梶原一騎の原作作法(その3)
(前回からの続きです。最終回)
梶原一騎のマンガ原作原稿がいちばん何に似てるかというと、やはり小説でしょう。梶原一騎は実は小説が書きたかったのか。
もっとも小説風な書き出しの、連載52回のようなものもあります。
「影の大番長がベールをぬいだぞ!」
「は……はじめて見たぜっ、おおっぴらにスケバン・グループ
ひきつれノシ歩くのを!」
「い、いったい、なぜ自分から正体をあらわしたんだ?
影の大番長イコール高原由紀とは、だれもしが〈ママ〉しっちゃいるが口にしてはならねえタブーだったのに……」
ヒソヒソ、ザワザワ!! 校庭のあちこち、ささやきあう男子生徒たちの注目あびて――
ザッ、ザッ、ザッ!! スケバン親衛隊したがえ、まかり通る高原由紀のセーラー服のリボンが、さっそう朝風にひるがえる。
状況の説明なしに、突然セリフから始まるという、マンガ原作を放棄したような書き方です。これではマンガ家は困る。当然、マンガのほうでこのシーンは、スケバンたちをひきつれた高原由紀の遠景から始まります。ならば原作もそこから書き始めるべきでは。これは梶原一騎のモチベーションを維持するための手法なのか。
ただし、小説っぽくないのが、「ヒソヒソ、ザワザワ!!」「ザッ、ザッ、ザッ!!」の擬音の部分です。でも、最近のライトノベルとかくわしくないんですが、今は、小説でも擬音多くなってますか?
梶原一騎といえども、マンガ表現を意識した書き方をすることもあります。
連載9回より引用。
夜ふけの早乙女邸の建物。
すっぽり雪化粧して、その窓の一つにほんのりカーテンごしの灯がもれて……
その内部は愛の勉強部屋である。
豪華なステレオ、白いピアノ、人形など。
愛は机に向かい、机上にレター・ペーパーをひろげている。
(岩清水くんの手紙……
秀才だけど、ひかえめで内気な、あの岩清水君が……と……
うけとったとき、わたしをおどろかせた炎のような文章!)
チクタク、チクタク……鳩時計の音とダブって、スタンドに灯ほの暗い虚空におどる、その炎の活字!
マンガ原作らしく、場面の説明から始まってます。部屋のレイアウトなどはマンガ家におまかせ。ながやす巧の描いたピアノはアップライトですが、超大金持ちの早乙女家ですから、ここはぜひ、グランドピアノが欲しかった。梶原一騎はどちらをイメージしていたのか。このあたりの意思疎通が不足しています。
そして、珍しく活字の指定がありますが、それが、「炎の活字」。 燃える字!?
“夏休みのあいだ、きみのことばかり考えていたあげく、このことだけ、きみにつたえておく決心をしました。
おたがい、まだ中三では勉強が先決であり、恋だの愛だのという感情には慎重でなければならぬと、よくわかっています。
だから一つだけ、ぼくの心からなる誓いだけ、つたえておきます――
早乙女愛よ、岩清水弘は、きみのためなら死ねる!”
その部分の活字のみ巨大化して――
“きみのためなら死ねる!”
さらに巨大化して――
“きみのためなら死ねる!”(←二行分使用して大きく書いてあります)
この後、岩清水が(心の中で)連発して有名になったフレーズ、「きみのためなら死ねる」の初登場シーンです。活字の大きさが指定されています。
ながやす巧はこう描きました。
1コマめ。愛の部屋を斜め上方より鳥瞰。虚空に浮かぶ岩清水の手紙の文章。フキダシはありません。字だけ。「夏休みのあいだ、きみのことばかり考えていたあげく、このことだけ、きみにつたえておく決心をしました」
2コマめ。鳩時計のアップ。擬音で「チクタクチクタク」。「おたがい、まだ中三では勉強が先決であり、恋だの愛だのという感情には慎重でなければならぬと、よくわかっています」
3コマめ。愛の手もとの手紙のアップ。「だから一つだけ、ぼくの心からなる誓いだけ、つたえておきます――」
4コマめ。愛の顔のアップ。大きな活字で「早乙女愛よ、岩清水弘は、きみのためなら死ねる!」
5コマめ。バックは黒のみ、活字は白ヌキでさらに大きく「“きみのためなら死ねる!”」
6コマめ。さらに大きく愛の顔のアップ。さらに大きな活字で「“きみのためなら死ねる!”」
健闘してると思います。ただ、梶原一騎がマンガ表現として活字にまで口を出したのだから、何らかの具体的イメージがあったはず。この原作原稿で、それが伝えられたとは思えません。ここは文章で書くなら、もっと細かい表現や指示が必要。さらに活字の級数まで指定すべきでした。
「わたしは……早乙女愛は……」
愛のつぶやき、じっと虚空の一点みつめる視線のゆくてに、幼児キリストを抱いて金色の輪にくるまれた聖母マリアの画像。
「太賀誠のために死ねるだろうか?」
と、ひたむきな瞳の色で自問自答。
「いいえ、そのまえに……
わたしは彼を愛しているのだろうか?」
そのとき――ポッ、ポッ、ポッ、ポッ、ポッ!
にわかに、ばかに威勢よく鳩時計の中からとびだした、かわいい鳩が五つさえずって、ひっこんだ。
「愛している!」
と、ひくい、はげしい愛のさけび!
「す……すくなくとも……
あの遠い日の魔のスロープで、見知らぬ少女をすくって血にまみれた彼をあいしているっ、永遠にかわらず!」
―――眉間を血にそめ、不敵に、ほこらしく立ちはだかる、おさない誠の図!
「そ、そして、あの彼のためになら……」
と、つづけて愛、
「あのときの太賀誠のためになら、わたしは……死ねる!」
朝の5時だと書かずに「鳩が五つさえずって」と書くところが小説っぽいといえますが、幻想のマリア像や回想の誠を一行ですませてしまうのは、マンガ原作ならでは。
梶原一騎の原稿では心で思っていることは( )で、実際の発言は「 」で表現されます。ですから、ここでの愛の言葉は、全部実際に声に出してる。「つぶやき」と書いてありますしね。でも「わたしは……死ねる!」と、ひとりごとを言ってるとアブナイひとに見えちゃいますので、さすがにながやす巧は実際のマンガでは、ここの愛のセリフを心の声にしちゃった。フキダシで囲まずに、活字を宙にただよわせました。
「おれのこのキズは、どうしようもねえ、お人よしの紋章だった!
これからは他人をふみ台に、てめえだけ強く、のしあがる力の紋章にかえてやるぜ!
名門・青葉台学園を舞台に――
ハーッハッハッハ!!」
くるおしく哄笑する誠の回想シーン!
「た……たとえ、いまの彼がどうであろうと、あのときの男らしい、ほこりたかい、そう……わたしの白馬の騎士と別人ではないのだわ!
きっと、きっと、あのときの太賀誠は、いまの彼の中のどこかに、すんでいる!」
と、必死にあらがうように愛、
「あの永遠の像を愛しつづけ、つぐないつづければいいのだわ!
ど……どんなに苦しい、きびしい愛であり、つぐないであろうと、あの永遠像のためなら死ねるのだから……
そうだわ、へこたれたりする道理がなかったのだわ!」
いつしか……
その愛の面上に、ほのぼのとした微笑が……ひろがりつつあった。
微笑しながら、愛は涙をこぼしていた。
とめどなく涙は、あふれ、ながれた。
立って大きく窓をひらくと――
雪は降りやみ、星がまたたく東の空が、ほのかに白みはじめていた。
ただしマンガでも、心の声のまま、えんえんとしゃべり続けるのもヘンなので、「た……たとえ」のあとからは実際の声に出してます。こういうひとりごとシーンてのは、どうなんでしょう、小説というより、演劇っぽいような気がしますが。
梶原一騎作品のうち、「愛と誠」は代表作ではあるけれど、傑作ではありませんでした。終盤に近づくと展開は、残酷度アップ、下品度アップ、女性の肌の露出度も上がり、なぜか脈絡なく突然、愛がグアム旅行に出かけたり、何が何やら。
そして最後はロッキード事件に絡めて、政府高官こそ悪、という展開。ゴルフ場に殴り込んだ誠が「長官」を襲い、砂土谷に刺されて死んじゃう。海岸で愛と瀕死の誠が抱き合い、それを岩清水、高原由紀、座王権太が見つめるという、韓流ドラマみたいなラストシーンでした。これはこれで今、ウケるかな。
終盤の展開の乱れが、この直筆原稿からも伝わってきます。毎回、原稿に書いてある「純愛山河 愛と誠」の字。これがある時を境に荒れてきます。全連載175回中、115回以降。
新たな敵、緋桜団と砂土谷峻がすでに登場しており、その前の114回は、愛、誠と高原由紀がボートの上で語り合う回。その次回から「愛」の字は急に崩れて、ていねいさが消え、最後まで元に戻ることはありませんでした。このあたりで、梶原一騎の意欲が減退していったのがうかがえます。
さて、梶原一騎自身はマンガ原作原稿で小説を指向したと思われますが、完成したものは小説とは異なるものです。最終的な完成形がマンガである限り、擬音の多用は必要。レイアウトはマンガ家におまかせ。さらにはどのように「ものすごい」かを、マンガ家に預けてしまう書きかたをせざるを得ず、結局は小説的描写からは離れてしまいました。その結果、小説っぽいけど、シナリオのようでもあり、講談のようでもあるモノに。やはり、マンガ原作は小説ではありえない。
しかも、この原作の書きかたは、マンガ表現を意識したとき、マンガ家に意図を伝えるのに不十分な方法です。梶原一騎の方法では、原作者が最終的に管理できるのは、登場人物のセリフだけでしかありません。原作者が、画面レイアウトや、セリフのコマ分割による効果まで支配しようとするならば、梶原一騎とは違う方法が必要となりそうです。ほったゆみが「ヒカルの碁」で選んだ原作方法はネーム形式で、おそらくは「デスノート」の大場つぐみもそうでしょう。
しかし、マンガ家との共同作業という面を考えるなら、梶原方式は、竹熊健太郎の言うとおり、1+1=3を生み出す可能性のある方法でした。ながやす巧は梶原一騎の原作を読んで、自分なりの新しい演出を加えていってますし、あえて扱いを小さくしたところもある。梶原一騎の書いた連載第1回のアクションシーンに、愛のスキージャンプという効果的なシーンを付け加えたのは、マンガ家・ながやす巧です。最終的な仕上がりを担当するマンガ家が、プラスアルファしてくれるかもしれないのが梶原方式。
マンガ原作としてのネーム形式は、理想的な方法なのでしょうか。そのやり方では、マンガ家は純粋に画家の仕事しかしておらず、もっと大きなものを生み出す可能性が少なすぎないか。その点、梶原方式はその余地を残していた。それとも現代では、編集部が作品をきっちり管理する方が好ましくて、プラスアルファなんて、期待しちゃいけないんでしょうか。
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