永島先生アメリカゆき
のまとし氏からメールをいただきまして、お前の書いてることは間違っとるぞ、と。
のま氏は現在、豆本出版のパロマ舎を主宰されているかたで、1970年から1974年まで永島慎二の内弟子をされてから、野間吐史の名でガロや少年ジャンプにマンガを発表。のちにアニメーションの仕事もされています。
わたしの文章のどこが間違ってるかというと、まだブログになる以前の文章、「総本家漫棚通信」に置いてある「リメイクじゃなくトレース」と「永島慎二と1967年」であります。
最近刊行された、ふゅーじょんぷろだくと版「漫画家残酷物語」はオリジナル原稿版です。じゃ、以前流通してたサンコミックス版などはなんだったかというと、これがトレース。わたしは「リメイクじゃなくトレース」を、トレースしたのは永島慎二自身と考えて書いておりました。
のま氏からご指摘いただいたのは、1967年からの朝日ソノラマ・サンコミックス版全3巻をトレースしたのは、当時の弟子たち、村岡栄一、向後つぐお、三橋誠(三橋乙椰、シバ)であると。さらに、のちに朝日ソノラマの一冊版(1975年)のときには、欠けた話をのま氏がトレースしたと。
あらー。だって、けっこうよくできてたよ。線も達者だし。でも、永島慎二自身の線じゃないのね。繰り返し読んだわたしの、ああ、純情はどうなる。
第2点。「永島慎二と1967年」でわたしは、1967年に連載開始された「柔道一直線」は、永島慎二の渡米、すなわち逃亡によって、マンガ家が斎藤ゆずるに変更された、と書いています。でもねー、これはあの名著、斎藤貴男「梶原一騎伝」に沿って書いたものなんですよー。
「梶原一騎伝」の記述は以下のとおり。1970年春、少年キング連載中の「柔道一直線」のマンガ家が、永島慎二から斎藤ゆずるに、突然に変更された。永島慎二は、そのときニューヨークにいた。
・「やりたくないものを、これ以上やってもしょうがないじゃない」
説得にこれつとめる『少年キング』の面々を尻目に、永島はそう言い残して、絵の勉強に旅立っていたのだ。
しかーし、のま氏より、渡米し日本に帰ってからも、永島慎二は「柔道一直線」を継続して描いていた、と教えていただきました。
「柔道一直線」の連載開始が、1967年6月。虫プロ「COM」1968年4月号に、永島慎二の「ごあいさつ」という文章が載っています。
1967年9月ごろより精神的に不安定になり、そのころから1968年4月の外国旅行を計画し始めた、と。韜晦が多くわかりにくい文章なんですが、そういうことみたい。ここで、実際に1968年4月10日アメリカに出発することと、当時COM連載中の「フーテン」休載のお知らせをしています。
そしてアメリカから帰って、「COM」1968年9月号には、峠あかねによる永島慎二インタビュー「ダンさんのアメリカ旅行」と2ページマンガ。
・作品が雑誌で売れるようになってしまいぼくが考えていた作品作りの方向とはちがってしまった。読者の方には非常に申しわけないことだが、ぼくは、そのような仕事がいやだいやだと思いながら、やっていたわけです。それなのに仕事はどんどんふえてくる。これは非常によくないことだ。それを一度やめて清算する必要がある。
「週刊少年キング」での「柔道一直線」連載は、1967年23号から1968年22号、そして空白をおいて1968年42号から1970年47号まで。1968年の空白の時期がちょうど永島慎二の渡米に一致するようです。1968年に20週=5ヵ月も休載していることになり、人気連載マンガとしてはただごとではない。
スミマセン、やはり私の書いたのは明らかにマチガイです。永島慎二が渡米したのは1970年でなく、1968年。日本に帰ってきてからも、ちゃんと「柔道一直線」を描き続けていました。斎藤貴男も、ちゃんと修正しておくように。
ただし、アメリカから帰ってきても、永島慎二の悩みは変わりません。その後1.5年経過して、1970年春、永島慎二は「柔道一直線」を降りてしまいます。1969年から桜木健一主演の実写版TV放映が始まり、人気絶頂のころです。
COM1970年4月号にひさびさに永島慎二登場の次号予告が載りました。「久々に登場、青春まんがの雄永島慎二がライフワーク『漫画家残酷物語』の中の哀蚊を新たに描き下ろす」
で、実際には翌1970年5・6月号に、「その周辺」という、エッセイマンガの先駆というべき作品が掲載されました。ただし旧作の再録。
・この作品を描いた頃から、ちょうど一年ほどになります。この作品にあるように、一年めの現在も糖尿病に悩まされ、と同時に現在の小生のまんが家生活に対する姿勢に疑問を感じてきました。医者からいっさいの仕事のさし止めをくい、それでこれを機会にゆっくり休養しようと思いたった訳です。
COMに書いた文章ですが、おそらくは少年キング読者にも語っているよう。
「その周辺」は、マンガが描けなくなった永島の周辺を描いたマンガ。1968年のアメリカ旅行のことも一部ふれられています。
・サンフランシスコまで船でいき
そこから 空を飛んで
ニューヨークにつき
そこで約一か月
マンハッタン島の中を
地下鉄と足で ウロチョロし
マイアミからメキシコシティに
はいり 田舎をまわって
ロスアンゼルスにつき
そこから ジェット機で
十八時間くらいで帰ってきた
約八十日間の旅行であった……
行きは船便ですよ。しかも全行程80日。編集者についての言及もあります。
・ちょうど
そのころ そんな小生に
陽のあたる場を人並みの稿料で
与えてくれた人に
K誌の編集長をつとめるK氏と
G誌編集長のN氏がいた
おかげで 小生は
この世界に足を踏みいれて
やっと人並みに食えるように
なったのである
G誌N氏はガロの長井勝一と思われますが、K誌K氏とは1967年からの少年キング編集長、小林照雄でしょうか(キングにはこの前にも金子一雄がいますが)。斎藤貴男「梶原一騎伝」によると、小林照雄は
・二十年が経過した今も永島を許せないと言う。
COM1970年8月号にも永島慎二「漫画家残酷物語」の次号掲載が予告されましたが、翌1970年9月号には彼の1ページイラストと文章のみでした。
・今年に入ってやっと、みなさんとCOM誌上でお会い出来ると思っていたら体の調子をくずしてだめになり、今月こそとハリキッテおったところやはりだめになりました。つまり漫画が描けなくなってしまったのです。
とまあ、このように、柔道一直線辞任事件は、永島慎二にとっても、キズと後遺症を残しました。
のま氏の指摘の第3点は、永島慎二は「柔道一直線」をちゃんと描いていたぞ、という点。キャラクターの下書きとペン入れはすべて本人であったと。
わたしは「永島慎二と1967年」で、「三橋乙揶は、後年にはほとんどを向後つぐおや三橋が描いていたと語っています」と書きましたが、これは、「『梶原一騎』をよむ」に収録された梶井純「柔道一直線 俗の俗なる『強者』の伝説」がモトネタ。もとの文章は以下のとおりです。
・あれは、営業仕事ですからねえ……。始めは永島先生も、けっこうノッていたみたいです。梶原一騎氏からの影響もあったのでしょうか。空手の練習も始めたほどですから。あとになってからは、ほとんどを向後やぼくらにまかせることもあったくらい。イヤになったんでしょうね。ぼくはおもしろくもなんともなかったですが、向後は娯楽志向ですから、ずいぶん描いていました。ほとんど向後がやったときもあったと思います。
うーむ、我ながら、要約としては不正確ですね。「こともあった」が抜けております。実際に「柔道一直線」を読みますと、斎藤ゆずるに交代する直前まで、永島慎二自身の絵であることは間違いないように思われます。
ホントに向後つぐおが描いたと思われる部分は、ストーリーでいうなら、先輩の大豪寺との決闘が終わったあと、アメリカン・スクールのロバート・クルスとの戦いの途中まで。連載では1969年の初期、約5回分にあたるようです。あまりに前後と絵が違いすぎる。
ただし、直後よりきっちり永島慎二の絵に戻っていますから、永島慎二が投げたというのでもなさそう。
梶井純によりますと、
・とくに後半以降、たしかに向後つぐおの描線が多い。また、彼は、同時期に「巨人の星」を描いた川崎のぼると親しかった関係から、手伝いにいくことも多かった。そのため、直也の顔が飛雄馬と同じになっていたり、周作と一徹がそっくりになったりという現象も現れた。
そうか? わたしには、少なくとも上記の1969年初期を除いて、主要登場人物に永島慎二以外の手がはいっているようには思えませんでしたが。
・ちなみに永島は、「柔道一直線」を放棄した後、ひとりアメリカへ渡り(後略)
だから違うって。
というわけで、永島慎二の伝説には修正すべき点が多いことが、今回の結論です。
(1)永島慎二は、芸術的作品を描いたあと「柔道一直線」で大衆路線に転じたのではなく、1967年、COM連載、ガロ連載、少年キングの「柔道一直線」連載、過去の「漫画家残酷物語」の単行本化が同時に始まり、ブームといえるものがあった。
(2)渡米して「柔道一直線」を投げたのではなく、その後も1年半はちゃんと描いていた。1970年春に辞任する直前までは、きちんと絵をいれていた。
ということで、いかがでしょうか。
Comments
追記:「COM」1968年8月号によりますと、4月10日に横浜出発、6月17日飛行機で帰国。その直後6月26日に長女誕生。マンガ活動はぼちぼち始めて11月には本格化を、という記事が載ってました。
Posted by: 漫棚通信 | March 23, 2005 07:54 PM