「フーテン」のおわり
永島慎二が亡くなりました。
「フーテン」は、おそらくわたし持っているマンガのうち、最もくり返し読んだ作品です。一時は年に一回かならず読むようにしてました。わたしの手許にあるのは、1972年青林堂刊の上下巻のヤツ。豪華限定版の一巻本も発行されてますが、普及版の上下巻でもハードカバーで立派なものです。
「フーテン」は1967年虫プロ「COM」で連載が始まり、1968年に永島の長期のアメリカ旅行をはさんで、1969年からは秋田書店「プレイコミック」に連載を移して1970年に終了。
児童マンガ家・長暇貧治はマンガが描けなくなり、新宿でフーテンと呼ばれる若者たちと遊んでいます。時代は1961年から1963年。このころの長暇を中心に、周辺の若者たちをスケッチした作品です。若者の夢と彷徨を描いた作品として、先駆的かつ名作でありました。
よく私小説的と言われますが、主人公がマンガが描けなくなったと言って悩むのが新しかった。ここまで女々しい主人公はそうはいません。かつて、わたしがこの作品に強くひかれたのも、この文士的女々しさが心地よかったからじゃないか。ニッポンのオトコノコは弱音を吐くのを禁じられていました。だからこそ、そのタブーを破るヒトビトがうらやましい。
ただし、長暇貧治はマンガが描けない描けないと言っていますが、実際の永島は、この時期1961年から「漫画家残酷物語」の連作を開始しており、悩みながらも名作を描き続けていました。
生活は苦しかったらしく、1964年から1966年までは虫プロでアニメ制作に参加。その後1967年からは、「COM」「ガロ」「週刊少年キング」の3誌に同時に作品を発表するという、メジャーとマイナーをまたにかけた活躍。さらに朝日ソノラマなどから単行本も次々と発行され、永島ブームが到来しまた。
1970年7月、プレイコミックで「フーテン」が終了した時の文章。
この度、P・Cにて1年近く、れんさいさせて戴いた“フーテン”を未完ながら、一度おわらせたいと決心しました。
このところ、又体の調子をくずして、再度入院することとなり、その上、現在の私は作品を作る意欲にかけます。
このまま描きつづけることは、たとえできたとしても。それは惰性にすぎず、読者諸兄および自分にまでウソをつくと、イヤ、うそをつきつづけることになると考えるのです。少しオーバーにいえば“フーテン”は私のライフワークになるはずでした。その“フーテン”をはなしなかばで投げだす漫画家としての私は、すでに職業漫画家としては失格で、今までも何回か作品なかばにして挫折して来ましたが、今度の場合その集大成とも、いえるのではないかと思います。
少年キングの「柔道一直線」からの降板はこれより先、1970年春です。永島慎二はいつまでも「悩めるマンガ家」でした。
1972年に少年向け短編で小学館漫画賞受賞。1980年代からはストーリーマンガからはほぼ引退状態となり、イラストや「旅人くん」などの4コマ中心に。晩年には、「フーテン」続編として虫プロ興亡記なども計画されていたようですが、果たせぬ夢となりました。
ご冥福をお祈りします。
Comments
ガンアクションは貸し本期に描いているので、
回帰的安定感がありますね。
Posted by: 砂野 | July 09, 2005 09:43 PM
COM、ガロ、柔道一直線と同時期、少年画報に梶原一騎原作で「挑戦者AAA(トリプルエース)」というのが連載されてまして、確かガン撃ちまくるスパイアクション。わたしは大好きだったんですけどねー。
Posted by: 漫棚通信 | July 08, 2005 07:39 PM
フーテンは連作であっても短編で、
製作に限界があるのは短編作家の宿命とも
言えますね。ここから逃れる条件としては
★手塚のように短編のネタが桁はずれに多い
★アイデアに苦労しない長編を描く
★小説の漫画化など脚本を他に求める
ですが、彼はどれも合わなかった。
ワタクシ的には梶原ではなく、
たとえば漱石の「三四郎」を永島が描いていたら?という考えが浮かびます。
ご冥福をお祈りします。
作家は死んでも作品が生きているから
常人よりずっと幸福ですね。
Posted by: 砂野 | July 07, 2005 11:27 PM