追悼・岡田史子
伊藤剛氏のブログで、岡田史子が亡くなったことを知りました。
自分の一部が欠けてしまったような気がします。わたしにとって、虫プロ「COM」の読書体験はとても大きなものですが、「COM」とは何かと問われれば、手塚治虫や石森章太郎ではなく、宮谷一彦や青柳裕介でもなく、永島慎二と岡田史子こそ、「COM」そのものでした。
岡田史子がわたしたちの前に初めて登場したのは、「COM」1967年2月号の「まんが予備校 ぐら・こん」への投稿作、「太陽と骸骨のような少年」7ページ。全ページが縮小され掲載されました。各方面に衝撃を与えた作品だったらしいのですが、わたしが「COM」を初めて買ったのは1967年3月号。この号はのちに手に入れて読んだものです。
少年と看護婦が、詩について語り合う。彼らがいるのは精神病院のようで、少年はときどき正気に戻り、このように普通に会話できるらしい。ストーリーらしきものはありません。ただ、この作品はそれまでマンガが表現したことのない世界を描こうとしていたのはまちがいない。岡田史子、1949年生まれ。いわゆる24年組と同世代。このときまだ高校2年生でした。
わたしが最初に出会った岡田史子は、1967年6月号の「ぐら・こん」掲載の「フライトハイトと白い骨」です。ただし29ページ中2ページだけの掲載で、ほとんど印象には残りませんでした。作品の全ページを読めるようになったのは、「岡田史子作品集1 赤い蔓草」(NTT出版、1992年)が発行されてから。
作品として通して読んだのは、「COM」1967年8月号の特集「新人まんが家競作集」。登場したのは、宮谷一彦、白石晶子、青柳裕介、中島宏治、小山田つとむ、はせがわほうせい、そして岡田史子。4ページの「夏」という作品で、少年が森で死体を見つけるという、やーな作品でしたが、瞳もないタドンのような大きな黒い目がブキミでした。主人公、死体、別の少年が登場しますが、いったいホントに死んでるのは誰やらワカラナイという、難解な作品です。
そして衝撃の「ポーヴレト」。「COM」1967年10月号の月例新人入選作は、星野安司(のちの日野日出志です)「つめたい汗」でしたが、このときの次席が、岡田史子「ポーヴレト」24ページ。1ページに9ページ分が縮小される変形の掲載方法でしたが、全ページを読むことができました。
作品ごとに絵柄を変えてきた岡田史子は、この作品で、白目の部分を黒く塗り、瞳を白く抜きました。主人公ポーヴレト(♂)が恋人に自分の過去を語る。飼っていたネコの死。姉の死。そして友人を殺してしまったこと。そして、翌日彼は従軍記者として戦場に向かう。
これはすごかった。この小さく印刷された作品を、どれほど読み返したか。あとから思えば、この作品こそ1970年代少女マンガの先駆でした。
1968年1月号で、傑作「ガラス玉」が月例新人入選作として掲載されました。主人公レド(♂)が工場から帰ってくると、部屋に自分の死体が倒れている。そして親の形見のガラス玉をなくなっている。彼は恋人とガラス玉を探しに出かけますが、ガラス玉は子供時代には誰もが持っているけど、いつのまにやらなくしてしまうものらしい。レドは、ガラス玉を自分で新しくつくるために、「アトラクシア」という国にひとりで旅立つ。ラストシーンは、恋人の独白「ガラス玉ってなんなのよ レドのばか!」
暗喩に満ちた幻想的な作品です。「アトラクシア」とは、四方田犬彦によるとギリシャ語で「魂の静謐」のことらしい。つまりあの世か? 岡田史子が繰り返し語る「死」は、この時代、そして後年を含めても、マンガのテーマとして稀有な存在でした。
以後、岡田史子は1970年まで、「COM」を中心に精力的に作品を発表し、多くの傑作を残しましたが、1971年以後は筆を折った形になりました。1978年にカムバックして、少女コミックやマンガ少年に作品を発表。
わたしの手許にあるのは「増刊週刊少女コミックDELUXE」1979年1月27日号。「アンニーおばさんの砂金ちゃん」。
作家のアンニー女史が病におかされ死期が迫る。生き別れの息子を探そうとすると、候補者が300人。うち2人が残るが、どちらが息子かわからない、というお話。死が登場しますが、明らかに、エンタメです。この方面も、もっと読みたかった。
歴史的に、日本マンガが大きく進歩しようとしたときに登場し、多くのマンガ家に影響を与え、人々の記憶に残るさまざまな作品を残した岡田史子。先駆者というのは、現れるべくして現れるものなのでしょう。
ご冥福をお祈りします。
Comments
コメントありがとうございます。ネット、あるいはブログという手段を得て、少しでも岡田作品を語れたことに感謝しています。合掌。
Posted by: 漫棚通信 | April 23, 2005 08:48 PM
岡田さんが亡くなったと聞き、ショックを受けてます。こんな事になるんだったら、去年 上京した時会いに行けば良かったと思ってます。十代の頃から、岡田さんには大変お世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。
Posted by: 山口 芳則 | April 23, 2005 01:01 PM
コメントありがとうございます。岡田史子は、わたしにとって全肯定なので、もう批評的には読めません。彼女と同世代の萩尾望都だけでなく、その下の柴門ふみ、さべあのま、高野文子らにも影響を与えたと言われています。ネット上では誤解があるようですが、誰かが持ち上げたから神格化されたのではなく、作品を発表していた当時から、輝くスターでしたよ。
Posted by: 漫棚通信 | April 09, 2005 08:02 PM
初めまして。
突然の岡田史子氏訃報のニュースを聞いて、ネットで検索してたらここに来ました。
リアルタイムに「COM」を読んでいた方の話を聞けて参考になりました。
自分は1979年頃に単行本で『ガラス玉』を読んで衝撃を受けてすっかり魅了されてしまったものです。
ちょうど高野文子が描き出した頃で、僕の中ではふたりの「ふみこ」という天才のイメージが重なるところもありました。
ご冥福をお祈りします。
Posted by: kusukusu | April 09, 2005 07:12 PM
残念、なぜ残念なのか実態わからないけど
せっかく再会したのにいなくなっちゃたという気持ちでしょうか
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな みたいな
「永島慎二と岡田史子」組み合わせは絵柄、影響面でそうなんだと納得です
しばらく岡田さんを語りたい気分です
Posted by: むうくん | April 09, 2005 10:07 AM