手塚治虫と医学専門部
手塚治虫の経歴のうち、微妙な問題が3点あります。
ひとつは、年令の問題。
手塚自身は1926年(大正15年)11月3日生と自称していましたが、没後に、実際は1928年(昭和3年)生まれであることがわかりました。終戦時に18歳だったのか16歳だったのかは、手塚治虫の人格形成を考えるとき、微妙かつ重要な問題と思われます。
ふたつめは、手塚治虫は大阪大学医学部卒を自称していましたが、ホントに通ってたのは大阪大学附属医学専門部であったこと。でも、これはまあ、帝大医専部卒の多くの医者が、帝大医学部卒を自称するみたいですから、その世界じゃ珍しくないみたい。
みっつめは、医師国家試験合格、医師免許取得がいつだったか。1952年説と1953年説があるようです。
戦前の医学専門学校は、通常「医専」と略されますが、歴史的にはいろんなタイプがあったようです。ただし、現在の「専門学校」とはまるで別物ですので、誤解なきよう。
帝大医学部の多くは、官立の旧制高校医学部として出発しています。たとえば仙台では、第二高等中学校医学部(通称、二高医学部)が明治21年より新入生を受け入れ始め、その後この学校が名称をいろいろ変えていきます。
明治34年から仙台医学専門学校(通称、仙台医専)、明治45年からは東北帝国大学医学専門部、大正4年から東北帝国大学医科大学、そして大正8年から東北帝国大学医学部。ああややこしいっ。つまり、帝大医学部の前身となる「医専」が存在したわけです。
帝大医学部卒は、むっちゃエリートですから、開業医なんかにはなりません。これに対して、開業医養成のための公立や私立の医科大学、医学専門学校がありました。これも「医専」です。
その後、日中戦争のさなか昭和14年から15年にかけて、各帝大や医大に臨時附属医学専門部が併設されました。これは不足する軍医を養成するための学校で、帝大の医学部とはまったく別のものです。
さらに太平洋戦争が始まると、医師数はこれでも足りなくなり、昭和18年ごろから全国各地に、軍医養成のための医学専門学校が設立されました(ただし卒業生を出す前に戦争が終わっちゃいました。ドロナワですなあ)。多くは県立病院などに併設されたものです。これらもすべて「医専」と略されます。
すなわち「医専」とは、大きく分けて(1)帝大医学部の前身、(2)開業医養成学校、(3)軍医養成学校の3タイプがあったのです。
戦争中、どれだけ軍医が不足していたかというと、たとえば、わたしの同居人の祖父は、昭和13年に岩手医専(私立)を卒業したあと、神戸で勤務医。その後、四国の漁村で開業したとたん、召集されてニューギニアで戦死したそうです。亡くなったとき37歳だったんだから、こんな年寄りを軍医にするなよ。
同居人の祖父と同時に召集された軍医100人のうち、戦後、無事に帰国できたのは10人しかいなかったそうです。軍医になることは死にに行くようなものでした。
手塚治虫は大阪の名門、北野中学に通学していました。旧制中学は本来5年制でしたが、戦争の激化の中、授業もろくになく、勤労動員ばかりのうえ、手塚治虫の学年だけ、4年で卒業となってしまいました。
手塚は1945年(昭和20年)、大阪府立浪速高校を受験して落ち、大阪大学附属医学専門部に合格します。このとき16歳。高校進学の夢が果たせず、敗色濃い戦争末期に、軍医養成のための学校に進学する。前途に待つ自分の将来は、軍医になって戦場に向かうことしかありません。おそらくその先には死が見えていたはず。この時代、手塚治虫は将来に何らかの夢を持てたでしょうか。
手塚治虫の描くペシミズムの原点が、この時代にあります。
戦後、軍医をあわてて育てる必要がなくなります。地方の医専は、医科大学や大学医学部に変身しましたが、帝大の医学専門部は存在意義そのものが消失してしまいました。
このころの医学専門部はもともと4年制でしたが、速く医師をつくるより、十分な教育が必要となり5年制に。手塚はすでに人気マンガ家になっていたため留年して、卒業したのが1951年3月。同時に、阪大医専部は廃止されました。
以下次回。
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Comments
阪大医学専門部の卒業生はすべて阪大医学部卒業と
同義となっています。
国の政策でこのような組織の生成となったのですが
いずれにしても、管轄は阪大であり、1949年に
新制大学として帝国大学は廃せられていますから
手塚の卒業した1951年度では新制の扱いとなり
大阪大学医学部卒扱いとなります。
確かに、大阪帝国大学は、元々大阪医科大学から帝大
になった大学ですから、医学部はここの看板であった
ので、医学専門部と区別したいのは分かりますが、
軍医や開業医養成を目的としても、修業年限3年と
なっていましても、紛れもなく、卒業すれば医師免許
ということになれば、現行の大学の制度と照らし合わせ
大阪大学医学部卒業として問題ないと思います。
誤解を招きたくなければ、阪大医学専門部卒とすれば
よろしいでしょうが、一般的には分かりづらく、医学部
卒業で構わないでしょうね。
Posted by: あなたはダリ?わたしはビンチ。うちのネコはミケランジェロ | February 20, 2012 02:34 PM
コメントありがとうございます。なんたってデビュー時、まだ童顔の17歳、それなのに医学生、というアンバランスさですから。この話題、もう少し続きを書いていきますのでよろしくお願いします。
Posted by: 漫棚通信 | May 04, 2005 05:42 PM
年齢のサバ読み、不思議ですね。
単なる想像ですが、版元へ原稿を売り込み
に行った時、トシが若すぎ信用されなかった
なんてことがあったのかなと…。
赤本などは編集といっても、社長を兼ねた
小企業のオッサンでしょう。絵のことや
中身なんか判断が出来ないんですね。
ですから過去の経験があるか、年齢が
大人になっているか~そんなことが
基準でした。
ぼくの場合も、曙出版へ行ったときは
高校生の学生服。これで断られ、
若木書房へ行ったら、社長に
「『坊ちゃん』読んだことがあるか?」と
聞かれました。
でも、96ページのA判を2冊描かせて
くれたんです。それを持って本命の
曙出版へ行ったら、即仕事をやらせて
くれたのです。
絵や中身について注意を受けたことは
ここでは一切無し。ただ、戦記を描け
とかジャンルを言うだけでしたね。
手塚先生の時代だと、さらにそんな
雰囲気が強かったはず。
子供っぽく見られたくなかった~
と想像するわけです。
Posted by: 長谷邦夫 | May 04, 2005 11:47 AM
青柳祐介の短編で
蔓草の汁と岩塩を混ぜて栄養剤として
竹で作った注射器で打つという実録漫画が
ありましたな。69か70年の月刊少年マガジン。
Posted by: 砂野 | May 03, 2005 09:57 PM
コメントありがとうございます。うーむ軍医マンガですか。手塚の「陽だまりの樹」のラストでは、手塚良仙が西南の役に軍医で出兵してましたね。水木しげるの描く軍医はフツーのオッサンだったし。アメリカ映画「MASH」はTV版も好きでした。
Posted by: 漫棚通信 | May 03, 2005 08:41 AM
あっすみません大事な字が抜けました。
軍「医」を中心とした、です。
Posted by: 砂野 | May 02, 2005 11:32 PM
ビッグXの序章で中心になる朝雲博士は
苦悩する軍医とも言えますね。
私は手塚作品は未見が多いのですが、
この〔軍を中心とした戦中戦後の〕
青年誌漫画というものはあるでしょうか?
薬品ビッグXをリアルなものにして・・・
という発想がありそうなものです。
Posted by: 砂野 | May 02, 2005 11:30 PM