手塚治虫の少年時代
大阪の池田といえば、上方落語ファンには「池田の猪買い(いけだのししかい)」でおなじみですが、ここは最近、あの宅間守が事件をおこした大坂教育大学附属池田小学校がある場所として有名になっちゃいましたね。で、この学校はもと、大阪府立池田師範附属小学校と言いまして、手塚治虫の母校です。
手塚治虫は、実家のあった宝塚から池田までは阪急宝塚線を利用して通学していましたが、これと途中まで同じ方向に走ってるのが昨日大きな事故をおこしたJR福知山線です。というわけで、わたし、あのあたりの地名を聞くたびに手塚の名を思い浮かべてしまう。
シートンを探して図書館の子供の本周辺をうろついておりましたとき(うーむ、アヤシゲに見えたかもしんない)、手塚治虫の子供向け伝記なんてのもありまして、そっちも読んでみました。そうか、手塚はすでに歴史上の人物なんだなあ。
子供向けの伝記というものは、少年時代のエピソードに多く筆をさくことになっているらしくて、たとえばポプラ社の「おもしろくてやくにたつ子どもの伝記」シリーズの「手塚治虫」も、前半は子供時代のオハナシ。手塚が「新宝島」を描くまでが70%です。
オトナが読んで、ちゃんとしてるなあと感心したのが、小野耕世が書いたブロンズ新社「にんげんの物語」のシリーズ「手塚治虫 マンガの宇宙へ旅立つ」であります。
実はわたし、この本の存在を知らなかったのですが、手塚治虫が亡くなったのが1989年2月9日。で、この本の刊行が1989年の10月でして、没後、もっとも早い伝記となります。どうしてこんなに早く伝記が書けたかといいますと、実はこの本、手塚の生前、1987年から企画が始まっており、著者の小野耕世は、宝塚で手塚にインタビューとかしてたんですね。その他、手塚の同級生とか多数にも話を聞いている。
で、この本もほとんどが少年時代の話です。子供のための伝記が子供時代を描くのは、子供たちが子供時代にどう生活するかの指針を与えるためにあるようです。ほら、ワシントンが桜の木を切ったのを白状する話(これはマユツバということですが)で、正直の大切さを教える。手塚治虫の少年時代から、子供たちは何を学ぶんでしょうね。
少年時代の手塚治虫は何をしていたか。
手塚治虫、本名・治、1928年11月3日生まれ。11月3日は今は文化の日ですが、もともとは明治天皇誕生日の明治節。オサムの名は明「治」からとったものです。
小学生時代の手塚治虫は。雑誌「子供の科学」を読んでいた。宝塚歌劇を見ていた。人前で話すのが得意だった。空想の世界を作文に書いた。電車の運転手を覗いていた。マンガを山のように持っていた。裏山で遊んだ。プラネタリウムが好きだった。秘密結社をつくった。ピアノを自在に弾けた。そしてマンガを描いていた。
この本で大きく取り上げられているのが、手塚治虫の昆虫採集です。小学5年生から始まり、北野中学2年の時には自作の「原色甲虫図譜」という手描きの図鑑を2集まで作成。その後友人と「昆虫の世界」という雑誌を、中学4年までに11号まで刊行しました。
そして、戦争がありました。
中学の軍事教練のとき、「行軍に捕虫ビンをもっていっていいですか」と質問した話は、いかにも手塚らしいというか何というか。中学3年(1943年)から勤労動員。本来、旧制中学は5年までですが、手塚の学年は4年でくりあげ卒業することになり、4年生の9月からも学校には行かず、軍需工場へ。
1945年の3月に、北野中学を4年で卒業。同年、大阪大学附属医学専門部に入学。当時いっぱいつくられた他の医学専門学校と同じく、軍医を早く多量につくるための学校で、旧制中学卒業で入学することができました。旧制高校(今の大学教養部にあたります)を卒業してからはいる大阪大学医学部とはちょと違う。何にしても戦時中の教育システムは混乱しててよくわからん。
医学専門部に入学しても、勤労動員が続きます。6月からは大阪空襲。このころ、手塚はなお昆虫採集を続けていました。8月15日終戦。このとき16歳、もうすぐ17歳。今ならまだ高校2年です。
戦争が終わって、手塚治虫は学生マンガ家として売り出します。「新宝島」「地底国の怪人」「ロストワールド」「来るべき世界」など、手塚の単行本時代のほとんどが、大阪の医学生時代に描かれたものです。やっぱこのヒト天才だわ。
医学専門部は本来4年制でしたが、戦後、5年制に変更されます。さすがに手塚はマンガばっかり描いてましたから1年留年して、1951年3月に卒業。戦前の日本には医師国家試験などというものはなく、学校卒業すれば、即、お医者でしたが、戦後はシステムが変わって、卒業後1年間のインターンという無給研修があり、その後、国家試験にとおってやっと医師を名のれるようになりました。手塚のインターン終了が1952年。
手塚治虫が医師国家試験を受けたのが、1952年の7月。医師免許を手にしたのが1953年9月。普通こんなに時間がかかるわけはありませんから、こりゃ何回か試験に落ちてるな。(←この部分については、コチラで再検討しました)
インターンが終了した1952年、やっと手塚治虫は東京に居を移します。このとき、まだ23歳。すでに「漫画少年」では「ジャングル大帝」の連載が始まっており、「少年」では「アトム大使」が終了して、この年から「鉄腕アトム」の連載が開始します。
このように戦後マンガは、いち医学生が学校に通いながら描いたものから始まったのです。
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