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August 31, 2005

どん底のころの手塚治虫

 手塚治虫のエッセイ、「どん底の季節」(講談社全集版手塚治虫エッセイ集6巻所収、書かれたのは1986年)は、虫プロ倒産のころを回想した文章です。

 これによると、1972年8月の虫プロ商事労組との団交で手塚はへろへろ。争議のきっかけは外部から勧誘した幹部とスタッフとの対立だったとしてあります。

 実のところ当時、新左翼といわれている活動家が意気軒昂だった時代で、わが社の労組も、これらの活動家のある派と結びついていたのだった。それだけに強硬でかたくななのだった。

 これが先日までぼくと和気あいあいとマンガについて語り合ってきた仲間だったのか、この変わりようはなんとも悲しい。いまは資本家と労働者の関係なのだ。

 争議終了後、社員のほとんどが嫌気がさして退社してしまうという結末だったと。手塚の文章はちょっと眉に唾つけて読む必要がありますが、当時の虫プロの経営状態についてはともかく、団交にはよっぽどまいったらしい。すでに、虫プロ商事の雑誌「COM」は1972年1月から突然のリニューアルで「COMコミックス」と名前を変え、4号出したあと、無惨に休刊していました。

 ぼくが社長のまま、ほそぼそと経営は続いたが、坂道をころがるように業務も信用も悪化していった。ぼくは会社の赤字を埋めるためにしゃかりきに原稿を描きまくった。ひどいときには一か月になんと五百枚も描きなぐるという状態だった。

 翌1973年8月、虫プロ商事が倒産。「COM」復刊号を出版した直後のことでした。親会社のアニメ制作会社である虫プロダクションは、1973年6月に劇場用第三作「哀しみのベラドンナ」を公開していましたが、これが大コケ。わたしも劇場で見てます。好きな作品だったんですけどね。

 この影響もあって同年11月には虫プロダクションも倒産しました。このころが手塚治虫のどん底期です。アップリカの社長、葛西健蔵の協力で債権を整理し、翌年には虫プロのあった練馬から杉並に引っ越します。

 その数年前からの手塚マンガの低迷もあって、わたしにとっても、もう手塚は過去の人のように感じられていました。

 ちょうどその時期に書かれた手塚の文章があります。これがスゴイ。雑誌「児童心理」1973年9月号掲載の「ささやかな自負」(講談社全集版手塚治虫エッセイ集3巻所収)。

 まず、来年で自身のマンガ家生活が30年になることを書いて、

 ところで、漫画は著しい進歩をとげて──と書きたいところだが、残念ながらそうは思えない。しいていえばぼくが戦後漫画の開拓をしたあとは千篇一律のごとく、ぼくの手法の踏襲でしかなかったと思う。漫画ブームが何回か来、漫画世代が育ったが、漫画は劇画やアンチ漫画と称するものを含め、ほとんど新しい改革はなされていないのである。

 もし漫画に新革命の火の手が上がっていれば古株のぼくなどとっくに引退していただろうが、いまだに注文が相次ぎ、月産数百ページを書きとばし読者も支持してくれているとなると、うれしいがいささかさみしい気もする。いったい三十年間漫画家はなにをしてきたのだろうか。

 武内つなよし、堀江卓、桑田次郎、田中正雄、高野よしてる、白土三平、つげ義春、森田拳次……その他もろもろの売れっ子たちが第一線から消え、あるいは引退し、マスコミから忘れられて行った。そして今、書きまくっている新しい作家たちもいずれそうなる運命だろう。それが所詮マスコミ文化の宿命であろう。だが、それは漫画にとって悲劇だ。も一度漫画に新しい息吹きを吹き込まねばならない。そして、それのできるのはぼくしかないと思っている。(略)

 ぼくは、戦後に創り出した手法は必ずヒットするだろうという自信があったし、おそらく漫画の主流を占めるだろうと予想していた。ぼくの手法を踏襲する投書家がきわめて多かったからである。

 しかし、その後残念だが劇画家を含めて、小手先の目新しさはあっても、無数のバリエーションは生まれても、本質的にぼくの手法をリードして新境地に挑む者はなかったのである。

 この、ささやかどころか強烈な自負を見よ。自身がどん底の時期に、他のマンガ家の名前をずらずら挙げるというイヤミな文章。戦後マンガを作ったのは自分。後輩もダメ。劇画なんてまったくダメ。自分以外全部ダメ。生き残るのは自分だけ。

 普通の人が書けば妄想ですが、なんせ、書いたのは神様手塚です。この時期に書かれたこの文章は、たんなる虚勢ではなく、手塚の再出発宣言というべきでしょう。

 実際に、虫プロダクション倒産騒動のさなか、週刊少年チャンピオン1973年11月19日号から始まった「ブラック・ジャック」で、手塚治虫はホントに復活しちゃいます。いや、たいしたもんだ。

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August 29, 2005

絵はアレでもいいのだ(←そうか?)

 一条ゆかり「デザイナー」が「りぼん」に連載されていた時期ですから、1974年ごろでしょうか、そのころの「りぼん」に、山本優子「美樹とアップルパイ」という連載がありました。

 記憶だけで言いますと、芸能界、アイドル事情などを組み込んだドタバタコメディ。カラーページも多かったですから、かなりの人気作品だったと思います。当時のわたしは、これこそ少女マンガの悪しき例だ、とひとりイキドオッテおりました。生意気ですねえ。

 なぜかというと、人物以外の絵がへろへろで、ビル、車など、たんなる記号以下。うまく描こうという意欲を放棄してるとしか思えない背景でした。同じ雑誌に一条ゆかりやおおやちきが、車や小物をガチガチのリアルに描いていた時期ですよ。他誌では、萩尾望都が「ポーの一族」シリーズを開始していました。少女マンガが急速に進歩していた時期に、この絵はなかろう。

 ところが、このマンガ、なぜか気になる存在でしたし、記憶にも残ってるんですね。なぜ、これを思い出したかというと、週末に雁須磨子「どいつもこいつも」を読んでたから。

 婦人自衛官モノのコメディです。昇進の悩みとか人間関係の軋轢とかの重くてめんどくさいモノを、リアルじゃなくてあっさりと解決。内に秘めた深刻さはあるかもしれないんだけど、オモテはあくまで軽く、ってのが魅力です。

 で、雁須磨子の絵ですが、これがもうあなた。

 これも現代の日本マンガですから、最低限の背景はクリアしてるとは言うものの。主人公は整備のための工場らしきところで、銃を整備してるのですが、はっきり言って、どこでもかまわないような部屋で、何でもかまわないものを手にしている。部屋の広さ、レイアウトなどどうでもいい。戸外に出ても、どこにどんな建物があるのかはわからない。花見のシーンもあるのだが、いったいここは駐屯地内のどこ。銃も戦車も登場するんだから、たのむからもっと細かく描いてくれー。

 でも、もっときちんと描いたからって、この作品の価値が変化するわけでもないような。この作品はこれで、十分面白いのです。著者の興味はそんなところにはありません。すいすいと読めてしまうマンガに、背景の描きこみは必要なのか。

 大島弓子という偉大な先人が、マンガはあえて描きこまなくてもよい、ということを教えてくれました。わたしたちは、彼女の描く適当な丸から、まっくろなコマから、擬音とフキダシだけのコマからも、何らかを読み取るように訓練されてしまっています。

 雁須磨子は、この作品では別に特殊な心理描写をするわけじゃありませんが、さらりと流した背景、そして大量の手書き文字が味と軽さになってます。近作「ファミリーレストラン」では、大島弓子調のフキダシだけのコマが多用されるようになってますね。

 こういう絵とストーリーと表現のアンバランスも、日本マンガの魅力には違いない。マンガの絵っていうのは、これでもいいのだ。でもやっぱり「ファミリーレストラン」のカバー絵は、ちょっとなあ。

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August 26, 2005

お嬢様笑いのルーツ

 「Ask John ふぁんくらぶ」の何が面白いかと言いますと、いつもわたしたち日本人が当たり前のように眺めているアニメ表現が、共通の教養や歴史を持たない外国人から見ると、いかに当たり前じゃないかを思い知らされるところ。

 2005年8月24日の話題は、「お嬢様笑いとは何ですか」でした。

 アニメの中でお約束、たかびーなお嬢様がヒトを見下して、片手は腰に、片手は口のところに手の甲をあてて指は伸ばし「おーほっほっほっほっほ」という勝ち誇った笑い、アレですね。現在は主にギャグとして使われてます。たしかに考えてみれば、外国ドラマでは見たことのない、日本アニメ独特の表現ですなあ。「実際の日本人はああなのか」なんて言われてるぞ。彼らにとってはよほど奇妙な表現らしい。

 さて、このお嬢様笑いをするキャラのルーツはだれか。

 お嬢様笑いをするたかびーなお嬢様が登場するなら、まずヒロインじゃなくて、敵役でしょう。サディスティックで、ヒロインあるいはヒーローをいじめる役。でも、たんに意地悪なだけじゃダメで、金持ちでかつ誇り高くなくっちゃ。

 ところが、これ、戦前の少年小説や少女小説のイメージじゃないんですよねえ。少年小説に登場する女の子は、あくまで可憐。母性の象徴みたいなものでした。少女小説にはいろんたタイプの少女が出てきますが、エス(今で言うレズですな)の香りが濃厚なまったりとしたお話の中に、これほど勝気で強い性格の少女がいたかしら。深窓の令嬢なんて言葉もゴザイマシタ。

 ぜんぜん詳しくありませんが、戦前の日本映画あたりにも、このタイプっていなかったのじゃないか。宝塚や翻訳のお芝居のほうはどうだったのでしょうか。

 戦後、お嬢様が頻出するのはまず映画。1960年代の若大将シリーズあたりでは、ちょっと庶民派ですけど、ナマイキなお嬢様いっぱい出てましたねえ。

 マンガだと何が思い浮かぶかな。まずは山本鈴美香「エースをねらえ!」(1973年)のお蝶夫人。「なくってよ」なんてお嬢様言葉が出てきます。

 「おーほっほっほ、大笑い海水浴場」というギャグをとばしてたのは、山上たつひこ「がきデカ」(1974年)だったっけ。「おそ松くん」あたりのギャグマンガには、こういう笑い方はあったかもしれない。

 いがらしゆみこ/水木杏子「キャンディ・キャンディ」(1975年)のイライザはこれ以上ないというくらいのいじめっ子でした。金持ちだったけど気高さには欠けるなあ。

 石森章太郎/平井和正「幻魔大戦」(1967年)のプリンセス=ルーナは間違いなくたかびー。ホンモノの王女だし。主人公・丈と衝突ばっかりしてました。

 ちばてつや「島っ子」(1964年)には主人公のライバル・真理子が登場します。社長(といっても島で温泉掘ってる建設会社の社長)の娘で勉強ができて、髪の色は主人公が真っ黒なのに、彼女のそれは白ヌキ。お嬢様の髪は黒じゃダメ。

 わたしは初期少女マンガをあまり知りませんが、超大金持ちは登場してなかったのじゃないか。

 手塚治虫「来るべき世界」(1951年)までさかのぼると、おお、さすが手塚、スター共和国原子力委員長の娘、ココアが登場します。金持ちですが登場人物紹介によると、「自分のことしか頭にない、わがまま育ちでいたって心のせまい平凡な少女」です。高慢よりも「愚か」をより体現したキャラでした。

 うーむ、やっぱり日本人テイストじゃないほうがお嬢様っぽい。

 日本人の敵役となると、スケールが小さくなっちゃって、ヒロインをいじめはするけど、ちょっとした小金持ちの家の単なるイジワルな子。いわゆる成上がりですな。お嬢様笑いができるほどの貫禄に欠けます。敗戦後の日本のお嬢様は、あんまりお金持ちじゃありませんでした。

 実は、「たかびーなお嬢様」というキャラは戦後の輸入物なんじゃないか。ずばり、1952年日本公開の「風と共に去りぬ」のヒロイン、ビビアン・リーが演じたスカーレット・オハラこそ、その元祖ということでどうでしょうか。

 あの美人でわがままいっぱい、しかも大金持ちのキャラクターは、おそらく日本にそれまでいなかったタイプです。白人たかびーお嬢様を、日本独自に過剰な演技をつけてるうちに定型化したのが、あのお嬢様笑い。

 日本には存在しないタイプだからこそ、戯画化されちゃったのじゃないか。あれはスカーレット・オハラなのだよ、とアメリカ人に教えてあげると、ウッソーと言われそうですが。

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August 24, 2005

アジアMANGAサミット:連帯か同床異夢か

 関口シュン・秋田孝宏編著「アジアMANGAサミット」(子供の未来社、寺子屋新書)が発売されてます。

 アジアMANGAサミットは、マンガジャパンが中心に1996年第1回日本大会から始まり、以後ソウル・台北・香港で開催され、2002年第5回は再度横浜で日本大会。この本は、第1章が1回から4回大会までの歴史。第2章が第5回横浜大会のレポート。第3章が世界のマンガ事情、という構成です。

 もともとが国境を越えたマンガ家の交流を目指して始まったものですが、第1回の起草文が、「手塚治虫が作ったストーリーマンガ」「アジアの海賊版」から書き始められてるんですね。その後の大会の変化を考えると、なかなかに違和感を感じます。

 英語での表記もいろいろで、

第1回日本(1996年):EAST ASIAN MANGA SUMMIT '96
第2回ソウル(1997年):ASIAN COMICS CONFERENCE '97
第3回台北(1999年):1999 ASIA MANGA SUMMIT TAIPEI
第4回香港(2000年):THE 4TH MANGA SUMMIT 2000 (WORLD CONGRESS)
第5回日本(2002年):THE 5TH ASIAN MANGA SUMMIT YOKOHAMA CONVENTION

 そして第6回北京(2004年)が、THE 6TH WORLD CARTOON CONFERENCE。もはや「アジア」でも「ストーリーマンガ」でも「サミット」でもない表記でした。

 この本でやはり興味深いのは第2章、横浜大会での関口シュンによるレポート、というか苦労話。マンガ家主宰の大会だから、なんせ組織がない、金がない。マンガ家への呼びかけは日本漫画家協会と漫画集団の協力をとりつけ、金のほうは出版社に協賛金を。ところが、大手の出版社の編集部門はいい顔をしても、宣伝部門が口は出す、金は渋る(当初の1/5に)。そんななかで松文館がぽんと200万円出してくれたと。えらいぞキシ社長。

 企業主導じゃない手作り、しかも大がかりのイベントの開催が、いかに大変か。ご苦労様でございました。大会の性格が、市民参加型にするのか、あくまでマンガ家対象にするのかもむずかしいところなんでしょう。

 これまでの大会アピールは、表現の自由と著作権問題らしい。ただし、各国の状況があまりに違いすぎて、どうなんでしょう、議論はかみあっているんでしょうか。

 さて、この本で奇妙なのは、第6回北京大会に関する記述がまったくないところ。

 北京大会はSARS騒動のため予定より1年遅れで2004年に開催されました。横浜大会の分科会のとき、中国代表がやーな感じだったという、山本夜羽音の文章がコチラ。実際に北京に行った志賀公江のレポートがコチラ

 ほんとのところ、どんな大会だったんでしょ。今年9月には韓国で第7回大会が開催されるそうですが、参加者の誰かが、きちんとレポートしてくれるとうれしいんですけどね。

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August 21, 2005

政治的主張とマンガ(その2)

(前回からの続きです)

 「マンガ嫌韓流」の主人公は高校生、のち大学生となる男女ふたり。大学進学後、自ら極東アジア調査会というサークルに入部し、アジアの真実に目覚めるという展開です。

 主人公のオニイチャンがなかなかにスゴくて、毎度黒のトレーナーであることはともかく、大学にはいって剣道を始めたという設定なのですが(大学の剣道部じゃなくて町道場ね)、外出するとき、いつも竹刀を背負っている。

 異次元の日本が舞台じゃないかと疑わせるファッションセンスですが、そのままの格好で選挙会場とかファミレスにも行ってます。フツー追い出されないか。店員が遠くでこそこそささやいているのが目にうかびます。ガールフレンド注意してやれよ。

 第2話と第8話では、公開ディベートが舞台です。相手は、第2話では元・同級生の在日韓国人(♂)とプロ市民。第8話では韓国のトップエリート大学生6人です。

 「ゴーマニズム宣言」では、ディベートシーンはめったにありません。むしろ「美味しんぼ」などの対決モノに近いでしょうか。マンガでディベートを描くのはむずかしい。どうしても予定調和の展開と結末になってしまうので、ストーリーの緊張に欠けてしまう。「美味しんぼ」でも、あとから料理をプレゼンした方が勝つ、と予想されてますしね。

 表現としても、座っての対話が続くだけなので、単調になってしまいツラい。ただそこをなんとかするのが腕でしょ。とくに「嫌韓流」第2話、ディベートの間じゅう、ひたすら人物のアップが続きます。内容解説のための絵というものがまったく存在しません。よく編集がOK出したな。

 このため、めだつのは表情だけ、となってしまいます。主人公側はあくまで冷静です。相手は、最初ニヤニヤ、のち赤面に汗いっぱい。興奮して大声を出し、最後には錯乱したり、だまりこんでぷるぷる震えてるだけだったりとなります。「ぐうう」とか「うぐぐ」とかいって汗を流してるのがお約束。

 しかし、ディベートはまだ工夫してるほうです。ほとんどの章では、主人公が先輩たちにレクチャーを受けるだけの展開。先輩語る→主人公「ええッ!?」、先輩語る→主人公汗をかいて黙り込む、先輩語る→主人公驚いて擬音が「ドン」。ただただこれが繰り返される。

 じゃあ、その間、解説のためにどのような絵が描かれるのかというと、これがこのマンガの最大の欠点ですが、著者はそういう絵が描けないのです。

 ですから先輩との会話の最中に挿入されるのは、「意味のないコーヒーカップのアップ」だったり、「部屋の天井や壁」だったり、「どこを走ってるのかわからん列車」だったり、「どこやらわからんビル」だったり。韓国人は、細い目、頬骨がはってて、「ニダー」と言ってます。

 「黒地に白抜き文字だけ」や、「地図上の島を指差して日本人が竹島と言い、韓国人が独島と言ってる絵」や、「どこやらわからん空港の上空で爆発する、小学生の描いたような飛行機」もありますが、すべてはコマを適当に埋めているだけ。絵解きの効果はまったくありません。

 いわゆる学習マンガがどれだけよくできてるか、思い知りました。あれらにもそれなりに政治的主張がこめられているのですが、絵による解説は小学生を対象にしてるだけあって、わかりやすいったらありゃしない。

 解説する絵が描かれないなら何に頼るかというと、擬音の多用です。

 「ドン!」「だん!」「くわッ!」「ガタッ!」「ドドドドドド」 別に地震じゃないみたいですが。

 この本の巻末に「特別編」と題して、初めてゴー宣タイプの、作者が直接読者に語りかける形式のマンガが載っています。この短いマンガの中で、コピペ使うか、というのもあるのですが、ラストシーンはページ1/6の大きさのコマに、さらにちっちゃく描かれたラクガキのような作者の全身像。背景はテキトーな集中線。もっともチカラ入れて描くはずのキメのシーンがこれかーい。

 これは21世紀の日本マンガとしてどうなのか。新人マンガ賞への投稿なら、「もっとがんばりましょう」レベル。マンガで政治的主張をするなら、文章だけではできない何かがしたかったのでしょう。それは読者の感情に訴えることで、主張する論理を補強することだったはずですが、残念ながら、あまりの稚拙さに説得力ゼロどころか、マイナスにしか作用しないという例になってしまいました。

 この本の発行で、一番トクしたのは小林よしのりでしょう。読めば読むほど、ああ、よしりんのマンガはなんてうまいんだ、という気持ちが盛り上がってきて、それほど好きでもない「ゴーマニズム宣言」を読み直しちゃいましたよ。

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August 20, 2005

政治的主張とマンガ(その1)

 日本マンガの多くがフィクションを描き、めざすところは娯楽だったり感動だったりするわけですが、これ以外の目的で描かれたマンガも当然存在します。学習マンガのように知識を与えるのが目的だったり、政治的・社会的啓蒙のためであったり、商品の広告であったり、電化製品の使い方を教えるためだったり、布教のためだったり。

 この手のマンガを集めた、北原尚彦「本屋にはないマンガ」が発売されてます。こちらについては、またいずれ。

 本屋にあるマンガで、娯楽と感動以外を目的とするのに、経済的にも社会的影響においても成功した代表例は、小林よしのり「ゴーマニズム宣言」でしょう。

 一時のイキオイはなくなったとはいえ、やはり政治的主張をするマンガとしては、お手本のような存在ではあります。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」の先行作品に対する新しさは、以下の点です。
 
(1)作中キャラクターとして作者が登場する。
(2)政治的主張をする。
(3)その結果、発言は戯画化され、過激になる。

 (1)は、これまでもおなじみの手法。(2)の部分が、「マンガの描き方を講義する」とか、「フーゾクのルポルタージュをする」とか、「ミュージシャンにインタビューする」ならば、以前からあたりまえに存在していました。「政治的」というのがキモですね。もちろん最初からそんな意図のマンガ連載じゃなかったはずですが、SPA!を離れてから、どんどんエスカレートして今の形に。

 いっぽう、(2)から考えると、これまでに政党の機関紙などにも、政治的発言をするマンガはありましたが、ほとんど作品内でつくられた架空のキャラクターの口を借りて語られていたものです。彼らはたとえば自民くんや平和ちゃんであって、血の通ったキャラクターではなかった。

 (1)と(2)が組み合わされ、作者自身が発言者となり前面に登場することになり、いわゆる、キャラが立ちました。アクションは戯画化され、主張は過激となります。マンガという表現形式は、滑稽で過激なものが好まれるのです。

 エッセイや論文もウケを狙って書かれることがあるのでしょうが、マンガはそれ以上にウケることを目的としてきました。というか、ウケなきゃマンガじゃないでしょ。たんたんとした絵解きだけでは、シロートの作品です。マンガでも論理的展開で読者を喜ばせることはできるのですが、それ以外のこともいっぱいできてしまう表現形式がマンガです。

 たとえば1ページ全部使った大ゴマで、叫ぶ人間のアップ。口を大きく開けて、口の中には流線(本宮ひろし調ね)。ぎざぎざを持ったフキダシで叫ばせれば、内容は「人は右ッ、車は左ッ」(昔、御用牙でかみそり半蔵が実際に叫んでました)でも、「お父さんお母さんを大切にッ」でも、それなりに感情移入ができてしまう。

 音楽などを使った映像作品の場合、もっと感情をゆさぶることができるのは経験的にわかっています。しみじみした音楽にカワイイ幼女が泣く姿。ナレーションは「中絶をやめよう」でも、「戦争をやめよう」でも、何でもなりたつ。短時間の選挙CMが効果的なのも、論理でなく、感情に訴えるからです。

 映画やTVと違い、マンガは「読む」メディアですから、繰り返し作者の主張を確認することが可能で、映像作品よりは論理的展開が得意なはずです。実際にマンガで描いた論文といえるスコット・マクラウド「マンガ学」という、お見事な例も存在します。

 文章、マンガ、映像、いずれも論理にも感情に訴えるようにも展開できるのですが、あえて得意分野を言うならば、文章は論理、映像は感情。そして、マンガは両者に訴えることが自在に選べるメディアではないでしょうか。あるときは諄々と理屈を語り、あるときは読者を泣かせるように。

 さて、「論理」という点からは、ヒキョーな手であると非難されてしまう、文章にもない、映像作品にもない、いろいろなマンガ上のテクニックとはどのようなものか。

 「ゴーマニズム宣言」の形式は比較的単純で、作者が読者のほうを向いてしゃべる。フキダシ内でもしゃべるし、ナレーションでもしゃべる。ひたすらしゃべる。作者が登場していないときは、事件や文献の絵解きがあるか、再現ドラマのどちらかですが、他者のセリフも多くは作者自身が書き直しており、その間もほとんどずっと作者の声が聞こえています。

 作者の語りはひたすらツッコミ役で、敵対する誰かの言葉←ツッコミ、何かの事件←ツッコミ、が繰り返されます。作者のツッコミの言葉が作品内の最終意見であり、これに対する反論は、もちろん書かれることはありません。

 これまでも言われているように、作者自身のキャラクターはあくまで美しくデザインされ、作者と対立する個人、民族は醜くデザインされます。作者の敵は、間抜けや極悪に描かれ、これは場面によって描きわけるという芸の細かさ。

 お見事なのは、作者のキャラが見せる千変万化、変幻自在の表情です。基本は美形で、冷静な語り口ですが、反論するときは「はぁ?」と口をゆがめ、あざ笑うときはあくまで大爆笑。ここぞというときに、ベタフラッシュやカミナリフラッシュのバックで、ぎざぎざフキダシの大声でキメると、敵対者は汗をかいて震え上がります。

 そして、自身を道化として見せることにも躊躇なし。自分のおまぬけな姿や表情で笑わせることも積極的におこなわれ、作者はマンガのキャラクターとしての役割を十分認識しています。

 さらにスペシャル版など、ページに余裕のあるときは、大きなコマをとって、作者が涼しげな目で遠くを見つめる静かな演出も。余裕見せてます。さすがに文章いっぱい詰め込んだページ数の少ないレギュラーの回では、こういう見せ方はしませんが。

 このように「ゴーマニズム宣言」では、論理よりも読者の感情に訴えるテクニックがいろいろと使われています。これこそマンガという形式が得意とするところ。特殊なことをしているのではなく、古典的手法をいろいろ組み合わせているだけですが、そこがベテランの腕、たいしたものです。娯楽作品、ギャグマンガを長年描いてきた蓄積ですな。

 もちろん最大の強みは、「小林よしのり」という、エキセントリックなマンガキャラクターを創造したことです。少なくとも「小林よしのり」は「ゴーマニズム宣言」というマンガ内では絶対正義の士であり、無敵の存在です。おそらく100万馬力の鉄腕アトムよりは強く設定されているはず。

 では、最近評判の山野車輪「マンガ嫌韓流」はどうか。

 以下次回。

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August 18, 2005

「誰も寝てはならぬ」タイトルは適当に決まる

 モーニングの中で、サラ イネス「誰も寝てはならぬ」がどういう位置にあるマンガなのかよく知らないのですが、長期連載になってるから、それなりに支持されてるはずなんだよなあ。それにしては、単行本あまり見かけないし、「大阪豆ゴハン」は連載前半だけが文庫化されたあと、後半は放置されたままであります。

 彼女の描く、絵とセリフとナレーションが渾然一体となったお好み焼きのような人間観察マンガでは、何か劇的なことが起こるわけでもなく、ちょっと変わったヒトたちのちょっと変わったエピソードがスケッチされます。

 なぜかホリの深い顔の登場人物ばかりのタッチもあって、外国マンガの香りもあるのですが、全編、会話の中でオチのある大阪弁が間断なく流れており、いや、楽しい。こういうのが新しい時代のオトナマンガじゃないかと考えるのです。

 このタイトル「誰も寝てはならぬ Nessun dorma」に、何やら深遠な意味が隠されているのじゃないかと以前の記事で「トゥーランドット」のことを調べたりしてたんですが、あらめずらしや、著者のインタビューが「大阪芸術大学 大学漫画」2号(大阪芸術大学/小池書院)に載っております。

 これ、大阪芸大の学生が描いたマンガを中心に編集された雑誌ですが、それ以外にも、杉井ギサブロー・大月俊倫らアニメ制作者のインタビューや、永井豪の大学でのキャラクター講義なども載ってまして、500円ですがそこそこに読むところ多くてちょっと得した感じ。

 サラ イネスのインタビューでは、ペンネーム変更の理由とかも明かされます。で、「誰も寝てはならぬ」ですが、NHK名曲アルバムで流れてた曲から適当にいただいたタイトルだそうです。著者はこの曲、聴いたこともないんですと。ああっ、もうっ。

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August 16, 2005

二周年

 えーと、ネット上で文章を書き出してから、まる2年たちました。ウチはカウンターつけてないのでトータルの来訪者数は不明なのですが、ここ1年間だけで言うと(解析サイトがそれ以上さかのぼってくれないので)、ページビューで29万、ユニーク数で13万の方々に見ていただきました。大手のサイトには及ぶべくもありませんが、わたしにとっては望外の数字であり、ありがとうございます。

 文章を書いてそれをネットに晒すという行為の原点は、「書きたい書きたい、見せたい見せたい」という欲望でしょう。基本的に内容はどんなものでもいいはず。やったー、サマージャンボで13000円当たったー(実話)でも、○○製粉のカップラーメン新製品は史上最高傑作だー(実話)でも、なんでもいい。

 わたしの場合、それがマンガにかたよってるので、マンガをテーマに書き始めてみましたところ、けっこう、ネタはあるものです。最近の自分にとって文章を書くモチベーションになってるのは、ネットで読める他の方々のマンガに関するいろんな文章です。

 こんなマンガ知らない、こんな作家はじめて、それは読んでない、先こされちゃった、そんな見方があるのか、うまい文章だなあ、くやしいぞっと。

 最先端であることは不可能ですので、あせらず、ゆっくり、後衛をつとめながら、書き続けられたらいいなあと思っております。これからもよろしく。

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August 14, 2005

これも読者限定マンガかな

 喜国雅彦+国樹由香「メフィストの漫画」は、講談社メフィストに連載されたマンガ中心に編集された本で、ミステリ読者「だけ」を対象にしているという、えらいこと偏った本です。わたし自身はある程度の日本人ミステリ作家は読んでるつもりなんで、とくに前半、喜国雅彦パートの「ミステリに至る病」はけらけら笑いながら読みましたが、これは非ミステリ読者にとって面白いのか。

 喜国と似たマンガを描く作家に、いしいひさいちがいますが、実際のところ、いしいのミステリパロディは本の内容を知らないとかなりキツイっす。ルース・レンデルを読んだことのない読者が、レンデルをネタにされても意味わからんでしょ。

 喜国雅彦でも、「乙一と乙葉夫婦説」ネタなどはこりゃキツかろ。さすがに永島慎二やらつげ義春やら福本伸行やらのパロディで、ミステリを知らなくても読ませようとしてるところが、芸です。ただ、読者によっては、すでに永島慎二を知りません。つげ義春パロディを読んでも、水木しげるでしょ、などと言われちゃう。

 で、この本、講談社とはいえ、「文芸図書第三出版部」という、ミステリ部署の担当で、マンガ編集部から出されてるわけじゃないんですね。ということは、マンガなみに売れなくても、ミステリ小説程度の発行部数でいいのかな。きわめて限られた読者を相手にするマンガの内容で、かつ売るほうもそれでいいと考えている。

 これからのマンガは、ビッグヒットを狙うのじゃなくて、小規模の読者相手の作品が増えていくのかしら。はやりの続編マンガやリメイクマンガも、原作品以上の読者を得られるとは考えていないでしょう。マンガがスキマ産業化していくのは熟成? 爛熟? 衰退?

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August 12, 2005

「月館の殺人」を推理する

 大阪朝日放送で「安楽椅子探偵」という不定期のドラマシリーズがあります。1999年から5作が放映されてまして、出題編で殺人事件がおこり、視聴者から推理を募集して、一週間後の解決編で種明かし。わたし、これに毎度応募してます。いつも犯人は当たるのですが、推理の根拠のツメが甘く、惜しいところで美しい回答にはならないんですけど。

 この安楽椅子探偵シリーズを書いてるのが、綾辻行人と有栖川有栖でして、番組ではおもに消去法で推理されることが多いから、どちらかというと、有栖川有栖テイストでしょうか。トリックや推理のヒントを、文章じゃなくて映像で見せる工夫がなかなか面白くて、賞金付きということもあって、推理は燃えますよー。

 綾辻行人と佐々木倫子が組んだミステリマンガが「月館の殺人」、まだ連載中ですが、上巻が発売されました。殺人が起こり、しかも密室で、容疑者は限られている。綾辻行人はマンガだからこそ可能なトリックやヒントを仕掛けているに違いない。

 で、下巻が描かれる前に、推理してしまおうという、無謀なことをしてみます。8月25日になったら雑誌で続きが読めるのですから、以下から書くことが全部スカタンになっちゃうかもしれませんが。

■ 以下、おもいっきりネタバレします。未読のかたはご遠慮ください。

 沖縄在住の高校生・空海(そらみ、♀)が、初めて祖父に会うため、北海道を訪れます。彼女が、稚瀬布(ちせっぷ)発月館(つきだて)行の豪華列車、蒸気機関車に引かれる幻夜号に乗り込むと、それは貸しきりで乗客が空海以外に6人。しかも全員が鉄道オタク。その他に乗務員が6人。発車時間は夜。外は吹雪。翌朝、乗客のひとりが起きてきません。個室のドアを開けるとそこには刺殺死体。密室殺人だ。警察に連絡するために列車のドアを開けると、走り続けていると思われた幻夜号は、豪邸の前に停車しているではありませんか。(上巻終わり)

(1)幻夜号はホントに走っていたのかどうか。

 上巻で最大の謎は、上巻ラスト。走っていたはずの幻夜号が、なぜか停車しているシーン。幻夜号はホントに走っていたのか。

 機関車は、ボエーッとかボッボッとか音を出して走ってるシーンがあるから、確かに走ってるんでしょうが、客車のほうはどうなのか。機関車が客車を引いて走ってるシーンも、第2話や第3話に登場しますが、引いてるのは、ホントに空海達が乗ってる客車なのか。別の客車じゃないのか。

 幻夜号は稚瀬布発月館行。12月25日20時40分発で翌日7時着。時速60kmで10時間20分。距離にして620km。北海道突き抜けちゃうぞ。

 鉄道オタクたちの目的は、空海の祖父にお宝を見せてもらうことらしいのですが、もし月館で門前払いにされたら、「稚瀬布で駅寝」しなきゃいけないらしい。ということは、月館と稚瀬布はごく近い位置関係にあるはずです。

 空海の乗ってる列車は上巻のあいだ、ずっとカタンカタンと音がしてるので、走ってる(ように思われる)。夜で吹雪なので、車窓からの景色が不明なのですが、イナビカリのときには一瞬だけ外が見えます。

(2)イナビカリのときの景色

 どんな景色が見えたのでしょう。

・第2話:食堂車:木と電柱
・第2話:食堂車:木と電柱
・第3話:プルマン車:不明
・第4話:ピアノバー車:不明
・第6話:食堂車:木と電柱
・第6話:プルマン車:駅

 食堂車から見える景色が、あまりに同じすぎる。列車が実は停止しているというヒントなのかしら。

(3)主人公はなぜ沖縄生まれなのか。

 主人公は、母親が鉄道嫌いだったため、生まれてから一度も列車に乗ったことが無いという設定です。沖縄県人なら、他県の人間と違って鉄道を利用したことが無くても、ありえなくはない。このための沖縄設定に違いない。

 フツーの人なら、列車に乗れば、動いているのか止まっているのかわかるはず。しかし、主人公は列車に乗ったことが無いから、列車が走っているのか止まっているのかが、体感ではわからなかったのです(←オイッ)。

 というわけで、わたしの推理としましては、機関車は別のところを走っており、主人公が乗っている客車は最初から、止まったままであったというものであります。カタンカタンという音は効果音ね。稚瀬布駅と、空海の祖父が住む月館は同じ敷地内にある。

 他にも、グラスのジュースがまったく揺れてないのも補強的な材料。「乗下車の旅 月館本線」という本をみんなが持ってますが、駅名が難しくてフリガナふってるというのも、鉄道オタクとしてはどうか。架空の駅だから覚えてないのじゃないかしら。さらに、列車の窓からアライグマを餌付けしている乗務員がいますが、これも列車が停止しているからこそ。

(4)殺人現場は密室なのか。

 列車が停止していて、客室の窓が開いていたのですから、密室は成立しません。ただし、吹雪の中を列車まで殺しにやってくる物好きもいないでしょうから、犯人は、列車内、あるいは屋敷の人物に限られるはずですが。

(4)なぜ、列車が走っているように思わせたのか。

 現在のところわかりません。空海以外の乗客、乗務員は列車が停止していたのを知ってたみたいです。空海をミスディレクションするためか。単なるシャレなのか。

 鉄道オタクたちが見たいお宝を持ってるというのですから、空海の祖父も相当のテツに違いない。そして、第二の殺人はいつおこるのか。犯人は誰か。

 以上、わたしの推理です。全部デタラメの可能性も大。でもいろいろ推理するのは楽しいなあ。


■追記:「月館の殺人」下巻を読んでの感想はコチラ

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August 10, 2005

マンガの時間:「コマ」から「フィルム」へ

 秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』読み終わりました。主に、日本マンガと日本アニメにおける表現の特異性と関係性を論じたもの(という理解でいいのかな)で、特に前者から後者への影響を細かく分析しています。いや、面白かった。

 マンガとアニメを比較するとき、大きなテーマが「時間」です。

 本書の中で著者が多く引用しており、特に影響を受けたであろう本が3冊。ジェラール・ブランシャール「劇画の歴史」(1974年河出書房新社)、米沢嘉博編「マンガ批評宣言」(1987年亜紀書房)に収録されている加藤幹郎「愛の時間 いかにして漫画は一般的討議を拒絶するか」、そしてスコット・マクラウド「マンガ学」(1998年美術出版社)です。

 著者が本書の内容の基礎となる論文を書いたのが1990年ですから、1998年に訳されたスコット・マクラウドから影響を受けるというのはヘンな話なんですが、マンガ内の時間を語るなら、「マンガ学」は無視できない本でしょう。

 マンガのコマに描かれるのは「瞬間」のようでも、実はセリフや擬音を読む「時間」が経過している。動線があるなら、その距離を移動する「時間」がある。さらにコマの大きさが時間経過に比例する。これらは、マンガにおける時間を考えるとき刺激的な問題です。

 マクラウドが、時間に対する作者側の仕掛けを語るの対し、加藤幹郎「愛の時間」は、マンガ内の時間経過を決定するのは読者であるとします。加藤幹郎の文章は「漫画=時間」という魅力的な命題を提出しています。「サイボーグ009」でジェット機の墜落を遠景のサイレントでとらえたシーン、「のたり松太郎」の上方からのモブシーン、「じゃりん子チエ」の過剰なフキダシとセリフを例にあげ、コマ内での時間経過はそれぞれの読者の読むスピードにより異なるとして、これを「愛の時間」と呼びました(マンガへの愛ですな)。

 秋田孝宏も、マクラウドや加藤の論を受けて、複数のコマが同時の瞬間をあらわす例や、少女マンガに見られるような、枠線が無くコマが溶け合うような例を出して、マンガの時間構造を考察していますが、このあたり楽しいわ。作例として出されている、北条司の「キャッツ・アイ」などは、いやー、お見事なコマわりで感心しましたし、こせきこうじの「山下たろーくん」で、ピッチャーがボール投げてからバッターが打つまで、ボールが空中にある2ページの間、チームメイトが解説しまくってるのにも笑った。

 ジェラール・ブランシャール「劇画の歴史」は、ヨーロッパ、アメリカにおけるマンガの歴史を旧石器時代までさかのぼって俯瞰した本です。ここで言う「劇画」とはフランス語の「bande dessinee」の訳語で、戦後日本のいわゆる劇画とは何の関係もありません。

 西欧のマンガの歴史を必要十分に知るための好著だと思ってるんですが、なんせ訳文がひどいので評判が悪い本なんだよなあ。「劇画の歴史」は映画やアニメーションの誕生についても書かれており、これら後発の芸術は、誕生したときにはマンガから影響を受け、のちには逆にマンガに対して影響を及ぼしたと。

 マンガとアニメの関係を考えるという意味で先達の書ですが、『「コマ」から「フィルム」へ』では、さらに戦後日本で手塚治虫がTVアニメ「鉄腕アトム」を作ったとき、日本マンガの影響のもと、従来のアニメーションとまったく異なる「アニメ」が出現したと説きます。

 経済的、時間的制約のため出現した、動かない日本アニメをネガティブにとらえるのがジブリに代表される東映アニメーション視点。これに対して押井守には、「鮮やかな印象を与えるには、むしろ動画の枚数は少ない方がいい」という発言まであって、動かないアニメはすでに日本アニメのお家芸になっちゃってる。著者は、こういう動かないアニメの表現は日本マンガより影響されたものだと述べます。

 手塚マンガへの映画からの影響がよく語られますが、もう一回りして日本アニメはマンガから創られたとも言えるんですね。

 そしてマンガとアニメを比較してマンガに戻ったとき、『「コマ」から「フィルム」へ』の中で、最も興味深かったのは、作品内の時間の流れを決めているのは誰か、という話です。

 映画(TVやアニメも含まれる)、芝居、文学の朗読なら、時間の流れは自分ではない他者が決定しており、ストーリーの逆行は不可能。ただしビデオなら、巻き戻しやストップモーションをかけることで、時間を一部だけですが自分が管理することが可能になります。

 文学の黙読は、時間を管理するのは読んでいる自分ですが、文字の流れは時間軸に沿って一直線であるという意味で、フィルムやテープと同じ。著者はこれら時間的に一直線の流れを持った映画や文学を、「一次元的なメディア」と呼んでいます。

 これに対しマンガは、「読む」ことで時間を管理するのが自分、そして大きくページ全体を眺めたとき、時間と空間を同時に一望できる「二次元的なメディア」であると。新しい言葉が定着するかどうかは別にして、これは説得力あるなあ。

 そうか、かつてのコママンガが、単なるコマの羅列に過ぎなかったのに対し、現代マンガは、ページごとのコマわり、さらには見開き2ページを一単位とするコマわりを発明し、進歩させたことで、新しいメディアとなったのか。

 うーん、ならば将来、コンピュータのモニタでみるデジタルコミックは、どうなるのか。1ページを一望できなくなったとき、そして見開き2ページの単位がなくなったとき、マンガはどう変化していくのでしょう。

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August 08, 2005

復刊というお仕事

 復刊ドットコム/ブッキングのサイトはときどき覗いてましたが、実は、何をしてる会社なのかよくわかっておりませんでした。自分の知ってる印刷会社情報などは提供したことあったんですけど。

 左田野渉「復刊ドットコム奮戦記」が刊行されました。表紙のイラストが藤子不二雄A、オビの推薦文がみなもと太郎。造本で驚いたのが、オビで著者の名前が隠れちゃってること。こういうオビは珍しい。著者はブッキング成立時からの中心人物で、多くの復刊交渉を自身でされています。これを読んで、やっとわかりました。復刊ドットコムって、基本的には、ネット書店だったのね。

 復刊リクエストをもとに、出版社と復刊の交渉する。復刊されたらその本を自分のサイトで販売し、ネット書店としての利益を得る。じゃあ、復刊された本を復刊ドットコムで買ってあげなきゃ、利益は出ない。ごめんなさい、復刊ドットコムが扱った本はいっぱい買ってるんですが、書店としては1回も利用したことがありませんでした。

 最初に復刊交渉して成功したのが三原順の絵本「かくれちゃったのだぁれだ」。以来、最近のものでは、あのイギリスのアチャラカSF「銀河ヒッチハイク」シリーズまで多数の作品を復刊しています。最近マンガ方面では、マンガショップ/パンローリングから、桑田次郎とか園田光慶の作品がいっぱい復刊されており、いや、お世話になってます。

 現在では、出版事業も開始、出版社との交渉で復刊できなかった書籍を自分のところで出版しています。この方面の代表作が「ダルタニャン物語」と「藤子不二雄Aランド」。

 現代の日本では、著者・出版社・流通・読者の求める理想は、まったくの同床異夢です。その中で橋渡しをしようとする著者の行動は、それぞれから非難の対象になったりして、苦労ばかり。しかし、理想を追い求める著者の行動は経済的な成功を得、その意味ではこの本、ビジネス書でもあります。

 紙に印刷された形の「本」が、今後いつまで存在するのかはわかりません。ただし、所有欲があるかぎり、いくら図書館があっても、ネットにデータがあっても、本は生き残るのじゃないかしら。それは、とり・みきの「ダイホンヤ」「ラスト・ブックマン」に描かれたように美術品やコレクターズアイテムの形であるのかもしれませんが。

 企業人でもある著者は、もちろん電子書籍も視野に入れていますが、どうも心の底では「本」というパッケージから離れられそうもないと見たがどうか。実はわたしもそうなのです。

 著者は本が大好きで仕事に誇りを持っている。こういう人の文章はいいなあ。書物を愛し、出版を考える人、みんなの必読の書であります。

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August 06, 2005

宮西計三復活

 別冊新評が「石井隆の世界」に続いて、「三流劇画の世界」を特集したのが1979年4月。このときは「三流」に「エロ」とルビをふってありました。

 今では「三流劇画」じゃ意味不明ですから、「三流エロ劇画」のほうがとおりが良い。三流とはひどいネーミングですが、おそらくは外部からじゃなくて、実際にエロマンガ雑誌を作っていた編集者が、韜晦の意味をこめて「三流」と自称し始めたのでしょう。

 代表作家は石井隆と考えられていますが、実際のところ石井隆が活躍した雑誌は、いわゆる三流エロ劇画誌じゃなくてヤングコミックとかだったし、石井自身はこの「三流劇画」という呼称を嫌っていたようです。

 それはともかく、確かにこの自販機で発売されるようなエロマンガ雑誌がやたらと面白い時代がありました。「エロトピア」を先駆として、御三家が「漫画大快楽」「漫画エロジェニカ」「劇画アリス」。わたし自身は「ガロ」からの流れで、ひさうちみちおを追っかけて「大快楽」買ってました。

 「三流エロ劇画」ブームの歴史的意義については、また別の機会に。

 別冊新評「三流劇画の世界」で、「ダーティ・コミックス15人」として取り上げられたのは、あがた有為、飯田耕一郎、井上英樹、いかづち悠、小多魔若史、清水おさむ、ダーティ・松本、中島史雄、能條純一、羽中ルイ、福原秀美、宮西計三、村祖俊一、やまもと孝二、吉田英一。

 彼らのうち、ダントツの絵の密度を誇っていたのが、宮西計三です。

 細い精緻な線で描きこまれた斜線、汗、涙、血管、血液が、奇妙にデフォルメされた肉体を彩ります。わたしが持ってるもっとも古いのが、ああ、自販機本なんで発行日も価格も書いてないや、「増刊劇画アリス 宮西計三/つか絵夢子の世界」というB5の雑誌で、おそらく1978年の発行。1979年にはブロンズ社から、第一作品集「ピッピュ」が発売されました。ひさうちみちおの第一作品集「ラビリンス」と同時発売でしたから、そういう立場の作家だったとわかってくださいな。

 宮西計三は長らくマンガの仕事を休止しており、最近は道出版のみやわき心太郎の本で、編集者みたいなことしてました。でもやっと、松文館の「ほんえろ」(一応雑誌かな)で、32ページの作品「エレベーション Sa・Yo・Na・Ra」を発表してます。

 以前の作品より、ストーリー性が高まってますが、相変わらずの過剰なイメージと絵がストーリーの展開をじゃましており、そのアンバランスさがたまらん。宮西計三作品にストーリーはいらんのですよ。イメージの奔流があれば十分。もっともっと崩れた作品を描き続けていただきたいものです。

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August 04, 2005

まんが道もいろいろ:あすかあきおの場合

 あすかあきお=飛鳥昭雄といえば、アッチ方面のアレな人ととして、一部で有名なかたですが、実を言いますと、スミマセン、マンガは一作も読んだことありません。飛鳥昭雄名義の文章のほうは、少しだけ読んだことがあるんですけど。

 で、飛鳥昭雄「漫狂画人 飛鳥昭雄の漫画家人生」という自伝が発売されてます。著者は1950年生まれ。マンガ家、平行して「サイエンス・エンターテイナー」として文章の仕事も。もちろん有名なのは、超科学とか、超古代とかのアレな仕事です。マンガ家になるのだと決心して本当にそれを実現し、現在まで活躍されているのですから、成功者の自伝ですね。

 この本の何がスゴイかというと、自身の幼少期からの習作を数多く収録してあるところ。

 ふつう、自分の過去の作品てのは、なかなか人に見せられるモノじゃありません。手塚治虫くらいの天才になると、幼少期の習作も研究対象になるくらいですから、見せてくれなきゃ困るんですが、通常、プロの作家でも、自分の子供時代の作品は明らかに未熟だから見せるのをいやがるみたい。

 ところが著者はこの本に、これがもう、小学生時代の落書きから高校時代の壁新聞形式のマンガまで、これでもかというくらいなんでも詰め込んであります。

 現代はアマチュアの絵のレベルが上がってますから、今の目から見ると、はっきり言って、ヘタです。投稿しても落選ばかり。それでもマンガを描き続け、初志貫徹してマンガ家になってしまうのですから、エライ。「月刊OUT」などへの掲載を経て、ついに1982年、32歳でコロコロコミックの第4回藤子不二雄賞に佳作入賞。

 いやあ、なせばなるってのはホントですね。著者の思いこみというか、ポジティブ・シンキングというか、これが良い方に働いたのでしょう。

 たとえば、投稿作品が賞に落選しても、作品のデキが悪かったからとは考えない。諸作品に対する反省は以下のとおり。

「悲しいかな応募規約や常識面でミスを犯してしまっていた」
「それにしても日系アメリカ人の大人の主人公は、さすがに少年マンガには不適格だった」
「当時は低年齢層を狙った少年誌で、そこへドイツ青年を主人公にしたマンガで応募しても、最初からツボを外していたと言える」
「ストーリー的には完成度が高かったが、出てくる登場人物をアメリカ人で固めたのがよくなかったかのかもしれない」

 ポジティブだなあ。

 いちばんスゴイのは、1964年中学1年の時、第1回講談社新人漫画賞に投稿して落選した作品について(このときの入選者が里中満智子です)。その作品は「チップピーター」というタイトルの、アトムのパチモンみたいなマンガだったのですが、

 そんなある日、私のマンガは不可解な現象を起こしはじめる。
 手塚氏の『鉄腕アトム』の中に「地上最大のロボットの巻」があるが、その中で、宿敵プルートウを倒した「ボラー」というロボットがいた。
 じつはこのボラーのデザインは、『チップピーター』に出てきた生体ロボットのデザインそのままだったのである。

 さらに、同じ『チップピーター』に登場したポカネ親分の顔が、「少年ブック」の『新選組』に登場し、さらにピーターの耳飾りをそのまま黒色に変えただけの『ジェッター・マルス』が手塚作品に登場した。

 ボラーのときは偶然かもと思ったが、『新選組』でほぼ間違いないと思い、『ジェッター・マルス』で確信へと変わった。(略)

 天下の手塚氏が、まだ中学1年生にすぎなかった私を叩きつぶそうとしたことは、考えてみれば非常に光栄だったことになる。

 うーんポジティブ。ちなみに、第1回講談社新人漫画賞の発表が1964年の半ば。「地上最大のロボット」は1964年作品で、「ジェッターマルス」は1977年ですが、飛鳥センセイ、「新選組」は1963年の連載ですよー。

 著者は、吾妻ひでお、いしかわじゅん、すがやみつる、夏目房之介、さらには24年組の少女マンガ家たちと、ほぼ同世代になります。同時代を生きててもいろいろなヒトがいるもんだ。

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August 02, 2005

テプフェールその後

 7月22日のエントリで、ロドルフ・テプフェールのことを書いたあとも、彼のことを調べてまして、図書館で、彼の書いた「アルプス徒歩旅行 テプフェル先生と愉快な仲間たち」を借りてきて読んだりしてました。そして、スコット・マクラウドの「マンガ学」にも「ルドルフ・テファー」の名でテプフェールが登場してるのを見つけて、やったー、などと思っておったらなんと。

 本日手に入れた、秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』という本を読んでると、ありゃりゃ、「ルドルフ・テプフェル」というタイトルの一節で、彼のことがくわしく書いてあるじゃないですか。しかもわたしの文章より、当然ですが、ずっときちんとしている。

 今後はルドルフ・テプフェルで記載しますが、テプフェルのことを考えてくれてる日本人がちゃんといた、ということがうれしい一方で、なーんか先こされちゃったなあ。苦手な英語のサイトもけっこう読んだんだけどなあ。がっくし。

 しかもこの本、いずれわたしもきちんと読もうと思ってた「イエロー・キッド」についてもくわしく書いてあります。さらに、前からすごく気になっていたことですが、別冊宝島EX「マンガの読み方」には欠落してて、スコット・マクラウド「マンガ学」で細かく触れられていたマンガのコマ内での時間の流れについても、「マンガの時間構造」という一章があります。

 というわけで、この本、じっくりきっちり読ませてもらおうじゃねえかこの野郎。

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August 01, 2005

さすがに重かった

 しばらく書店にも寄ってなかったので、一気買いになってしまいました。

・みなもと太郎「風雲児たち幕末編」7巻:最近は年2冊ペースですから、あと13巻続くとして7年か。
・「コスミコミケ(1)パロディ古典古典」:エロでもヤオイでもない同人誌アンソロジー。同人誌にくわしくないので、こういう企画はうれしい。
・片岡人生/近藤一馬/BONES「交響詩篇エウレカセブン」1巻
・菊地直恵/横見浩彦「鉄子の旅」4巻
・ジョージ朝倉「平凡ポンチ」3巻:ああ、よくわからん。
・吉田秋生「イヴの眠り」4巻:「BANANA FISH」「YASHA」より読みやすく思うのは、主人公がオンナノコだからかしら。
・吉田戦車「殴るぞ」7巻:もはや枯淡の境地。
・三宅乱丈「秘密の新選組」1巻
・きづきあきら「ヨイコノミライ!」3巻
・こうの史代「長い道」
・岡野玲子/夢枕獏「陰陽師」12巻:ついに完結まであと1巻。最近の数巻は難解このうえなく、誰か解説してくれー。
・田丸浩史/ゆうきまさみ「マリアナ伝説」3巻
・フリースタイル創刊号

 と、計13冊。さすがに重かったです。

 近所に置いてなかったのでネットで注文したのが、平田弘史「叛逆の家紋」。「楳図PERFECTION!」は、手持ちの楳図本をチェックしてから。

 あと、洋書の、マンガの、古本、が1冊欲しくなってしまい、初めてアメリカのアマゾンのマーケットプレイスを利用してみました。

 日本のアマゾンの古書価格は訳のわからん無法状態となってますから、さすがに利用したことはありません。和書の古書は、楽天フリマやスーパー源氏での検索、ヤフーオークションのほうが、まだまともかも。

 洋書の古書を買うのは初めてなんですが、アメリカのアマゾンのマーケットプレイスにはプロの古書店も参加してるようで、値段がわりと納得できます。問題は送料でして、定価55ドルの本が古書価格で18.47ドル。送料と手数料が9.79ドル(陸路と船便を使って約1カ月)。さて、ちゃんと手許に届くかどうかドキドキ。

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