「まんが道」の錯誤
先日、手塚治虫のことを調べているとき、医師としての手塚を、藤子不二雄Aの「まんが道」ではどのように評価していたかなあと、読み直していたとき気づいた、ちょっとしたこと。
「まんが道」では、手塚を医学生・医者として見ていた記載がまったくなく、そうか、マンガ家志望少年にとっては、手塚が医者だろうが何だろうが、関係なかったんですね。これはこれで、なんとなくサワヤカな感じがしちゃいます。
「まんが道」は、第一部あすなろ編が1970年から1972年にかけて「少年チャンピオン」連載。第二部立志編が1977年から「週刊少年キング」に連載されました。第一部ラストと第二部のオープニングはともに、藤本弘と安孫子素雄が、手塚治虫の宝塚の実家を訪ねるシーンです。
「まんが道」によりますと、二人が高岡を出発したのが1951年8月14日。宝塚到着が、翌日8月15日。高校3年の夏休みを利用した訪問という設定ですね。藤子の服装も夏服。手塚から藤子へのハガキの文面から、手塚治虫は東京と宝塚を行ったり来たりの生活であるとされています。この時期、手塚治虫はすでに医専部を卒業して、阪大病院でインターンをしてたはずです。
宝塚で、二人が出会った手塚治虫が描いていたのが、「来月号から『漫画少年』に新連載する『ジャングル大帝』第1回」の原稿でした。このエピソードは、チャンピオン版、キング版の両方に出てきます。
ところが、そんなはずはないのです。「ジャングル大帝」の連載は「漫画少年」1950年11月号から。この時期に、手塚がジャングル大帝第1回の原稿を描いていたはずはありません。
実は、藤子不二雄の略年表などでは、宝塚訪問は1952年とされており、手塚治虫長女の手塚るみ子と藤子不二雄Aのラジオでの対談でも、宝塚訪問は、「高校を卒業する春休み」(1952年春)と語られています。あれれー?
「まんが道」のほうでは、高校卒業直前の1952年春には、ふたりは東京旅行をして、トキワ荘に居住している手塚治虫と再会するという展開です。ところが、これもありえません。この時期、手塚はインターン終了直前。東京では、旅館を次々と変えて宿泊していたか、四谷の下宿を使っていた時期。手塚がトキワ荘に入居するのは、1953年になってからです。
藤子不二雄Aの錯誤か、「まんが道」演出上のトリックか。日記魔・記録魔である藤子不二雄Aがまちがうとは考えにくく、おそらくは後者でしょう。「まんが道」はあくまでエンターテインメント、フィクションであり、戦後マンガ史の資料としては信用すべからず、という教訓であります。
Comments
コメントありがとうございます。考えてみれば「まんが道」の激河大介は当然架空の人物ですし、宝塚からの帰りに二人が、列車の窓から「ユートピア」の原稿捨てるのも、演出ですしねえ。
Posted by: 漫棚通信 | May 23, 2005 06:52 PM
そうですね。
記録魔でなくたって重大な記念日は
記憶に刻み込まれるもので、
何十年経っても間違えるものではないですから。
Posted by: 砂野 | May 22, 2005 11:43 PM