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March 15, 2005

マンガについて書くという行為

 1週間かけて「20世紀少年」を読む、そして書くということを続けてみて、わたし自身はすごく楽しかったのですが、あらためて、マンガについて書く行為の意味を考えてしまいました。

 夏目房之介「マンガ学への挑戦」で、提出された命題に「マンガは誰のものか」というものがあります。作者のものか、読者のものか。

 これをわたしなりに言いかえると、マンガが制作され、発表され、読者に届き、読者の反応が社会に広まる、この過程のどこを語るのか、ということです。

 まず、発表された直後の作品を語る型。絵の意匠を考え、セリフの深読みをする。場合によっては別の場所での作者の発言やインタビューにもあたる。こうして作者の意図を読み取ろうとするわけです。ネットでよく見る、作品のアラにツッコミをいれる読み物もこのタイプになるでしょうか。

 第二に、マンガが読者に届き、読者の頭の中でどんな化学反応をおこしたかを書く型。自分がいかに感動したか、その理由は何かを追及・考察する。すぐれた評も多い。

 第三に、作者と読者の関係性を語るもの。マンガ表現論はここに属すると思われます。表現上の作者の意図をまず考え、その後読者の立場にたち、読まれ方によっては、作者の意図以上のものを読み取ることもありうる。

 その作品のマンガ史における意義や、社会に対する影響を考えるのが第四の手法です。当然マンガに対する目は俯瞰的になり、マンガを含む社会、教育、歴史を語ることになります。

 この四者をきっちり分けることはむずかしく、ひとつの文章の中でも混在しうるものですが、書き手側におのずと得手不得手がありまして、たとえばわたしならば、第二型がすごく苦手。華麗な文章で感動的に語る評を読むと、自分の文章力のなさにおちこんでしまいます。

 わたしの同居人に言わせると、あんたの文章には色も香りもない、読む気がまったく起こらんわ、と罵倒するわけですが(実際に読もうとしません)、形容詞が貧弱で悪かったねっ。書けないものはしょうがないよっ。

 第三型、第四型は広く深い知識が必要になるので手にあまることも多い。考える時間だって必要でしょうし、ブログという形式にはなじまないか。

 わたしの書くものが第一型にかたよってしまうのはそのためでもあります。

 でもって、このブログで書く行為に、何かの意味があるのか、という点については悩めるところではありますが、自分が楽しいからいいじゃん、というところで、思考停止しております。

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