どん底のころの手塚治虫
手塚治虫のエッセイ、「どん底の季節」(講談社全集版手塚治虫エッセイ集6巻所収、書かれたのは1986年)は、虫プロ倒産のころを回想した文章です。
これによると、1972年8月の虫プロ商事労組との団交で手塚はへろへろ。争議のきっかけは外部から勧誘した幹部とスタッフとの対立だったとしてあります。
実のところ当時、新左翼といわれている活動家が意気軒昂だった時代で、わが社の労組も、これらの活動家のある派と結びついていたのだった。それだけに強硬でかたくななのだった。
これが先日までぼくと和気あいあいとマンガについて語り合ってきた仲間だったのか、この変わりようはなんとも悲しい。いまは資本家と労働者の関係なのだ。
争議終了後、社員のほとんどが嫌気がさして退社してしまうという結末だったと。手塚の文章はちょっと眉に唾つけて読む必要がありますが、当時の虫プロの経営状態についてはともかく、団交にはよっぽどまいったらしい。すでに、虫プロ商事の雑誌「COM」は1972年1月から突然のリニューアルで「COMコミックス」と名前を変え、4号出したあと、無惨に休刊していました。
ぼくが社長のまま、ほそぼそと経営は続いたが、坂道をころがるように業務も信用も悪化していった。ぼくは会社の赤字を埋めるためにしゃかりきに原稿を描きまくった。ひどいときには一か月になんと五百枚も描きなぐるという状態だった。
翌1973年8月、虫プロ商事が倒産。「COM」復刊号を出版した直後のことでした。親会社のアニメ制作会社である虫プロダクションは、1973年6月に劇場用第三作「哀しみのベラドンナ」を公開していましたが、これが大コケ。わたしも劇場で見てます。好きな作品だったんですけどね。
この影響もあって同年11月には虫プロダクションも倒産しました。このころが手塚治虫のどん底期です。アップリカの社長、葛西健蔵の協力で債権を整理し、翌年には虫プロのあった練馬から杉並に引っ越します。
その数年前からの手塚マンガの低迷もあって、わたしにとっても、もう手塚は過去の人のように感じられていました。
ちょうどその時期に書かれた手塚の文章があります。これがスゴイ。雑誌「児童心理」1973年9月号掲載の「ささやかな自負」(講談社全集版手塚治虫エッセイ集3巻所収)。
まず、来年で自身のマンガ家生活が30年になることを書いて、
ところで、漫画は著しい進歩をとげて──と書きたいところだが、残念ながらそうは思えない。しいていえばぼくが戦後漫画の開拓をしたあとは千篇一律のごとく、ぼくの手法の踏襲でしかなかったと思う。漫画ブームが何回か来、漫画世代が育ったが、漫画は劇画やアンチ漫画と称するものを含め、ほとんど新しい改革はなされていないのである。
もし漫画に新革命の火の手が上がっていれば古株のぼくなどとっくに引退していただろうが、いまだに注文が相次ぎ、月産数百ページを書きとばし読者も支持してくれているとなると、うれしいがいささかさみしい気もする。いったい三十年間漫画家はなにをしてきたのだろうか。
武内つなよし、堀江卓、桑田次郎、田中正雄、高野よしてる、白土三平、つげ義春、森田拳次……その他もろもろの売れっ子たちが第一線から消え、あるいは引退し、マスコミから忘れられて行った。そして今、書きまくっている新しい作家たちもいずれそうなる運命だろう。それが所詮マスコミ文化の宿命であろう。だが、それは漫画にとって悲劇だ。も一度漫画に新しい息吹きを吹き込まねばならない。そして、それのできるのはぼくしかないと思っている。(略)
ぼくは、戦後に創り出した手法は必ずヒットするだろうという自信があったし、おそらく漫画の主流を占めるだろうと予想していた。ぼくの手法を踏襲する投書家がきわめて多かったからである。
しかし、その後残念だが劇画家を含めて、小手先の目新しさはあっても、無数のバリエーションは生まれても、本質的にぼくの手法をリードして新境地に挑む者はなかったのである。
この、ささやかどころか強烈な自負を見よ。自身がどん底の時期に、他のマンガ家の名前をずらずら挙げるというイヤミな文章。戦後マンガを作ったのは自分。後輩もダメ。劇画なんてまったくダメ。自分以外全部ダメ。生き残るのは自分だけ。
普通の人が書けば妄想ですが、なんせ、書いたのは神様手塚です。この時期に書かれたこの文章は、たんなる虚勢ではなく、手塚の再出発宣言というべきでしょう。
実際に、虫プロダクション倒産騒動のさなか、週刊少年チャンピオン1973年11月19日号から始まった「ブラック・ジャック」で、手塚治虫はホントに復活しちゃいます。いや、たいしたもんだ。
Comments
BJ時代の少年チャンピオン誌はおそらく編集部
(というか壁村編集長の意向で)読み切り作品を
並べるというやりかたを敢えてとっていたと思い
ます。読み切り方式は話が続く長編連載にくらべて、途中から読み出した読者でも読めるし、打ち切りはいつでも出来る。人気の上がり下がりで、話の
方針変更や編集部側からの内容へのてこ入れが容易
などの利点があるでしょう。
BJが載っていたころの少年チャンピオンは、
その漫画も読み飛ばす必要がなくて、読めるもの
ばかりでした。今の漫画雑誌とは違います。
だからどんどん部数が伸びてあの頃黄金期でした。
手塚先生の他の漫画や漫画家に対する観察力や
洞察力、予言力は実に驚くべきものであり、
非常に熱心に情報収集や新しい感性の吸収、
過去の漫画家や漫画人気への歴史的な知識や
経験から結構予言が当たっているのにおどろい
ておりました。
Posted by: 詠み人知らず | October 09, 2013 02:36 AM
いい記事なんで、思わず書き込んじゃいました!^^すみません^^;
手塚治虫先生は偉大すぎるかこそ、日本的にあるような、ある意味ちょっとした、簡単な「悪口」もたたけない大家になってしまったような気がします。
でも、大人になって先生の作品を読み返してみたら、線も画もストーリーも、色あせることなく生き生きと生きているんですね!
やっぱり天才です。手塚先生。
その先生の下で多彩な才能が生まれ、現在の漫画隆盛期になっているのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/tao8/
Posted by: 田尾晃一 | November 14, 2006 11:41 AM
コメントありがとうございます。手塚治虫のエピソードを読めば読むほど、生前のイメージとのギャップが興味深くて。「ささやかな自負」は東京教育大学内児童研究会が編集していた雑誌「児童心理」(書店では手に入りました)の「特集マンガの読み方・読ませ方」という号に載った文章でして、教師向けのマイナー雑誌ですから、発表当時ほとんど話題にならなかったと思います。だからいつもより本音が出てるのかも。
Posted by: 漫棚通信 | October 05, 2005 02:27 PM
手塚ファンから見ると、手塚治虫は非常に劣等感の強い人物だったように思えます。この記事では他の漫画家を見下しているような発言が挙げられていますが、一方でその逆の発言も非常に多かったりしますし。映画「ロジャーラビット」のパンフでのコメントはジェラシーに満ち満ちていたし(笑)。
一口に「神様」と言ってしまえば簡単に理解した気分になれますが、ただの絵描きが漫画のエポックとしての、また経営者としての責任を一手に担った事のほうが神がかり的です。漫画のほうは駄作も結構あったし、若手漫画家の絵の上手さにメゲつつ、それでも数百枚描き続けた事…凡百な言い方をすればその「努力」こそが神様と言われるべきではないかと。
ま、それで随分周囲の人に迷惑かけたみたいだけど(苦笑
Posted by: トオリスガリ | October 04, 2005 12:22 AM
コメントありがとうございます。1973年というのは、けっこう谷間の時期でして、次回のエントリで整理しなおしてみました。
Posted by: 漫棚通信 | September 02, 2005 08:24 PM
「虫プロ時代に手塚氏に嫌気がさし、やめて
東映に移った」というイトコを持つオジサン
です。
今でもそのイトコと話をする時は、手塚氏の
色々な逸話を聞く事が出来ます。
手塚氏の強烈な自負は「ううむ・・・」と唸ら
されます。新人売れっ子のマンガを片っ端
から読み、「このネタなら僕も面白いネタが
描ける」とネタをパクって本当に面白いマン
ガを描いてしまった人だけの事はあります
ね。
しかし上記で氏が名前を挙げられた作家陣
は、確かにつげ義春以外は「手塚風」と
言われれば「なるほど」と思わざるを得ない
様な・・・。
しかし70年代も後半になれば、手塚風以外
のニューウェーブ(当時の)が台頭してきて
今に至ると言えるのでしょうか。
Posted by: GTO | September 02, 2005 01:59 AM
普通は短編のネタが尽きて長編へ移行するものなのですが、手塚はむしろ逆なんですよね。
もうひひとり、水島新司も短編期が後に来て、
それはブラックジャックとほぼ重なっています。
それを過ぎると劇作界で短編のアイデアは
ほぼ尽きてしまったようですね。
構成で魅せる中篇はありますが。
Posted by: 砂野 | September 01, 2005 12:15 AM