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June 13, 2005

マンガと戦記ブーム

 この週末は、マンガショップから復刊された園田光慶/相良俊輔「あかつき戦闘隊」と、辻なおき「0戦はやと」をまとめて読んでましたら、イキオイがついて、ちばてつや「紫電改のタカ」も再読しちゃいました。これらの第二次大戦の日本軍を主人公にしたマンガは、「戦争マンガ」ではなく「戦記マンガ」と呼ばれます。

 辻なおき「O戦太郎」が「少年画報」で連載開始されたのが1961年9月号。少年画報社「週刊少年キング」創刊号(1963年7月)から「0戦はやと」が連載開始され、「太郎」は1964年8月号まで、「はやと」は1964年末まで続きました。キングでは吉田竜夫「少年忍者部隊月光」も、第二次大戦中の話でしたが(TV版のほうは現代)、これはさすがに戦記マンガとは言わないか。

 「0戦はやと」は、比較的無邪気。なんせ主人公のはやとが伊賀忍者の末裔、ライバルの一色が甲賀忍者の末裔という設定です。少年マンガの枠内での戦記マンガは、明らかにチャンパラ・格闘マンガのバリエーション。ですから、必殺技が出てくる。赤胴鈴之助の真空斬り、星飛雄馬の大リーグボールに相当するのが、0戦はやとの「黒ワシ垂直二段射ち」や「みじんくずし三角攻め」。

 主人公の父親も戦死しますが、わりとあっさり流される。ラストは、主人公を含めて所属する爆風隊全滅です。

 週刊少年サンデーでは、九里一平の「大空のちかい」が1962年45号から1964年19号まで。「0戦太郎」に対抗して、こちらの飛行機は隼(ハヤブサ)でした。えーと、ご存じでないかた向けに書いておきますと、三菱零式戦闘機は海軍、中島飛行機の一式戦闘機「隼」は陸軍の飛行機です。

 キングの「0戦はやと」とほぼ同時に週刊少年マガジンで始まったのが、ちばてつや「紫電改のタカ」です。これは1963年7月から1965年1月まで。

 子供マンガですから、基本的に娯楽作品ですが、このちば作品のまあ、陰鬱なこと。主人公は本来まじめな熱血漢だったのですが、途中で自棄的に無理な特訓で自分のカラダを痛めつけるし、戦争に絶望してニヒルに走ったりする。チャンパラモノの流れをひくお茶目な「逆タカ戦法」などの必殺技と、主人公の鬱々たる内面との落差が、少年マンガとして異様です。最後に主人公は特攻の命令を受けますが、納得して出撃するわけではありません。

 戦記ブームは少年マンガ雑誌が中心となっていました。マンガ週刊誌は上記の3誌ですが、それ以外にもマンガ月刊誌、「丸」のような戦記雑誌、プラモデル、テレビなどがブームを作ります。

 TVアニメ「0戦はやと」が放映されたのが1964年1月から10月まで。ほかに当然ながら映画にも戦記ものがありましたが、これらはもちろん子供向けではありません。たとえば「独立愚連隊」が1959年、「太平洋の嵐」が1960年、「太平洋の翼」が1963年、「兵隊やくざ」が1965年。子供世界の戦記ブームとは別の流れから製作されたものです。

 夏目房之介「マンガと『戦争』」によりますと、戦記マンガのブームは貸本劇画で1957年ごろから始まり、たとえば水木しげるは1958年より戦記モノを描き始め、1960年には「少年戦記」という貸本短編集シリーズを20冊以上も出していたと。

 「少年画報大全」には少年画報の表紙写真が全て掲載されていますが、1960年の表紙はスキーとか山登りする少年で、戦争を思わせるものは皆無だったのに、1961年には少年パイロットと日本海洋少年団に扮した少年が登場(ともに現代)するようになります。「0戦太郎」の連載はこの年から。「冒険王」の貝塚ひろし「ゼロ戦レッド」もほぼ同時に始まりました(こちらのページの昭和42[1967]年開始説はマチガイ)。

 少年画報の付録にも、ボール紙の0戦とか飛燕の模型が付くようになりました。1962年には梶原一騎の小説「零戦まぼろし隊」の連載開始。この年の表紙のうち戦車や飛行機が登場するのは4冊。1963年は3冊。

 少年画報1963年7月号には「少年画報社から新しい少年週刊誌がでます!」「この新しい週刊誌に名まえをつけてください!」という懸賞があり、名前の候補は以下のとおり。

・週刊少年フレンド ・週刊少年ファイター ・週刊少年ルック ・週刊少年キング ・週刊少年画報

 ここに新週刊誌(少年キングのことですよ)の5大特徴というのがありまして、(1)飛行機・軍艦など最新の科学兵器がひと目でわかる図解特集。(2)プラモ・切手など日本一の豪華プレゼント。(3)血わき肉おどる空と海と陸の三大戦争まんが。(4)スリル・スピード・科学と冒険、息もつかせぬ本誌独占の特ダネ記事がいっぱい。(5)世界の最新ニュース速報。

 戦記ブームの中での創刊だったのがよくわかります。で、懸賞の商品はすべて模型で、M-41戦車、ゼロ戦、戦艦大和などでした。

 翌1964年が戦記ブームのピークでしょう。少年画報の表紙は、江木俊夫くん(日活アキラ映画→マグマ大使→フォーリーブス→覚せい剤)が少年飛行兵やら水兵やら戦車兵やらのコスプレ全開で、8冊が戦争関連です。

 ところが、1964年秋からは東京オリンピック関連となり、1965年からは表紙は少年モデルの写真から、マグマ大使や怪物くんの絵に。戦記ブームは1964年をピークに急速にしぼんでいきます。

 そして1967年。戦記マンガが復活。園田光慶/相良俊輔「あかつき戦闘隊」が週刊少年サンデーに連載されました。もはや忍者の子孫とか、必殺技のような操縦法が出てくるわけではありません。ラバウル近くの小島、7人からなるならず者部隊「あかつき戦闘隊」に新任の若い隊長が赴任してくる。すがやみつるのサイトによると、「あかつき戦闘隊」のオープニングシーンは、石原裕次郎映画「零戦黒雲一家」(1962年8月)にそっくりだそうです。

 マンガショップの紹介文には

・折からの戦記ブームの中一躍大人気となった。雑誌ではブームにのって、巻頭で第二次世界大戦当時の兵器やメカを毎週のように特集し、本文でも「あかつきタイムズ」のような戦記情報コーナーまで登場した。

 とありますが、確かにある程度の人気はあったでしょうが、この時期、戦記ブームはすでに終了していたはずです。時代はすでに「巨人の星」を代表とするスポ根モノに移っていました。

 あかつき戦闘隊のメンバーは、くりかえし敵の襲撃を受け、つぎつぎと命を落としていきます。その後、第二部は生き残った二人が潜水艦に乗り込む話となり、1969年まで続きましたが、この作品でも、ラストで主人公は撃墜されて戦死します。

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Comments

その少しあとには現実世界でベトナム戦争の時代なので娯楽戦争ドラマを作れなくなるのはしかたないですよね。
宇宙戦艦ヤマトは未来の宇宙の話ってことで
放射能を悪の象徴にして同盟国のドイツ(ガミラス←ゲルマンから転じた?)と戦うという
屈折した話でした。

Posted by: 砂野 | June 15, 2005 02:52 AM

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