み解いていくところが、とても興味深く楽しめました。 ISBN:4757101325:detail 前半は、現在に至るまで世界のアニメーション映画の中心である、アメリカのアニメーション産業の発展の要因を、マンガとの関係において探り、両者が一九世紀から二〇世紀の市民社会を背景に、親密な関係を持って誕生し、ともに歩んできた事を明らかにする。 (中略) 後半は、現在の日本のアニメとマンガの... [Read More]

Tracked on November 09, 2005 12:47 AM

» [Libro] 秋田孝宏 『「コマ」から「フィルム」へ』 [博物士]
 映像・表現文化論の院生と読書会。秋田孝宏(あきた・たかひろ)『「コマ」から「フィルム」へ――マンガとマンガ映画』(ISBN:4757101325)について討議する。 http://www.nttpub.co.jp/vbook/list/detail/0132.html 2005年にはマンガ論についての著作が相次いで上梓され... [Read More]

Tracked on May 31, 2006 01:12 AM

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