手塚治虫と学歴
(前回からの続きになります)
手塚治虫はデビュー時から年令を2歳上に自称していました。それでは、学歴を大阪大学医学部卒と自称し始めたのはいつからでしょうか。さすがに旧制中学から帝大に直接入学できないことは衆知のことでしたから、中学卒業から医学部入学までの経歴について、どのようにツジツマをあわせていたか。
桜井哲夫「手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者」(1990年講談社現代新書)には以下のようにまとめられています。
・「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会):旧制浪華高校から1945年に大阪大学予科(第二医学部)へ転入学。1947年、医学部入学。
・ユリイカの手塚治虫特集号(1983年2月号):1944年、浪華高校理乙入学。1945年、大阪大学医学部予科入学。1946年、大阪大学医学部入学。
・早野泰造による年譜(「手塚治虫ファンクラブ・東北『蟲の森』創刊準備号」1988年8月、「一億人の手塚治虫」1989年JICC出版局):1944年、浪華高校入学。1945年、大阪大学付属医学専門学校入学。
もちろんこれら以前より、手塚の大阪大学医学部卒という学歴は自称されていました。わたしは新書版以前の古い手塚本を持っていないのですが、1968年に刊行開始された虫プロの虫コミックスには、著者略歴が記載されるのが恒例でした。手塚治虫のはこんなふう。
・本名・手塚治/生年月日・大正15年(1926年)11月3日/出生地・大阪府豊中市
・大阪府立池田師範附属小学校のころまんがをかきはじめる。
・北野中学を卒業後、昭19年(1944年)、浪華高校理乙(現大阪大学教養部)に入学、ディズニーのまんがに心酔し、児童まんが家をこころざす。
・昭21年(1946年)1月より「マーチャンの日記」(毎日新聞、四コマ)の連載をはじめる。4月、大阪大学医学部に入学。「新宝島」(育英出版)を刊行、40万部を売りつくす。
・昭23年(1948年)大阪大学医学部を卒業後、同大学附属病院に勤務。翌年、「ジャングル大帝」(漫画少年)、「アトム大使」(鉄腕アトムの前身。少年)の連載をはじめる。
・昭26年(1951年)関西まんが会を結成。
・昭27年(1952年)、東京に移住。
1948年にはやくも医学部を卒業してることになってますし(ホントは1951年)、ジャングル大帝やアトム大使の連載開始が1949年になってます(実際はジャングル大帝1950年、アトム大使1951年)。すっごく変。
後年の版では、昭和23年と昭和26年の項目を入れ替えて記載されるように修正されましたが、これはこれで、ジャングル大帝やアトム大使が1952年になっちゃいました。
筑摩書房の「現代漫画6巻 手塚治虫集」(1970年)では、こんなふう。
・大正15年(1926年)11月3日大阪に生まれる。
・北野中学在学中に漫画回覧雑誌を作り本格的に漫画を描き出す。
・昭和20年(1945年)旧制浪華高校入学。学徒通年動員で工場生活を送り乍ら漫画に熱中。
・21年(1946年)「マアチャンの日記帳」(毎日小学生新聞連載)でデビュー。南部正太郎、武田将美と“スリー漫画クラブ”を結成。
・22年(1947年)酒井七馬構成の「新宝島」刊行、ベストセラーになる。
・同年大阪大学医学部入学、学業のかたわら月10本の長編連載を続け、26年(1951年)卒業。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」連載はじまる。
手塚治虫がホントに医専部に入学したのが1945年。これらの著者略歴では、大阪大学医学部に入学した年は、1946年だったり1947年だったりバラバラ。
共通して登場するのが旧制「浪華」高校。実は、この学校は実在しません。
手塚治虫が北野中学を卒業するとき、受験して落ちたのが大阪府立「浪速」高校でした。この学校は7年制の中高一貫校で、中学にあたる尋常科と高等科からなります。通常、旧制中学は5年制で、試験に受かれば4年で旧制高校に進むことも可能なシステムでしたが、この学校は最初から中学が4年。桜井哲夫によると、「良家の坊ちゃんが多く、受験にあたって、父母兄姉が三人もつきそいでくるのがあたりまえの学校だった」
また、手塚略歴でときどき出ててくるのが、大阪大学予科。
予科というのは、今で言う大学教養部に相当するもので、いろんな大学が予科を持っていました。しかし、この時代、帝大で予科を持っていたのは北海道・京城(ソウル)・台北だけで、阪大に予科はありませんでした。
このように、手塚治虫は、「浪華」高校や大阪大学予科を創作し、1926年生まれで、大阪大学医学部卒業であるというウソを補強したのです。
手塚が自称したとおり1926年生まれだと仮定すると、北野中学入学が2年早まって1939年。中学を5年制のままで卒業したとして、1944年に17歳で旧制高校に進む年令です。ここで登場するのが架空の「浪華」高校。旧制高校は今の大学教養部にあたりますから、予科を含めて2年から3年で阪大医学部に入学したことにすればリクツは合わないことはない。
手塚とほぼ同世代の北杜夫は、1927年生まれ。1945年、終戦の直前に旧制松本高校入学。3年制で卒業したのち、1948年東北大学医学部入学。4年制の教育の後1952年卒業しています。
手塚治虫が1926年生まれと自称して、留年して阪大医専部を卒業したのが、1951年。おお、ぴったりじゃん。
手塚治虫は、なぜ、架空の高校までつくって大阪大学医学部卒業を自称したのでしょうか。
全国の「医専」は、戦後、医科大学や大学医学部に変身しました。ところが、帝大の附属医専部は、1950年から1951年に「廃止」され、存在そのものがなくなってしまいました。このためかどうか、帝大附属医専部卒の医者は、帝大医学部卒を自称することが少なくなかったそうです。
格は帝大医学部のほうがずっと上ですが、このあたりのこと、一般人にはどっちがどっちかよくわかんないしね。手塚治虫も、当時の医者の風潮にならって、医学部卒を自称したのでしょう。
すでになくなってしまった大阪大学附属医学専門部なんて名前を出しても、医療関係以外には意味がわからない。「大阪大学」まではウソじゃないし、最初は誤解されてても、それを修正しないうちにヒッコミがつかなくなったのかもしれません。マンガ界には医者は手塚治虫だけですが、つきあいのできた文壇には医者出身の作家はざらにいました。
医学生、医者、医学博士、というのは手塚治虫の「売り」でした。さらに「大阪大学医学部」まで加われば、これはもう無敵。この経歴が、マンガ家・編集者・読者に「手塚はスゴイ」と思わせた一因でもあるのは、間違いないところでしょう。
ただ、手塚先生、あまりにズボラでした。年令問題と学歴問題、二重のウソをうまくつなぐ手を考えついたものの、本を出すたびに経歴が変化する。略歴を出さなきゃいけなくなるたびに、その場その場でテキトーにつくったもののように見えます。
自伝などでは、自分の年令や学校の名が出てこないように、うまく隠してます。特に学歴の問題は、手塚治虫の心の闇の部分ではあるようです。
もうちょっとだけ続きます。
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