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May 30, 2005

「A」を叱る(やっと後編)

前編からの続きです)

 さて、2005年5月29日放映の日本テレビ「A」であります。「台湾でマンガ家デビュープロジェクト」の後編は、TV番組として面白いかどうかはまあ別にして、以下のような展開です。

 TV番組の企画で、台湾マンガ出版社訪問を続ける、27歳女性。2日目に訪れたのは、先端出版と、全力出版。前回、評価の対象にならなかった「リアリティのある大人向けギャグマンガ」はあきらめて、少女マンガタッチの母子モノを提出しました。

 実際の作品はコチラ

 絵のレベルはともかく、見開きの右ページか左ページか、タチキリが混乱しすぎてないかい。

 以前のギャグマンガを引っ込めて、ストーリーマンガに変更したのは作家の判断ですから、何も言うことはありません。彼女は徹夜で作品を修正し、翌日、これまで訪問した4社に修正したストーリーマンガを届けました。

 そして、最終日、ホテルのチェックアウト時間を過ぎてから、ホテルに青文出版社から電話がかかってきます。「採用じゃないけど、今後もサポートする」という内容でした。そして涙があってオシマイ。

 番組ホームページによると、後編はこんなふう。

 チェックアウト時間を過ぎてからの電話に作為はないのか(ま、あると考えるのがフツーか)。

 今回、最大の問題は、4社に同じマンガを送るという、二重投稿どころか、四重投稿という行為です。修正前に、それぞれの出版社が異なったアドバイスをすれば、どうするつもりだったのか。もし、複数の出版社が手を挙げてたら(ありえないことでしょうが)、どうするつもりだったのか。なーんにも考えてないな。

 さて今回の企画は、メデタシメデタシなのでしょうか。青文出版社は、彼女と本気でお付き合いするつもりなのか。結局、この結果ってペンディングでしょ。何も決まってないし、何も始まってない。

 マンガ家志望者の役にも立たず、台湾の出版社に迷惑かけまくり、しかも番組としては失敗で、視聴率も取れず。日本のTV局がでたらめやってるのは、日本人なら百も承知ですが、よその国まで行って、好き放題やってんじゃないよっ。

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May 27, 2005

雑談で失礼

■ 現代マンガからずれた話題ばかりで申し訳ありませんが、今週集中して読んでるのは新里堅進。今は「首里城ものがたり」上下巻です。沖縄は地方出版が盛んなところのようですが、「沖縄マンガ」というジャンルが存在するみたい。

■ 先日図書館に行ったとき、中沢啓治「はだしのゲン」を思わず読みふけってしまいました。ジャンプに連載されてた当時は読んでましたが、戦後編はきちんと読んだことがなかったもので。いや読み出すと、止まりませんな。今の子供はどうなのか聞いてみると(サンプル数はごく少数)、最初のほうは読んでるんですが、けっこう途中で挫折してますね。

■ 大城のぼる「愉快な鐵工所」、小学館クリエイティブからの復刻版3冊目ですが、今度は箱入り。日高敏の解説にロボットマンガの流れを、大城のぼる→横井福次郎→手塚治虫とありまして、おおそうだった、手塚の自伝にも横井のことは大きく登場してるんだった。

 で、横井福次郎の「ふしぎな国のプッチャー」も読んでみました。昔読んだときは(わたしの手許にあるのは1972年筑摩書房「少年漫画劇場」版)、かったるくてしょうがなくて、1回読んだきりでしたが、30年ぶりに読み直すと、これがなかなか味わい深い。

■ 「ウラBUBKA」の最終号、「本の雑誌」6月号の「懐かし少女漫画リターンズ!」、鈴木めぐみ「うれし恥ずかしなつかしの少女マンガ」、堀田純司「萌え萌えジャパン」を同時進行で読んでます。少女マンガ、エロマンガ、萌え方面に対する自分の知識は乏しいなあ。

■ 安野モヨコ「シュガシュガルーン」、わたしには3巻になってやっと面白くなってきました。「なかよし」本誌を読むと、安野モヨコだけが絵・画面構成が他作品と違って異彩をはなっており、これが講談社の賞をとるとは、ちょっと意外でした。

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May 25, 2005

このひとがあの作詞家「テレビアニメ魂」

 山崎敬之「テレビアニメ魂」読みました。なんたってタイトルがかっこいい。

 著者は1968年に東京ムービー入社。1990年の退社までずっと、テレビアニメ制作にかかわり続けてきたかたです。作品でいうなら「怪物くん」「巨人の星」から「それいけ!アンパンマン」まで。

 著者の仕事は「企画・文芸」。門外漢にはよくわからない役職名ですが、

・物語の舞台設計を考案し、脚本家に執筆を依頼して手直しをしながらシナリオを完成させる、いわばシナリオの「編集長」が僕の役割だった。

・テレビアニメは、原作者はもちろん、テレビ局、スポンサー、制作スタッフなどさまざまな立場の人々の意向を反映して作られます。それを集約してキャラクターを設定し、ストーリーを練り、脚本家にシナリオ執筆を依頼するのが僕の仕事でした。

 実際にどんな仕事をするかというと、原作者やスポンサーとシナリオのすり合わせをしたり、仕事の遅れた脚本家のシナリオを自分で仕上げたり、脚本家を取り替えて仕事を依頼したり。

 作品を立ち上げるとき、キャラクター設定やストーリー設定をするのも仕事。さらには、作詞も。「東京ムービー企画部」作詞ということになってる「アタックNo.1」の、あの主題歌「苦しくったってー悲しくったってー」は、著者の作詞です。おお。

 もちろん、アニメの本なのですが、マンガ関係でも興味深い記述が。

 「巨人の星」の雑誌連載開始が1966年5月。アニメの放映開始が1968年3月。途中で雑誌連載に追いついてしまったアニメ版は、雑誌版にないオリジナルストーリーを作ったり、30分番組で1球しか投げないという伝説の回を作ったりするのですが、終了近くになって、雑誌の最終回を待たずに、アニメ版の最終回の制作にはいらなければならなくなった。

 原作者梶原一騎自身は、「原作とアニメは別物である」という考え方で、アニメによる異本を認める立場だったようです。会議で、一度はマウンド上で飛雄馬が死ぬというシナリオが決定され、梶原一騎やスポンサーのOKも貰うのですが、テレビ局からの反対で、現在の形になったと。父と子の和解のラストですね。

 雑誌版の最終回の掲載が、アニメの最終回の制作中。つまり、「巨人の星」のラストシーンは、アニメのほうが先行していたわけです。先行したアニメ版シナリオが、梶原一騎の原作に影響を与えなかったはずはない、と思われますがいかがかしら。

 大リーグボール2号の足を真上に上げる投球フォーム。

 アニメ版では途中でオープニングムービーを作り直し、このとき飛雄馬の投球フォームを大げさなものに変更しました。この後しばらくして、雑誌版で大リーグボール2号が誕生。東京ムービー側としては、梶原一騎が大リーグボール2号を考えついたのは、アニメの新フォームを見てであると確信しています。

 あと、「オバケのQ太郎」の「毛が3本」を決定したのは、アニメ版が始まったときである、とか。
 
 テレビアニメ史の裏話いっぱいの本で、面白い面白い。大塚康生「リトル・ニモの野望」などと一緒に読むと、登場人物がダブってて、重層的になってなおよろしいかと。

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May 23, 2005

「A」を叱る(きっと前編)

 日本テレビ春からの新番組、日曜夜の久米宏司会、「A」をご存じでしょうか。地を這う視聴率で関係者おおあわて、ってな話題だけ流れてますから、見てる人はあまりいないかな。

 この番組で「アジアンドリームプロジェクト」という企画が始まってますが、そのなかに「アジアでマンガ家デビューするぞプロジェクト」というのがあります。番組のホームページによると

・日本の出版社に何度、原稿を送っても相手にされずリベンジしたい方! 自分のマンガはアジアでこそ花開く自信のある方! 台湾に3〜5日ほど滞在し、出版社に自分の作品をプレゼンするなど、台湾マンガ界にデビューを目指すチャレンジプロジェクトです。渡航参加予定者・1名(プロ、アマ問わず)

 なんやねんこれ。

 日本で相手にされないマンガ家志望者を、海外に送りだす? それって、あまりに失礼なんじゃないか。行かされる方にも、受け入れる方にも。

 第1回目の放送が昨日、2005年5月22日にありました。「涙の最終決戦!」というコピーが。涙なの?

 まず、国内選抜として5人が登場。「リアリティのある大人向けギャグマンガ」をめざす27歳女性。ラブコメを描く44歳男性。時代劇を描く34歳女性。墨絵で日本神話を題材にする49歳女性。現在マンガ家アシスタントで原作者志望の35歳。

 痛い。

 でも、彼らが仕込みではないのなら、番組趣旨から言うと年齢層が高くなるのはしょうがないか。

 で、国内で選ばれた1名が、「リアリティのある大人向けギャグマンガ」をめざす27歳女性。なぜ彼女が選ばれたのかは明かされません。若い女性ということで、「涙」が出やすいと考えられたのか。

 モニター上で見る限り、絵のレベルは5人の中でも低め。タイトルは「危険な恋がしてみたい」。「チョット太め」で「見た目もかなり個性的」な独身OLが、妄想の中で不倫する、という展開だそうです。

 5月11日、彼女は台湾に向かい、通訳の女性と出版社へ。

 青文出版社、台湾東販の2社を回り、ハシニモボウニモ、というか、お話にも何もなりゃしなくて、まったく相手にされません。その理由として、「大人向けすぎる」「ギャグマンガは台湾ではあまり需要が無い」「絵がかわいくない」とか遠まわしにいろいろ指摘されますが、肝心なところが語られない。要は、作品のレベルが低すぎるということでしょう。

 で、新展開の来週、後編の放送を待て、と。

 ここまでの前編の内容は、番組ホームページによるとこんなふう
 
 「月刊挑戦者」を発行している台湾の出版社全力出版も、日本テレビから協力を依頼され、企画に参加することになりました。編集者の林依俐さんのブログ「IGT避難用出張版」(林依俐 elielinさんについてはコチラを)によると、彼女のところに電話があったのが5月6日。撮影まで5日しかないっ。打ち合わせが5月10日。

 企画を聞いて、彼女の最初の感想は、マンガ市場の狭い台湾に、マンガの巨人・日本から、TV局主導で、何しに来るねん、と至極まっとうなお怒り。

 彼女の主張は以下のようなこと。

○マンガ産業が不振な台湾出身者が、マンガで食っていきたくてマンガ大国日本デビューをめざすならわかるが、マンガ大国日本に生まれ、日本でデビューできないから台湾で試してみようというのは、どうよ、と。

○「台湾では、数年前から日本のマンガが大ブーム!」(番組ホームページより)なのではなく、20年前から台湾市場で流通しているマンガのほとんどが、日本マンガ、しかもヒット作からの翻訳。このため台湾でのマンガ流行の傾向は、日本とほぼ同じで、日本でデビューできない人は台湾でもダメです、と。

○台湾雑誌側としても、時間をさいて日本人マンガ家志望者の相手をするのは、新戦力になるかもしれないと期待があるから。真剣にやるなら、プロットやネームの直しまで指示することになるが、3泊4日の撮影時間内じゃ、無理じゃないのか、と。

 ごもっともです。

 日本だけじゃなくてアジアに目を向けよう、価値観の違うアジアでは日本のものが受け入れられないこともある、努力すれば受け入れられるかもしれない、というコンセプトで番組作ってるようですが、価値観の違いより何より、まずはそこに至るすべてが、ズレまくってないかい。

 日本側スタッフの、台湾マンガの歴史や現状認識が間違っており、そこから導き出された企画がもう、アサッテの方向へ行ってしまっており、さらに、実際の撮影スケジュールがムチャ。

 どうもTVとしては、デビューできない、断られるだろう、という予定で番組をつくってるようです。これはもう、マンガ家志望者、台湾雑誌社の両方にあまりに失礼。

 「IGT避難用出張版」では、日本のTV局の勘違い、認識の浅さと、番組制作のウラを暴く連載となっており、今、一番ハラハラしながら読んでいるのがこのブログです。

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 と、ここまで書いて、来週の放送後に続きを書いてアップするつもりだったんですが、なんと「IGT避難用出張版」の記事が、ざっくり消されてしまいました。日本テレビからの圧力か、オトナの事情か。

 日本のTV局が、よその国のマンガ編集者の、ブログにまで口を出すか。

 というわけで、わたしも予定外ですが、前編だけでアップすることにしました。記事中の林依俐さんの意見の部分は、本来彼女自身の言葉を引用すべきでしょうが、元の記事が消されちゃいましたので、引用をひかえました。このため、わたしが書き直した形になっており、文責は、わたしにあります。

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May 21, 2005

菅伸吉の横顔

 「MASTERキートン」絶版か、という週刊文春の記事、わたしも買ってきて読みました。記事の全文じゃないけど、かなりの部分はコチラのかたが、テキスト化しておられます。

 「MASTERキートン」の原作者、勝鹿北星=菅伸吉は作品制作にあまりかかわっておらず、浦沢直樹としては釈然としなかった。そこで原作者の名前を小さくしようとしたところ、雁屋哲から横槍がはいり、結局、絶版あつかいに、という記事です。

 この記事でやっとわたしたちは、「MASTERキートン」における、浦沢直樹、勝鹿北星、長崎尚志の関係がわかったわけです。そうか、「MASTERキートン」を語るとき、長崎長崎よく言われてたのは、勝鹿北星があまりタッチしていなかったからなんですね。

 「MASTERキートン」原作の菅伸吉氏は1946年1月3日生まれ。2004年12月9日に亡くなりましたが、勝鹿北星、きむらはじめ、ラデック・鯨井などのペンネームで知られるマンガ原作者です。作品には、以下のようなものがあります。

きむらはじめ名義:

・なんか妖かい!?(1982年〜1984年、里見桂、小学館、少年サンデーコミックス)
・青拳狼(1984年、池上遼一、小学館、少年サンデーコミックス)
・ホットDOC(1984年〜1988年、加藤唯史、小学館、ビッグコミックス)
・エア・ポケット(1985年、安良城考、小学館、ビッグコミックス)
・熱いですよ!(1986年、原田久仁信、小学館、少年ビッグコミックス)
・ブラックマネーゲーム マンガ地下経済の実態(1987年、影丸譲也、学習研究社)
・めんくい ラーメン放浪記(1988年、前川K三、ぶんか社)
・たちまち晴太(1991年、水島新司、小学館、ビッグコミックス)
・ビリー!(由起賢二、三心堂出版社)

勝鹿北星名義:

・MASTERキートン(1988年〜1994年、浦沢直樹、小学館、ビッグコミックス)
・キートン動物記(1995年、浦沢直樹、小学館)

ラデック・鯨井名義

・SEED(1996年〜2002年、本庄敬、集英社、ヤングジャンプコミックス)
・マジンジラ(2004年、つやまあきひこ、ソニーマガジンズ)

 「MASTERキートン」以後の晩年(と言ってしまうにはお若いのですが)には、エコロ方面がライフワークとなっていたようです。菅伸吉のエッセイとして、お酒に関する次のようなものが読めます。

ラデック・鯨井の取材裏話その1 小さな記事から
ラデック・鯨井の取材裏話その2 商品に人と歴史あり
ラデック・鯨井の取材裏話その3 命のつながり

 なぜか先日までネット上では、菅伸吉=東周斎雅楽(イリヤッド、テレキネシス)=江戸川啓視(プルンギル青の道、青侠ブルーフッド)という奇妙な情報が流れてましたが、最近は長崎尚志=東周斎雅楽=江戸川啓視で落ち着いたみたいですね。

 バイオグラフィーのうち、多くの作品が小学館のものであるのに、「葬式にも小学館関係者は一人も来ていませんでした」というのは悲しい話。ここで登場するのが雁屋哲です。

 「『ダメ!』と言われてメガヒット」(2004年東邦出版)という、マンガ家と編集者の関係を書いた本がありますが、その著者・宇都宮滋一 のブログで、本には掲載されなかった「ゴルゴ13」についての文章が公開されてます。

第1回 ・第2回 ・第3回 ・第4回 ・第5回 ・第6回 ・第7回 ・第8回 ・最終回

 上記のうち、第6回でインタビューされているのが、菅伸吉です。

 これによると、1969年電通入社。このときの同期が雁屋哲で、以後親友に。

 1972年「週刊少年マガジン」連載の池上遼一「ひとちぼっちのリン」という競輪マンガの原作者は“阿月田伸也”とクレジットされ、これは雁屋哲の最初期の作品とされていますが、実は菅伸吉も参加していたとのことです。

 雁屋哲は「男組」で人気作家になりましたが、菅伸吉は長く売れず、「なんか妖かい!?」のヒットをきっかけに、「ゴルゴ13」のシナリオに参加。最初の作品が「アイボリー・コネクション」で、以後約10年間ゴルゴに作品提供。

 というふうに記載してありますが、調べてみると「ゴルゴ13 アイボリー・コネクション」は1978年作品で、1982年の「なんか妖かい!?」のかなり前になり、事実関係が混乱しています。

 “きむらはじめ”のペンネームの由来は、コチラのかたの「MASTERキートン→喜劇役者バスター・キートン→日本の喜劇役者 益田喜頓→彼の本名 木村一」説というのがありまして、大ウケしたんですが、残念ながら、「実名の少年からつけた」と。

 雁屋哲と菅伸吉は、同志的、戦友的な友人だったようです。雁屋哲が、菅伸吉の晩年や没後における小学館の態度に、義憤を感じるのは納得できますが、マンガが読めなくなるのは困ったことだなあ。

 追記:今回の文春の記事が出る前に、勝鹿北星の謎にがんばってせまったサイトがコチラ。浦沢直樹の元アシスタントだった伊藤剛氏の証言もあります。

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May 20, 2005

オタクとセックス(というかオナ○ー)

 本田透「電波男」読み終わりました。オタクの勝利宣言は岡田斗司夫がすでに書いていましたが、それを世間一般の女性相手に対しておこなったもの。感動の書といっていいでしょう。

 ただ、著者のオタクのとらえかたが、ちょっと引っかかる。わたしもいい年してマンガばっかり読んでるんで、オタクと呼ばれることにはもう抵抗ないんですが、わたしの考えるオタクとずれてきてるなあ。

 オタクの定義はひとそれぞれでしょうが、わたしとしては、(1)ある年令以上になっても、(2)子供っぽい趣味を持ち続け、(3)蒐集や言動が過剰になりやすい人。てなふうに理解してました。対象となるのは、アニメ、マンガ、子供向け特撮番組など。

 のつもりだったのですが、いつのまにやら、軍事オタとか、パソコンオタクとか、古書オタクとか、そういうのは立派なオトナの趣味で、オタクとは言わんやろっ、てなジャンルまで、オタクの言葉をあてるようになってしまいました。以前なら、全部マニアって言ってましたよ。

 最近ではさらに変化して、萌えやエロがないと、オタクとは言わないのかしら? つまり2次元でオナ○ーできるのが、オタク。この場合の“2次元”は「電波男」で述べられているように“アンリアル”という意味ね。

 つまり、(イイトシノオトナガ)怪獣の名前をいっぱい覚えてても、オタクとは言わない。小美人でオナ○ーできる奴だけがオタクなのだ(あるいは巨大化した桜井浩子とか、十字架にかけられたセブンとか)。

 「電波男」で代表的オタクとして例に出されているのは、エロゲーやギャルゲーオタクですし、論としても恋愛の話ですから、萌えが重要になります。だったら、マンガのキャラにあまり「萌え」ることのないわたしは、すでにオタクじゃなくなってるのか。

 「電波男」で言及されている、小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」だって、オタク代表とされてるけど、求めるものはエロ。木尾士目「げんしけん」の連中だって、コミケで買ってるのはエロ。阿部川キネコ「辣韮の皮 萌えろ!杜の宮高校漫画研究部」に登場する同人作家が描いてるのは、男はもちろんエロ。女もBLというエロ。

 たしかに原初のオタクも、2次元に萌えてたし、オナ○ーもしてたでしょうが、エロばっかり求めてたわけじゃない、と思うんだけどなあ。これは言葉の意味が変わってきたのか、実際のオタクの行動様式が変わってきたのか、あるいはたんにわたしが年とって枯れてきちゃったのか。

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May 18, 2005

「まんが道」の錯誤

 先日、手塚治虫のことを調べているとき、医師としての手塚を、藤子不二雄Aの「まんが道」ではどのように評価していたかなあと、読み直していたとき気づいた、ちょっとしたこと。

 「まんが道」では、手塚を医学生・医者として見ていた記載がまったくなく、そうか、マンガ家志望少年にとっては、手塚が医者だろうが何だろうが、関係なかったんですね。これはこれで、なんとなくサワヤカな感じがしちゃいます。

 「まんが道」は、第一部あすなろ編が1970年から1972年にかけて「少年チャンピオン」連載。第二部立志編が1977年から「週刊少年キング」に連載されました。第一部ラストと第二部のオープニングはともに、藤本弘と安孫子素雄が、手塚治虫の宝塚の実家を訪ねるシーンです。

 「まんが道」によりますと、二人が高岡を出発したのが1951年8月14日。宝塚到着が、翌日8月15日。高校3年の夏休みを利用した訪問という設定ですね。藤子の服装も夏服。手塚から藤子へのハガキの文面から、手塚治虫は東京と宝塚を行ったり来たりの生活であるとされています。この時期、手塚治虫はすでに医専部を卒業して、阪大病院でインターンをしてたはずです。

 宝塚で、二人が出会った手塚治虫が描いていたのが、「来月号から『漫画少年』に新連載する『ジャングル大帝』第1回」の原稿でした。このエピソードは、チャンピオン版、キング版の両方に出てきます。

 ところが、そんなはずはないのです。「ジャングル大帝」の連載は「漫画少年」1950年11月号から。この時期に、手塚がジャングル大帝第1回の原稿を描いていたはずはありません。

 実は、藤子不二雄の略年表などでは、宝塚訪問は1952年とされており、手塚治虫長女の手塚るみ子と藤子不二雄Aのラジオでの対談でも、宝塚訪問は、「高校を卒業する春休み」(1952年春)と語られています。あれれー?

 「まんが道」のほうでは、高校卒業直前の1952年春には、ふたりは東京旅行をして、トキワ荘に居住している手塚治虫と再会するという展開です。ところが、これもありえません。この時期、手塚はインターン終了直前。東京では、旅館を次々と変えて宿泊していたか、四谷の下宿を使っていた時期。手塚がトキワ荘に入居するのは、1953年になってからです。

 藤子不二雄Aの錯誤か、「まんが道」演出上のトリックか。日記魔・記録魔である藤子不二雄Aがまちがうとは考えにくく、おそらくは後者でしょう。「まんが道」はあくまでエンターテインメント、フィクションであり、戦後マンガ史の資料としては信用すべからず、という教訓であります。

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May 16, 2005

小池一夫のマンガ原作(その2)

(前回からの続きです)

 もしかすると小池一夫は、マンガのコマわりよりも、映画をイメージしているのかもしれません。

 「子連れ狼」の一篇「別れ霜」は、特にその傾向が強いようです。

・雨が降っている…。
 城跡の朽ちかけた東屋で、降る雨を見ている大五郎。
 ロングの画面から次第に大五郎の顔にズーム。
 (語り字幕を大きく)

・語り「土地のものが
 ひとときの憩いを求めるために
 造ったものであろうか
 小高い丘の城跡とおぼしき
 朽ちかけた東屋で
 その子は 雨を見ていた
 ひと雨ごとに 春の足音は
 長かった冬を追い立ててはいたが
 童子の心と肌には まだ凍てつくような雨だった

・だが……
 寒さにも ひもじさにも
 そして 淋しさにも
 悲しいまでに 順応している
 宿命の子だった
 父を待つことにも

・しかし……」
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 大五郎の大アップから、画面は東屋の中にカメラはパンして…。
 筵が一枚、竹の弁当箱と水筒があって悲しい。あわれをさそう。
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 語り「二ツ目の朝には
 帰るはずの父であった
 それが三ツ目の朝となり
 四ツ目の夜が来て
 五ツ目の朝が雨だった」

 「ロングの画面」「ズーム」「大アップ」「カメラはパン」と、映画用語が頻発します。小島剛夕も、シナリオにしたがって映画を意識したコマわりをしました。

(1) 東屋とその中にいる大五郎の遠景。大五郎は右方をながめています。1ページを使った大ゴマ。語り「土地のものが…雨を見ていた」
(2) 大五郎と東屋にズーム。カメラ位置同じ。「ひと雨ごとに…追い立ててはいたが」
(3) さらにズーム。カメラ位置同じ。「童子の心と…雨だった」
(4) さらにズーム。カメラ位置同じ。「だが………」
(5) さらにズーム。カメラ位置同じ。大五郎の顔のアップ。「寒さにも…淋しさにも」
(6) さらにズーム。ただしカメラは上方に移動し、大五郎を斜め上から見おろす位置に。「悲しいまでに…宿命の子だった」
(7) さらにズーム。大五郎の顔だけの大アップ。「父を待つことにも」
(8) カメラは左にパン。大五郎の頭の一部と、大五郎の後ろにある筵が見える。「しかし………」
(9) カメラはさらに左を写す。筵と、その左にある竹の弁当箱と水筒。「二ツ目の朝には帰るはずの父であった」
(10) 弁当箱と水筒にズーム。「それが三ツ目の朝となり四ツ目の夜が来て」

 ここまで10コマ。2ページと半分です。映画的に言うと、オープニングシーンをワンカットで長回し。しかも、ナレーションはまだ途中で終わっていません。続くコマは大五郎の手が竹の弁当箱を持つアップのコマで、「五ツ目の朝が雨だった」と語られます。

 カットの変わり目をナレーションでつなぐという、流れるような展開です。小池一夫が意識して映画的に書いたシナリオを受け、小島剛夕はそのまま映画のようなコマわりをしました。各コマのナレーションの長さは一様ではなく、語りの文字の数がそのコマを読む時間であり、カメラが移動する時間でもあります。

 この回は特に映画的手法がめだち、山門に至る長い石段を大五郎が登るシーン。カメラは上にあり、登ってくる大五郎を正面から見おろします。

(1) 大きなコマ、石段の下のほうに小さく大五郎。
(2) 大五郎にズーム。
(3) さらにズーム。
(4) さらにズーム。
(5) さらにズーム。
(6) さらにズーム。大五郎の顔のアップ。(この間もナレーションは続いています)
(7) ページが変わって、今度は大五郎の後姿、カメラは大五郎より下方にあります。大五郎の奥に山門が見える。
(8) 石段をほとんど登りきる大五郎の後姿。さらに山門が近づきます。今度はカメラは大五郎の真後ろを移動しながら追っかけていきます。
(9) 山門の真下の大五郎の後姿。カメラはずっと大五郎を追います。ハンディカメラだな。
(10) 大五郎後姿は山門の奥、寺の庭に進みます。やはりカメラは大五郎のすぐ後ろにくっついています。ここまでまるまる2ページ。

 まるきり映画です。このシーン、シナリオでは

・山門に至る長く高い石段を…。上からのアングルで──。
 筵で身体をくるみ、トコトコ石段を上ってくる大五郎。
 雨に濡れた石段のこう配、その鋭角的な画面に悲しい大五郎。上ってくるシーンをズーミングして…。
 -----------------------------
 (下から)上っていく大五郎を追って…。
 そして山門の奥、そびえたつ古刹を。

 これだけですが、ナレーションがけっこう長い。小島剛夕の演出では、大五郎の歩みをじっくり見せました。

 小島剛夕の方が、映画的演出をリードすることもありました。

 左門という浪人が、草原で火に囲まれた大五郎を見つめるシーン。

・左門「見すごすわけにはゆくまい!」
 石段をおりかけて、その足をピタリととめる。
 ギョッと左門の表情が硬くなる。その細い目のアップ…。

・左門「あの死生眼を、確かめるには、またとない機会! はたして、あの眼が恐怖を知らぬ、動ぜぬ眼なれば、火にかこまれて…」
 左門の眼に凹地に迫っていく野火が映る。

・左門「ここから見極めてくれる! 不憫なれど、わしも剣の道を歩むもの、確かめずにはおかぬ!」

 完成原稿は以下のとおり。

(1) 左門の上半身。「見すごすわけにはゆくまい!」
(2) 左門の足もとのアップ。擬音で「ピタ」
(3) 左門の顔のアップ。無音。
(4) 左門の足もとのアップ。無音。
(5) 横長のコマ。左門の両目のアップ。「あの死生眼を…火にかこまれて………」
(6) 中央に小さく大五郎。周辺から火と煙がせまる俯瞰。これにオーバーラップして左門の両目のアップ。「ここから…確かめずにはおかぬ!」

 「眼に野火が映る」というシナリオを、映画的オーバーラップ=大五郎に迫る野火の俯瞰×左門の両目のアップで表現しました。お見事。

 足もとを2度繰り返して見せるのも、シナリオにはない、小島剛夕の演出です。

 小池一夫がいつも映画的シナリオを書いているわけではありません。とくにこの回がめだつだけなのかもしれません。

 ただし、梶原一騎と違って、小池一夫は最終原稿をある程度イメージしながら原作を書いています。アップや俯瞰の指示、カメラ位置の指示。梶原一騎の原作が講談などの語り芸に基づいていたのに対し、小池一夫の原作は、映画シナリオがお手本になっているようです。

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May 15, 2005

小池一夫のマンガ原作(その1)

 以前のエントリで、梶原一騎のマンガ原作について書いたことがありました。梶原一騎は生涯、小説形式で原作を書き続け、レイアウト・コマわりなどは、ほとんどマンガ家の自由にまかせていたようです。

 では、もう一方の雄、小池一夫の原作作法はどんなものなのでしょうか。

 小池書院から小池一夫のマンガ教科書というべき本が出版されています。「小池一夫の漫画学 スーパーキャラクターを創ろう」というシリーズで、「キャラクターはこう創る!」「キャラクターはこう動かす!」「キャラクターはこう活かす!」の3冊。カバーを取った表紙や奥付には「小池一夫の漫画学」とありますが、カバーには「小池一夫のキャラクター原論」となってまして、もし書店で探されるときはご注意を。

 自身のこれまでの原稿はきちんと製本されており、ここで、小池一夫のマンガ原作原稿がどのように書かれるかが解説されています。

 小池一夫原作は、まったくのシナリオ形式です。特殊な原稿用紙を使っており、通常の20×20の原稿用紙を、上段3文字分、中段3文字分、下段14文字分の上中下3段に分割。下段はト書きとセリフ。中段はセリフを言うキャラクター名を書き入れるところで、ここまでは普通のシナリオと同じです。

 面白いのが最上段で、ここに、さらに細かい補足説明や、マンガ家への連絡事項が書かれます。たとえば、下段に「決意みなぎる吉継のアップ」とあって、さらに上段には朱色で「目元のアップ──」と細かく指示がはいります。

 このように、画面構成まで子細に指示するのが小池流。

 「首斬り朝」斬の一「鬼庖丁哭くとき」より

・《下段》
 山田浅右衛門の屋敷──夜
 雪が降っている。
 「山田」と表札が出ている。
 その画面に江戸市街切絵図を入れてください(資料の通り)

 「入れてください」の横に朱色で《O・L》と書き込みがあります。オーバーラップの意味でしょう。そして江戸市街図のコピーが張り付けてあります。さらにそこに朱色で一区画に矢印をいれ、「ここを際立たせて下さい。」 上段には屋敷のイメージについての説明。

・《上段》
 拝領屋敷ではありません
 ごく普通の屋敷
 徳川の臣ではなく浪人ですので、専属しているだけ──

 小池一夫は、自分の持つ完成原稿のイメージを、いかにマンガ家に伝えるかに腐心しているようです。

 「子連れ狼」其之三十八「牙の夜」前編より

・冠省
 本編は殺人を目撃した大五郎が
 追われる話で ミステリイ仕立のもの
 にしたいと思っております。
 不気味なムードでお願い致します。
 木場《朱色でキバとルビあり》を逃げまわります。
 よろしくお願い申し上げます。
 小島先生侍史             小池生

・トビラ
 バック溶暗。
 大五郎の大きな眼のクローズアップ。
 まじまじと殺人現場を目撃した眼。
 そして画面の下の方に 逃げて走る大五郎
 を小さく……。何者かに追われ、ふりむ
 き逃げる必死のかんじに。
 タイトルとクレジットタイトル──
 《↓朱色で大きく》
 子連れ狼其之三十八
 牙の夜 前編

・《上段に朱色で》
 木場は牙に通じます──

 トビラページの一枚絵だけで、ここまで細かく指示するか、というくらいのものです。現在流通している版の「子連れ狼」では、連載時の前後編を合わせて掲載しているので、トビラページは1枚だけ。おそらくは後編のトビラですので、前編のトビラがどんなものだったのか、確認できないのは残念。

 小池一夫の原作は、画面のレイアウトやクローズアップの支持は細かいのですが、マンガをマンガたらしめている、コマわりについてはマンガ家にまかせているようです。ここがネーム形式の原作と大きく違うところ。

 「首斬り朝」斬の四「東照大権現」より

・初夏の江戸の街、昼下がり。
 雑踏……、大画面。
 傘をさして進んでいく朝右衛門。
 シルエットになった傘の下のアップ
 ----------------------------
 行き交う人びとや店者たちが好奇の眼で朝を見る(老若男女いろいろと)

 年増女「なんだえ、あのおさむらいは、雨降りでもないのに傘なンぞさしてさ」
 連れの中年女「ほんとだよ、どっかおかしいんじゃあないのかえ」

 立ち止まって朝を見つめる人びと…。たちまち人だかり…。

 町人「なンで傘なんか、さしてるンでえ!?」
 別の町人「さあな、ひと雨くるのかな」
 空を見上げて…。
 別の町人「まさかね」

 完成原稿では、以下のようにコマわりされます。

(1) 江戸の通りの鳥瞰。1ページ全部を使った大ゴマ。朝右衛門を含めた多数の人物。
(2) 朝右衛門後姿。
(3) 傘を持つ朝右衛門を下からあおった絵。上半身は傘の影となり斜線がひかれており、表情はわからない。
(4) 朝右衛門後姿。彼を見つめるすれ違う人びとが同時に描かれる。
(5) 女性二人。「なんだえ…」「ほんとだよ…」の会話。
(6) 朝右衛門の傘と町人二人の鳥瞰。「なンで…」「さあな…」の会話。
(7) 縦長のコマ。上は空、町人の顔が下方にあり、下からあおった絵。「まさかね」

 小島剛夕はここまでを2ページで構成しました。

 以下次回。

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May 13, 2005

台湾マンガ事情

 上記のようなタイトルをつけてみましたが、実はそっち方面には、全然くわしくありません。ブログというのはありがたいもので、台湾で「漫画小説創作総合誌」を編集しておられる、林依俐さん(elielin、20代女性)のブログ「IGT避難用出張版」が読めます。むちゃくちゃお見事な日本語で、わたしより文章うまいっす。

 このかた、日本のアニメ会社で制作進行の仕事をされておられましたが、2003年に退職。2004年に台湾で「全力出版」(島本和彦みたい)という出版社を立ち上げ、「月刊挑戦者」(「月刊チャレンジャー」ですな)という雑誌を創刊。この5月で一周年を迎えました。

 編集者のグチ中心のブログになってますが、台湾の学校にも漫研があったり、台湾でも同人イベントも開かれてるなんて記述でも、「へぇ」ですね。最近の大きな話題は、書籍の、年令によるレイティング問題。どの本をR-18指定にするかでかなりの騒動になってました。「ジョジョの奇妙な冒険」をR-18にするかどうかとか。

 擬音をマンガのコマのなかにレタリングするとき、アルファベットやカタカナと違って、漢字だとどうしても画面が重くなってしまうので、注音(漢字の発音を表す符合)を使ってみる工夫の話なんて、面白いなあ。

 これまで台湾作家中心の雑誌は、ツブれては発刊されの繰り返しで、歴史をたどるのが難しく、現在のところ、最大手東立出版の「龍少年」、台北漫画工会の「GO創意漫画誌」、全力出版の「月刊挑戦者」の3冊だけだそうです。また多くの台湾マンガ作家が、市場の大きい中国に「逃げた」話とか。

 なんとか自国作家を育てようと奮闘されております。今後東アジアのマンガ地図は、どんなふうになっていくんでしょう。

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May 11, 2005

ボンクラ映画からの引用もオサレになっちゃう「SEX」

 上條敦士「SEX」がヤングサンデーに連載されたのが、1988年から1992年。第1巻が発売されたのが1989年。基本的にモノクロ印刷なんですが、ところどころに赤の色がはいってるというオシャレな造本でした。黒沢明の「天国と地獄」ですな。

 第2巻が発売されたのが、ずーーっと間があいて、連載終了後の1993年です。当時の隔週刊雑誌連載にして、この単行本刊行のサイクルはどうよ。

 2巻は赤じゃなくて、黒と青(紫に近い)の2色印刷でした。オビに「全7巻続々発売予定」とありまして、そうか、7色がつぎつぎ出てくるんだ、かっこいいなあ、と予測しましたよ、わたしは。この印刷は、登場人物のユキが色盲という設定からきているようです。ところが、はーて、「SEX」は、以後いつまでたっても刊行されない。

 1995年の末に発売された「COMIC CUE」2号。巻末に上條敦士と安達哲の対談(たんなる電話での雑談みたい)が載ってます。

安達:そうねえ。しかし、上條さん、直すと言えば『SEX』の3巻、いつ出るんですか!?
上條:今世紀中には全巻(笑)。
安達:2巻はあれ、全部描き直したでしょう!?
上條:あれはね。
安達:あれはねって、よくもまあ、原稿料も入んないのにやるよなあ。俺はね、やっていいって言われたってやりませんよ。言われないけど。
上條:来年はね、『赤×黒』と『SEX』の3巻、出しますよ。まずそれをやる。

 やりませんでした。

 絵にこだわる作家は、全部描き直したくなるんですねー。で、昨年から突然、全7巻が毎月刊行され始め、やっとこ完結しました。雑誌連載との比較はできてませんが、1巻・2巻の濃密な絵が描き直したものとすると、3巻以降はけっこうゆるいような気がします。これ、描き直してるのかなあ。

 このマンガ、いろんなものからできてるんですが、特に映像作品。

 男、女、男の3人の不安定なチームといえば、「冒険者たち」(1967年)ですな。以前はよくTV放送してました。アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、そしてジョアンナ・シムカス、一生のうち一瞬の輝き。

 不法行為でなんとか稼ごうとするチンピラの姿は、TV「傷だらけの天使」(1974年)。

 沖縄のヤクザの抗争が出てきますが、下敷きになってるのは「沖縄やくざ戦争」(1976年)でしょうか。主役は松方弘樹ですが、沖縄拳法の型を見せる千葉真一がぶっとんでました。

 似顔のうまい人ですから、菅原文太や佐藤慶も登場します。日本最大の暴力団・花田組組長の甲斐五郎は、映画と名字が違いますが、人斬り五郎=渡哲也かな。

 5巻のカバーは、「燃えよドラゴン」(1973年)です。各話のタイトルも映画からの引用ばかりで、最終回直前の67話は「THE GOOD, THE BAD AND THE UGLY」=「続・夕陽のガンマン」(1967年)。ジャン・レノ風の殺し屋も登場。

 でもって、ボンクラ映画からの引用ばっかりしてるこのマンガが、なぜ、こんなにオシャレなのか。上條敦士の描く中高生は、肩幅広いわ、スタイル抜群だわ、中坊には見えませんっ。性格だっていわゆるクール。

 絵のうまい人が描くと、汗臭いオハナシもこう変化します。カッコよすぎるのが難だなあ。

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May 10, 2005

賞というものは

 第9回手塚治虫文化賞が発表されました。大賞が浦沢直樹「PLUTO」、新生賞・こうの史代「夕凪の街 桜の国」、短編賞・西原理恵子「上京ものがたり」/「毎日かあさん」、特別賞が川崎市市民ミュージアム。

 めでたいことですが、なーんか、シャクゼンとしないのはわたしだけ? いやね、「PLUTO」がね。

 確かに、「PLUTO」は、今、いちばん話題になってるし、きっと傑作になるんだろうし、ムチャ面白いし、ワクワクするし。でもねー、浦沢直樹は小学館の賞も、講談社の賞もとってるし、手塚治虫文化賞だって2度目だよ。大御所すぎないか。

 しかも、「PLUTO」は、まだ2巻までしか刊行されてないじゃない。そりゃねー、候補になってる他の作品見ると、「ヒストリエ」だって2巻しか出てないけどね。「のだめ」も「舞姫」も「団地ともお」も「百鬼夜行抄」も「リアル」も、みーんなまだまだ連載中。ちゃんと終わってるのは「水鏡奇譚」と「夕凪の街 桜の国」だけ。

 確かに日本マンガは、連載中に評価されるのがあたりまえ。手塚治虫がかつて言ってたみたいに、連載終了まで批評するのはまかりならん、なんてことしてたら、批評も賞も存在できなくなっちゃうんだけどー。

 とは、わかってても、うーん、今、「PLUTO」なあ。なぜ待てないかなあ。せめてあと2年。

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May 07, 2005

今ごろびっくり「PLUTO」

 どぅわっ!

 時期のずれた話題で申しわけないですが、本日初めて、ヤマカム経由で、浦沢直樹「PLUTO」に登場するレクター博士型ロボット「ブラウ1589」が、青騎士であることを知りました。

 びっくりしたなあ。

 骨格がそっくり。槍でつらぬかれてる。BLAU=BLUE。1589=ブルボン王朝=ブルー・ボン。

 かなり前に雑誌「ダ・ヴィンチ」で記事にされてたそうですね。

 さらに、ネットでは、コチラの方がすでに2004年の1月に指摘されてました。賢い人がいるもんだ。もっぺん読みなおさなきゃ。

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May 06, 2005

手塚治虫と医師免許

(前回からの続きです。最終回)

 中野晴行「そうだったのか手塚治虫 天才が見抜いていた日本人の本質」(2005年祥伝社新書)が最近刊行されました。著者は手塚治虫に関しては専門家と言っていい人物ですが、彼が手塚治虫に関するデータの根拠にしてるのが、「手塚治虫展図録」(東京国立近代美術館・朝日新聞社)です。

 わたし持ってません。おそらく詳しい手塚年譜も掲載されてるのでしょうが、今、簡単に読める手塚治虫の年譜は、以下の2種。

・asahi.comの「飛べ!鉄腕アトム」のコーナーの年譜
・手塚治虫@ワールドの年譜

 後者は、「手塚治虫全史 その素顔と業績」(1998年秋田書店)に掲載されている年譜と同じもののようです。この2種の年譜とも、大阪大学附属医学専門部入学が1945年、卒業が1951年で、一致してます。6年かけての卒業ですが、この時期、阪大医専部は5年制。1年留年してることは年譜には書いてありません。

 ま、あれほど大量の作品を描き続けていた時期の手塚治虫が、フツーに卒業できたと考えるほうがおかしいですわね。

 ここで、asahi.comの年譜に奇妙な記述が。

・1951年:大阪大学附属病院でインターン生活始まる。医師国家試験に落ちる。

 国家試験に落ちる?

 この記述は明らかに間違いです。戦前、日本では医学部・医大・医専で教育を受け、各学校を卒業しさえすれば、試験なしで医師免許が貰えました。戦後これはGHQに改められ、1946年には早くも第1回医師国家試験が施行されています。

 これに加えて、学校卒業後1年間のインターン(無給研修)が義務付けられ、国家試験を受ける資格を得るのはインターン終了後となりました。

 つまり、手塚治虫が医専部を卒業したのが1951年ならば、その年には国家試験を受けることはできなかったはずで、1951年に国家試験に落ちることは、やりたくても不可能。

 ならば、彼が国家試験に落ちた話は、どこから出てきたのか。ここで気になるのが、小野耕世「手塚治虫 マンガの宇宙へ旅立つ」(1989年ブロンズ新社)の中の文章。

・この年(1952年)の7月、オサムは医師の国家試験を受け、翌1953年9月、医師の免許を手にした。

 試験が1952年で、医師免許を貰うのが1年以上たってからなんてことがありうるのか。桜井哲夫「手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者」(1990年講談社現代新書)には、試験が1953年7月、医師免許取得も1953年9月と書いてます。でも、だったら、インターンが終わった1952年から1年間、手塚は何をしてたんだよっ。

 ここで、わたしは1952年から手塚治虫が何回か国家試験に落ちたんじゃないかと考えました。しかし、その後調べたところ、試験合格と免許取得のタイムラグはありうるようです。

 現在の医師国家試験は年1回、2月に施行され、3月末に合否発表。その数週間後に医師免許が手許に届くらしい。しかし、手塚治虫が受けた1952年には、試験は年2回、5月と11月に施行されてたようです。5月の試験の結果発表が7月ごろか。

 この当時、試験に合格しても、医師免許証はなかなか発行されなかったみたい。同時期の試験を受けて合格しても、医師免許取得の時期がバラバラで、同年の8月であったり、9月であったり、12月になったり。翌年になった人もいます。

 というわけで、試験が1952年、免許取得が1953年でも、OKみたい(それにしても1年以上かかるものかなあ。翌年の試験も終わってんぞ)。微妙に疑惑は残りますが。

 順調に行けば、手塚治虫が合格したのは1952年の第12回医師国家試験のはずです。国に返還するかどうかで、一時ニュースになった手塚の医師免許証を見ることができれば、このことはすぐ確認がとれるんですけどね。

 さて、マンガ家・手塚治虫にとって、医学生という立場はどういうものだったのか。すでにデビュー作「マァチャンの日記帳」のとき、「大阪帝大医学専門部」の現役学生であることが紹介されていました。

 彼の自伝「ぼくはマンガ家」によると、

・当時の「週刊朝日」にも、「学生漫画家手塚云々」と書かれて、「ロストワールド」がとりあげられたし、事実、よく売れた。

 学生マンガ家と紹介されたなら、医学生であるとも書かれたはずです。

 また、学童社が「ジャングル大帝」単行本を発行したときの、電車内吊り広告はこんなふう。

・若き医学者の余技は遂に日本の漫画を大転化一新させた!! その人気今や圧倒的 豊かな空想 科学的センス 文学的香気に充ちた比類ない優秀漫画の出現 特にお子様の教育に関心を持つ御家庭に奨む

 中野晴行「マンガ産業論」によりますと、この時代、サイフを握ってて実際にマンガを買うのは、子供じゃなくて、親だった。この広告は、もちろん親世代に向けたもので、「若き医学者」というコピーはすごく有効だったはず。

 「冒険王」1952年6月号の記事「手塚治虫先生とマンガ問答」。

・「いや、ぼくはもちろん、マンガはすきですが、ほんとうは、これでも、お医者さんですよ。お医者さんのたまごなんですよ。」
「え? あの、お医者さん?」
「ぼくは、いま、阪大病院の小児科室にいます。しかし、聴診器を患者さんにあてていると、いつのまにかマンガの場面になってきて、よわっちゃうんですよ。アッハッハ。」

 手塚治虫にとって、医学生であることは、大きなセールスポイントになっていました。

 もちろん、マンガ家は浮草稼業。いつ人気がなくなるかもしれません。だから、手に職をつけておきたかった。ただし、ここまで医学生であることが宣伝材料になってしまうと、マンガ家・手塚治虫にとっても、医学生をやめてマンガに専念する選択肢はなかったはずです。

 医学生が勉強しなきゃいけない総量が、現在と比べてはるかに少なかったとはいえ、手塚は、フルタイムのマンガ家にとっても、多い仕事量をこなした上で勉強を続けていました。漫画少年に「ジャングル大帝」、少年に「アトム大使」、漫画と讀物に「新世界ルルー」、少年画報に「サボテン君」、冒険王に「冒険狂時代」、おもしろブックに「ピピちゃん」、そして描き下ろしの単行本。オールタイム・ベストワン級の傑作「来るべき世界」は1951年作です。こりゃ大変だ。

 そして、卒業。インターン。国家試験。ここで医師免許を手にしなけりゃ、何のための6年間やらわからない上に、マンガ家・手塚としても今後、医者というセールスポイントがなくなってしまう。何が何でも合格しなけりゃならなかったはずで、いかに戦後、医者を増やす国策下であったとしても、プレッシャーは存在したでしょう。

 手塚治虫が東京に転居したのは、インターンが終わって、医師国家試験が終わって、合格発表も終わって、から、と考えたほうが、すっきりするようです。新たに医師免許取得という肩書きを得て、手塚治虫は晴れて東京に進出しました。

 今回は、これでおしまい。当然、次にくる話題は「手塚治虫と医学博士」ですが、これについては資料が集まっておりませんので、またいずれ。

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May 04, 2005

手塚治虫と学歴

(前回からの続きになります)

 手塚治虫はデビュー時から年令を2歳上に自称していました。それでは、学歴を大阪大学医学部卒と自称し始めたのはいつからでしょうか。さすがに旧制中学から帝大に直接入学できないことは衆知のことでしたから、中学卒業から医学部入学までの経歴について、どのようにツジツマをあわせていたか。

 桜井哲夫「手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者」(1990年講談社現代新書)には以下のようにまとめられています。

・「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会):旧制浪華高校から1945年に大阪大学予科(第二医学部)へ転入学。1947年、医学部入学。

・ユリイカの手塚治虫特集号(1983年2月号):1944年、浪華高校理乙入学。1945年、大阪大学医学部予科入学。1946年、大阪大学医学部入学。

・早野泰造による年譜(「手塚治虫ファンクラブ・東北『蟲の森』創刊準備号」1988年8月、「一億人の手塚治虫」1989年JICC出版局):1944年、浪華高校入学。1945年、大阪大学付属医学専門学校入学。

 もちろんこれら以前より、手塚の大阪大学医学部卒という学歴は自称されていました。わたしは新書版以前の古い手塚本を持っていないのですが、1968年に刊行開始された虫プロの虫コミックスには、著者略歴が記載されるのが恒例でした。手塚治虫のはこんなふう。

・本名・手塚治/生年月日・大正15年(1926年)11月3日/出生地・大阪府豊中市
・大阪府立池田師範附属小学校のころまんがをかきはじめる。
・北野中学を卒業後、昭19年(1944年)、浪華高校理乙(現大阪大学教養部)に入学、ディズニーのまんがに心酔し、児童まんが家をこころざす。
・昭21年(1946年)1月より「マーチャンの日記」(毎日新聞、四コマ)の連載をはじめる。4月、大阪大学医学部に入学。「新宝島」(育英出版)を刊行、40万部を売りつくす。
・昭23年(1948年)大阪大学医学部を卒業後、同大学附属病院に勤務。翌年、「ジャングル大帝」(漫画少年)、「アトム大使」(鉄腕アトムの前身。少年)の連載をはじめる。
・昭26年(1951年)関西まんが会を結成。
・昭27年(1952年)、東京に移住。

 1948年にはやくも医学部を卒業してることになってますし(ホントは1951年)、ジャングル大帝やアトム大使の連載開始が1949年になってます(実際はジャングル大帝1950年、アトム大使1951年)。すっごく変。

 後年の版では、昭和23年と昭和26年の項目を入れ替えて記載されるように修正されましたが、これはこれで、ジャングル大帝やアトム大使が1952年になっちゃいました。

 筑摩書房の「現代漫画6巻 手塚治虫集」(1970年)では、こんなふう。

・大正15年(1926年)11月3日大阪に生まれる。
・北野中学在学中に漫画回覧雑誌を作り本格的に漫画を描き出す。
・昭和20年(1945年)旧制浪華高校入学。学徒通年動員で工場生活を送り乍ら漫画に熱中。
・21年(1946年)「マアチャンの日記帳」(毎日小学生新聞連載)でデビュー。南部正太郎、武田将美と“スリー漫画クラブ”を結成。
・22年(1947年)酒井七馬構成の「新宝島」刊行、ベストセラーになる。
・同年大阪大学医学部入学、学業のかたわら月10本の長編連載を続け、26年(1951年)卒業。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」連載はじまる。

 手塚治虫がホントに医専部に入学したのが1945年。これらの著者略歴では、大阪大学医学部に入学した年は、1946年だったり1947年だったりバラバラ。

 共通して登場するのが旧制「浪華」高校。実は、この学校は実在しません。

 手塚治虫が北野中学を卒業するとき、受験して落ちたのが大阪府立「浪速」高校でした。この学校は7年制の中高一貫校で、中学にあたる尋常科と高等科からなります。通常、旧制中学は5年制で、試験に受かれば4年で旧制高校に進むことも可能なシステムでしたが、この学校は最初から中学が4年。桜井哲夫によると、「良家の坊ちゃんが多く、受験にあたって、父母兄姉が三人もつきそいでくるのがあたりまえの学校だった」

 また、手塚略歴でときどき出ててくるのが、大阪大学予科。

 予科というのは、今で言う大学教養部に相当するもので、いろんな大学が予科を持っていました。しかし、この時代、帝大で予科を持っていたのは北海道・京城(ソウル)・台北だけで、阪大に予科はありませんでした。

 このように、手塚治虫は、「浪華」高校や大阪大学予科を創作し、1926年生まれで、大阪大学医学部卒業であるというウソを補強したのです。

 手塚が自称したとおり1926年生まれだと仮定すると、北野中学入学が2年早まって1939年。中学を5年制のままで卒業したとして、1944年に17歳で旧制高校に進む年令です。ここで登場するのが架空の「浪華」高校。旧制高校は今の大学教養部にあたりますから、予科を含めて2年から3年で阪大医学部に入学したことにすればリクツは合わないことはない。

 手塚とほぼ同世代の北杜夫は、1927年生まれ。1945年、終戦の直前に旧制松本高校入学。3年制で卒業したのち、1948年東北大学医学部入学。4年制の教育の後1952年卒業しています。

 手塚治虫が1926年生まれと自称して、留年して阪大医専部を卒業したのが、1951年。おお、ぴったりじゃん。

 手塚治虫は、なぜ、架空の高校までつくって大阪大学医学部卒業を自称したのでしょうか。

 全国の「医専」は、戦後、医科大学や大学医学部に変身しました。ところが、帝大の附属医専部は、1950年から1951年に「廃止」され、存在そのものがなくなってしまいました。このためかどうか、帝大附属医専部卒の医者は、帝大医学部卒を自称することが少なくなかったそうです。

 格は帝大医学部のほうがずっと上ですが、このあたりのこと、一般人にはどっちがどっちかよくわかんないしね。手塚治虫も、当時の医者の風潮にならって、医学部卒を自称したのでしょう。

 すでになくなってしまった大阪大学附属医学専門部なんて名前を出しても、医療関係以外には意味がわからない。「大阪大学」まではウソじゃないし、最初は誤解されてても、それを修正しないうちにヒッコミがつかなくなったのかもしれません。マンガ界には医者は手塚治虫だけですが、つきあいのできた文壇には医者出身の作家はざらにいました。

 医学生、医者、医学博士、というのは手塚治虫の「売り」でした。さらに「大阪大学医学部」まで加われば、これはもう無敵。この経歴が、マンガ家・編集者・読者に「手塚はスゴイ」と思わせた一因でもあるのは、間違いないところでしょう。

 ただ、手塚先生、あまりにズボラでした。年令問題と学歴問題、二重のウソをうまくつなぐ手を考えついたものの、本を出すたびに経歴が変化する。略歴を出さなきゃいけなくなるたびに、その場その場でテキトーにつくったもののように見えます。

 自伝などでは、自分の年令や学校の名が出てこないように、うまく隠してます。特に学歴の問題は、手塚治虫の心の闇の部分ではあるようです。

 もうちょっとだけ続きます。

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May 03, 2005

手塚治虫と年令

(前回からの続きになります)

 手塚治虫は1928年(昭和3年)生まれですが、生涯、1926年(大正15年)生まれと自称していました。これはいつから何のために始まったのでしょうか。

 ネット上には、手塚が医専出身をごまかすために年令を詐称したなどと、おバカな話が出回ってますが、そんなことはありません。手塚のデビューは1946年1月。「小國民新聞」(のちの毎日小学生新聞)連載の「マァチャンの日記帳」です。そのときの作者紹介。

・あたらしく、あすかられんさいするまん畫(ぐわ)「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(てづかはるむし)さんは、みなさんと同じくりくり坊主で、十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大醫學専門部に通學して、お醫者さんになる勉強をしてゐられますが、小さいときからまん畫が大好きで、國民學校二年生のときからいろいろのまん畫をかいて、たのしんでゐられました。あまり上手なので、みなさんのために、れんさいすることにしました。ほがらかなマアチャンをかはいがつてあげてください。

 このとき手塚治虫、17歳。中学は4年で修了してしまっていましたから、医専の同級生の中でも最も若い年令です。手塚は、デビューのときから、年令を2歳多く自称していたことになります。これは確信犯なのか、あるいは誤植をそのまま利用したのか。

 1945年、阪大医専部に入学したときの手塚の写真(伴俊男「手塚治虫物語」)や、1946年ごろ、友達とおちゃらける手塚の写真(泉谷迪「手塚治虫少年の実像」)が残ってますが、今でいうならフツーの高校生。むしろ童顔で、中学生といっても通るかもしれない。

 こういうトッポイ顔の17歳が、マンガ家として売り出そうとしてるわけですから、2歳、年を多く言うのもむべなるかな。もしかしたら、医専の年上の同級生と伍して酒を飲むときも、年令のサバ読んでたかもしれません。

 いずれにしても、手塚治虫はデビューのときの年令を使って、一生過ごすことになりました。

 以下次回。

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May 02, 2005

手塚治虫と医学専門部

 手塚治虫の経歴のうち、微妙な問題が3点あります。

 ひとつは、年令の問題。

 手塚自身は1926年(大正15年)11月3日生と自称していましたが、没後に、実際は1928年(昭和3年)生まれであることがわかりました。終戦時に18歳だったのか16歳だったのかは、手塚治虫の人格形成を考えるとき、微妙かつ重要な問題と思われます。

 ふたつめは、手塚治虫は大阪大学医学部卒を自称していましたが、ホントに通ってたのは大阪大学附属医学専門部であったこと。でも、これはまあ、帝大医専部卒の多くの医者が、帝大医学部卒を自称するみたいですから、その世界じゃ珍しくないみたい。

 みっつめは、医師国家試験合格、医師免許取得がいつだったか。1952年説と1953年説があるようです。

 戦前の医学専門学校は、通常「医専」と略されますが、歴史的にはいろんなタイプがあったようです。ただし、現在の「専門学校」とはまるで別物ですので、誤解なきよう。

 帝大医学部の多くは、官立の旧制高校医学部として出発しています。たとえば仙台では、第二高等中学校医学部(通称、二高医学部)が明治21年より新入生を受け入れ始め、その後この学校が名称をいろいろ変えていきます。

 明治34年から仙台医学専門学校(通称、仙台医専)、明治45年からは東北帝国大学医学専門部、大正4年から東北帝国大学医科大学、そして大正8年から東北帝国大学医学部。ああややこしいっ。つまり、帝大医学部の前身となる「医専」が存在したわけです。

 帝大医学部卒は、むっちゃエリートですから、開業医なんかにはなりません。これに対して、開業医養成のための公立や私立の医科大学、医学専門学校がありました。これも「医専」です。

 その後、日中戦争のさなか昭和14年から15年にかけて、各帝大や医大に臨時附属医学専門部が併設されました。これは不足する軍医を養成するための学校で、帝大の医学部とはまったく別のものです。

 さらに太平洋戦争が始まると、医師数はこれでも足りなくなり、昭和18年ごろから全国各地に、軍医養成のための医学専門学校が設立されました(ただし卒業生を出す前に戦争が終わっちゃいました。ドロナワですなあ)。多くは県立病院などに併設されたものです。これらもすべて「医専」と略されます。

 すなわち「医専」とは、大きく分けて(1)帝大医学部の前身、(2)開業医養成学校、(3)軍医養成学校の3タイプがあったのです。

 戦争中、どれだけ軍医が不足していたかというと、たとえば、わたしの同居人の祖父は、昭和13年に岩手医専(私立)を卒業したあと、神戸で勤務医。その後、四国の漁村で開業したとたん、召集されてニューギニアで戦死したそうです。亡くなったとき37歳だったんだから、こんな年寄りを軍医にするなよ。

 同居人の祖父と同時に召集された軍医100人のうち、戦後、無事に帰国できたのは10人しかいなかったそうです。軍医になることは死にに行くようなものでした。

 手塚治虫は大阪の名門、北野中学に通学していました。旧制中学は本来5年制でしたが、戦争の激化の中、授業もろくになく、勤労動員ばかりのうえ、手塚治虫の学年だけ、4年で卒業となってしまいました。

 手塚は1945年(昭和20年)、大阪府立浪速高校を受験して落ち、大阪大学附属医学専門部に合格します。このとき16歳。高校進学の夢が果たせず、敗色濃い戦争末期に、軍医養成のための学校に進学する。前途に待つ自分の将来は、軍医になって戦場に向かうことしかありません。おそらくその先には死が見えていたはず。この時代、手塚治虫は将来に何らかの夢を持てたでしょうか。

 手塚治虫の描くペシミズムの原点が、この時代にあります。

 戦後、軍医をあわてて育てる必要がなくなります。地方の医専は、医科大学や大学医学部に変身しましたが、帝大の医学専門部は存在意義そのものが消失してしまいました。

 このころの医学専門部はもともと4年制でしたが、速く医師をつくるより、十分な教育が必要となり5年制に。手塚はすでに人気マンガ家になっていたため留年して、卒業したのが1951年3月。同時に、阪大医専部は廃止されました。

 以下次回。

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