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July 18, 2005

マンガって何

 洋書ですが、「PLAYBOY: 50 YEARS: THE CARTOONS」というケッコウな本がありまして、どこがケッコウかというと、ハードカバーで、でかくて、重たくて、オールカラーで、50ドルというお値段。ただし、内容もそうとうケッコウなものです。

 雑誌プレイボーイの50周年記念の出版物は、「PLAYBOY: 50 YEARS: THE PHOTOGRAPHS」というヌード写真を集めたものも2003年に出版されており、こっちのほうは集英社から日本語版が出てます。「THE CARTOONS」は、この本とペアになる形で2004年に出版されたものですが、さすがに日本語版は刊行されませんでしたねー。

 「THE CARTOONS」は、プレイボーイ誌に50年にわたって掲載されたマンガを集めたものです。ほとんどがヒトコママンガで、多いのはもちろん艶笑ネタ。

 大判の、カラーの、「大人のエロ」の、ヒトコママンガという、すでに日本ではほとんどお目にかからなくなったジャンルですが、450点以上並べられると壮観。このジャンル、アメリカやその他の国では現在もそれなりに人気があるんでしょうか。

 で、これだけのヒトコママンガを眺めていると、マンガをマンガたらしめてるものって、何だろうと。

 コマがふたつ以上並ぶコママンガこそ、もっともマンガらしいマンガといえるでしょう。マンガの進歩はコマの進歩と同義です。マンガの将来は連続したコマの中にこそあり、今後日本においてマンガがヒトコママンガに回帰していくとは、まず考えられません。

 ただし、ヒトコママンガというものは、現在ちゃんと存在しています。ある絵を見て、こりゃマンガだなあと、認識するのは何を見ているんでしょうか。「単純な線」と「デフォルメされた絵」で「滑稽な印象」を与えたらマンガである、という古典的定義は、確かにそれなりに納得できるんですが、現代においてもそうなのか。

 さて、ここにモナリザの絵があるとします。これを見たとき、マンガであると思わせるにはどうしたらいいか。

(1)続きのコマを描く。連続したコマが存在すれば、マンガと認識できそう。

(2)いわゆる漫符を描き加える。コメカミに汗をたらす。目の上に縦の斜線を描く。マンガに特有の記号を追加することで、絵全体の印象がマンガとなります。

(3)フキダシとセリフを描く。擬音でもいいです。マンガの大きな特徴は「絵」と「字」が両立していることです。フキダシとセリフがあれば、これはもうマンガとして読めるでしょう。

 ところが、プレイボーイのヒトコママンガのほとんどは、汗や動線といった漫符の使用や、フキダシ・擬音も無く、静かな一枚絵です。そのかわりに、絵の外部にキャプションが添えられます。多くは、登場人物のセリフです。これがあるとマンガに見える。

(4)絵の外にキャプションを付け加える。

 キャプションは、絵の内部のフキダシとセリフに代わるものといえますが、字を絵の外に持ってくることで、絵の内部から音が消え、どんどん静かになっていきます。音がなくなると、大人マンガになっていくわけですね。

 さらには、キャプションすらないヒトコママンガが存在します。こうなると、形式的には一般の絵画と区別がつかない。ある種のヒトコママンガは、やっぱり絵画と同じものとしか言いようがなくなってしまいます。マンガは形式から離れると、「単純な線」「デフォルメされた絵」「滑稽な印象」という古典的定義にもどってしまうようです。

 コドモの落書きは、どうしても「マンガ的」と感じてしまいます。「滑稽な印象」はなくとも、「単純な線」と「デフォルメされた絵」だけで、わたしたちはそれをマンガ的と認識する。つまりマンガとは絵柄なのでしょうか。

 サタデー・イブニング・ポスト誌の表紙で有名な、ノーマン・ロックウェルの絵には、当然漫符もフキダシもありません。絵柄はかなり緻密ですが、一枚の絵の中にストーリー性があり、ユーモアを感じさせます。わたしたちはこのロックウェルの絵を、「マンガ的」と読み取ってしまう。つまりマンガとは滑稽な印象なのでしょうか。

 結局、現代のわたしたちがある絵をマンガであると認識するには、マンガの構成要素の、形式・絵柄・滑稽のすべてが必要なわけではなく、それぞれが単独でも成り立つような気がします。

 マンガの定義そのものが無意味なのかもしれません。「北斎漫画」から現代のマンガまで、同じ「マンガ」という言葉を使ってはいますが、その意味する内容はまったく別のモノに変化してきたはずです。過去から現在にまで存在する、その時代のある種の絵画をわたしたちは「マンガ」と呼んできました。ところが、マンガは一定の形をとり続けたことはありません。時代にともない対象そのものがどんどん変化しているから、当然マンガ的と考えられるものも変化しています。

 すでに文章中で「マンガ」と書くとき、「Comic」「Cartoon」や「BD」まで含めた大きな意味のマンガなのか、目の大きな少女が活躍する、スタイルとしての「Japanese Manga」なのかを、区別する必要さえ出てきています。

 というわけで、マンガってやっぱりとらえどころのないヌエみたいなモノなのね。今回、中学生の寝言みたいな文章でスミマセン。美術の専門書とか読むと、もっときちんと書いてあるんでしょうけど。

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Comments

いや面白いです。考察の過程がいちいち面白くて。特に『音がなくなると、大人マンガになっていく』という指摘が白眉。結論もやっぱりこういった地点に着地するしか無いんじゃないかと思います。美術専門書だと逆に僕らの実感からは乖離した説明が為されるような気がします。

Posted by: 池本 | July 18, 2005 05:05 PM

コメントありがとうございます。形式からマンガとはこれだ、と定義するとどうしてもこぼれてくるものがでてきます。とくにヒトコママンガがそうでして、これをなかったものにすれば、楽なんですけどそうはいきませんし。

Posted by: 漫棚通信 | July 19, 2005 09:40 PM

いつもたいへん楽しく拝見させていただいていますが、今回はことのほか面白かったです! こういう原理論的な考察って、実は最も難しいことなんですね。来月刊行予定の書き下ろしでも少々これに類する議論はやっているんですが、どうもマンガである/ないの境界を分けるのは、一枚絵に時間的な連続性を見出すか、見出さないかの差であるようです。

それと、少なくとも日本語の「美術の専門書」には、この手の議論は全くなされていないと思います(それなりに調べましたが)、下手をすると、このブログでの整理が、現在の日本代表クラスでまとまったものになっているんじゃないかと。。。

Posted by: 伊藤 剛 | July 20, 2005 12:11 AM

過分に誉めていただきありがとうございます。結局このエントリ、結論がきちんと出せませんでした。一枚絵における時間的な連続性とは? 御著書、楽しみにしております。

Posted by: 漫棚通信 | July 20, 2005 06:19 PM

あと、とんがりやまさんのブログで指摘されちゃいましたが、モナリザを例に出したのは、デュシャンの、あのヒゲのモナリザが頭にあったからです。ヒゲを描いただけで、マンガになるかと言われると、やっぱ無理でしょ。あれ、わたしも中之島で現物見ましたが、もっとでかいと思ってたら、えらくちっちゃいものだったんですねー。

Posted by: 漫棚通信 | July 20, 2005 06:35 PM

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