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June 01, 2005

「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」を読んだのだ!!

 伝説の少年サンデー赤塚番編集者・武居記者が、回想録「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」を書いたのだ。今回のエントリのタイトルは誰でも思いつくフレーズだから、みんな使ってもいいのだ。これでいいのだ。

 著者・武居俊樹は1966年に小学館に入社し少年サンデー編集部に配属され、その年から1974年まで赤塚不二夫を担当しました。赤塚不二夫を囲む座談会に出てくる編集者、というより、「レッツラゴン」に登場して、赤塚不二夫をいじめまくるキャラクター「武居記者」でおなじみ。

 サンデー、マガジン間の熾烈な戦いは、手塚治虫の「W3事件」や、劇画作家の奪い合いから語ることもできますが、この本はもちろん赤塚不二夫が中心です。

 著者が赤塚を担当し始めた1966年11月は、少年サンデー「おそ松くん」の黄金期。ただし、その年の夏には、マガジンがサンデーを発行部数で追い抜いていました。マガジンは赤塚をくどいて、ついに1967年3月「天才バカボン」連載開始。「天才バカボン」の好調さを見て、同年サンデーも「おそ松くん」を月一連載として、「もーれつア太郎」を始めます。

 「おそ松くん」が面白くなくなったわけではありません。わたしは、この月一回掲載される「おそ松くん」長編バージョンが大好きでした。

 1969年8月、今度はサンデーがマガジンからなんと「天才バカボン」を引き抜きます。サンデーはバカボン・ア太郎の2作同時連載となりました。サンデーでのバカボンは1970年3月に終了。ア太郎も1970年6月で終了。

 1971年、「天才バカボン」は講談社「ぼくらマガジン」で短期連載の後、再度少年マガジンで27号から復活。サンデーでは37号から「レッツラゴン」が連載開始。いよいよ、赤塚不二夫の、メチャクチャというか、ナンセンスの極北というか、シュールなギャグの時代が始まります。

 しかし、著者にとって、このような雑誌間の戦いは背景にすぎないようです。著者は、赤塚不二夫と、赤塚不二夫の描くマンガが大好きで、自分がそれに参加していたことを誇りにしている。ですから、この本で描かれるのは、ひたすら、赤塚不二夫への愛、赤塚マンガへの愛です。

 サンデーの「レッツラゴン」は1974年に終了。マガジンの「天才バカボン」も1975年の初頭に終了。ここまでが赤塚不二夫の全盛期でした。このとき赤塚39歳。

 戦前から存在する「生活ユーモアマンガ」は、いつ「ギャグマンガ」に変身したのでしょう。「ギャグ」を名のるには、キャラクターの過激さが必須です。手塚治虫の一発ギャグや、シュールな存在の杉浦茂を先駆として、まず赤塚不二夫の「ナマちゃん」(1958年)が過激な言動をするキャラクターを登場させました。「ユーモアマンガ」から離陸するにはあと少し。その後、石森章太郎「テレビ小僧」(1959年)を経て、赤塚・藤子・つのだらのトキワ荘グループの刺激の強い作品が、古典的・月刊誌的ユーモアマンガを駆逐しました。

 それからたった十数年。赤塚不二夫は、見開き2ページがヒトコマだったり、タイトルページが(雪で)真っ白だったり、左手で描いたり、ネームをそのまま掲載したりする(あれ、最近も誰かがやってる?)ところまで突き抜けてしまいます。

 この時代の赤塚不二夫のマンガが、笑えたかというと、たとえば電車の中でぷっと吹き出すみたいに笑って読んでたわけじゃない。読者は、びっくりして、あきれて口をあんぐり開け、でも喜んで読んでました。読者の10歩ぐらい先を行ってた。

 1975年以後、赤塚不二夫はあっという間に失速します。40歳以後の赤塚は、マンガ家としては、残念ながら晩年といわざるを得ません。

 「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」は、1966年に始まって、途中著者と出会う前の赤塚不二夫の半生記を挟んで、「レッツラゴン」終了の1974年までが全体の85%。赤塚の晩年の姿は少し描かれるだけです。

 もちろん興味深い話はいっぱいあって、たとえば、古谷三敏「ダメおやじ」の初期には、赤塚不二夫がかなりの部分、参加していた話とか。言われてみて、なるほど、と思いますね。あと、手塚治虫と赤塚不二夫を比較して、手塚のアシスタントで大成したマンガ家はほとんどいないけど、赤塚は成功した弟子をいっぱい送り出した、とか。

 ちょっと残念なのが、「レッツラゴン」と同時期の、少年マガジン「天才バカボン」に対する記述が少なすぎる。このころのバカボンも凄かったんだけどなあ。って、これを期待するのは無理か。

 マンガ家とマンガに対する愛のあふれた、いい本でした。

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Comments

はじめまして!
土田世紀氏の「編集王」のマンボ好塚は
赤塚不二夫さんがモデルなんですかねー?

トラックバック失礼します。

Posted by: ちょきちょき | June 01, 2005 09:51 PM

>マガジンの「天才バカボン」も1975年の初頭に終了
確かに週刊少年マガジンには載らなくなってましたが、月刊少年マガジンに移籍して連載だけは1978年まで続いていたはずです。
残念ながら往年のパワーは見る影もなくなっていましたが・・・。

Posted by: soorce | June 01, 2005 11:32 PM

漫画家生命の平均寿命は短いもので、
40才ぐらいで終わっても短命とは言えないと思います。特にギャグ漫画家の寿命は短いので、赤塚は別格的なギャグの超人と言えるでしょう。弟子が大成するかは育成に力を注ぐかにもよるでしょうね。欣ちゃんファミリーの質・量は豊かですがたけしは弟子を育てていない。
メディアはちがうもののタモリは赤塚の弟子だと思います。彼の弟子がいないのは本人がプレイヤーとしてずーっと忙しいからで、タモリファミリーがいたら楽しいでしょうなあ。


Posted by: 砂野 | June 02, 2005 12:36 AM

コメントありがとございます。
>ちょきちょきさま。まあそうなんでしょうが、酒毒ってのは普遍的ですから。特に創作する人にとっては、赤塚不二夫や吾妻ひでおの姿はひとごとではないのではないかと。

>soorceさま。ご指摘の通り、バカボンが1975年2号で週刊少年マガジンで終了したあと、バカボンはいろんな雑誌で続けられてるようです。
月刊テレビマガジンで1971年から1977年8月号まで。別冊少年マガジンで1974年から1975年5号まで。月刊少年マガジンで1975年6月号から1978年12月号まで。週刊少年マガジン本誌でもアニメ放映開始にあわせて1975年43号から1976年49号まで約1年間復活(アニメの「元祖天才バカボン」は2年間続きましたから、アニメ放映中にもかかわらず打ち切りになった事になります)。ただしイースト・プレスから2001年に発行された「アカツカNo.1」でも、収録されているのは週刊少年マガジン1975年2号の最終回まで。やはりここが実質的な終わりなのでしょう。

>砂野さま。お笑い芸人もギャグマンガ家も寿命が短いのが似てる。「受ける」っていうのはそれだけきびしいことなんでしょう。

Posted by: 漫棚通信 | June 02, 2005 09:13 PM

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