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March 30, 2005

サンデー、マガジンと手塚治虫(その1)

 1959年、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」がほぼ同時に創刊されて以来、二誌はライバルとして戦ってきました。

 創刊号の表紙はサンデーが長嶋。その前年にデビューして大活躍。マガジンの方が朝潮。いしいひさいちがマンガに描いた今のアサシオじゃなくて、もひとつ先代。このときまだ大関でした。やっぱり長嶋の方がスターです。

 二誌とも初期はマンガ雑誌というより、読み物中心の少年向け総合週刊誌でした。サンデーのマンガのラインナップが、手塚治虫「スリル博士」(探偵モノ)、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」(野球モノ)、藤子不二雄「海の王子」(SF)とポップなのに比べて、マガジンは高野よしてるのSF「13号発進せよ」はともかく、付録に水島順「新吾十番勝負」や矢野はるき「天兵童子」、本誌に忍一兵「左近右近」(原作は吉川英治ね)の時代劇がメインでしたから、これは違うわ。現代まで続く、サンデーの都会っぽさ、マガジンの泥臭さは、創刊号からの伝統なんですね。

 ただ、マガジンも創刊時に藤子不二雄をねらってたけど、2日の差でサンデーにさらわれた、というエピソードは藤子不二雄A「いつも隣に仲間がいた…/トキワ荘青春日記」に出てきます。

 さて、手塚治虫はサンデーのヒトでした。マガジンの創刊号にはお祝い原稿として「手塚治虫探偵クイズ」というカットが載ってますけど、週刊のマンガ連載はサンデーだけで続きます。

 「スリル博士」(まだまだ手探り、1959年)、「0マン」(傑作、1959年〜1960年)、「キャプテンKen」(泣けるラストシーン、1960年〜1961年)、「白いパイロット」(ちょっとお疲れ、1961年〜1962年)、「勇者ダン」(かなりお疲れ、1962年)。ここまで連続して連載が続きました。このあと手塚治虫は1963年1月から「鉄腕アトム」のTV放映が始まり、週刊連載を中断し、マンガの仕事はアトムやビッグXなど月刊誌が中心となります。

 手塚治虫が週刊連載をしていなかった、1963年〜1964年、まだまだマンガ月刊誌は元気でした。日本一の人気マンガ家が、週刊連載を持たないという時代がありえたのです。ただし、サンデーでは、1961年に横山光輝「伊賀の影丸」、1962年に赤塚不二夫「おそ松くん」、1964年藤子不二雄「オバケのQ太郎」が連載開始。いよいよ週刊誌の快進撃が始まります。1963年には3冊目の少年マンガ週刊誌「少年キング」が創刊され、月刊誌はどんどん苦しくなっていきます。

 さて、そのころのマガジン。ビッグヒットは、ちばてつや・福本和也「ちかいの魔球」(1961年〜1963年)、吉田竜夫・梶原一騎「チャンピオン太」(1962年〜1963年)、1963年からは桑田次郎・平井和正「8マン」、ちばてつや「紫電改のタカ」、1964年から森田拳次「丸出だめ夫」が連載開始。でもまだサンデーにはかなわない。

 そこで、マガジンは週刊連載を休んでいた手塚治虫に連載を依頼。手塚治虫もTVアニメとして企画していた「ナンバー7」の雑誌展開を予定しOKします。が、その後紆余曲折あって「W3事件」がおこります。

 1965年、少年マガジンに連載していた手塚治虫「W3(ワンダースリー)」が、連載6回で突然の連載中断、1ヵ月後、少年サンデーで、同じタイトル、ほぼ同じ設定で、初めっから連載が始まりました。

 サンデーに復帰した手塚治虫は、連続してサンデーで連載を持ちました。「W3」(1965年〜1966年)、「バンパイヤ」(1966年〜1967年)、「どろろ」(1967年〜1968年)の3作。手塚中期の代表作といっていいでしょう。

 マガジン版「W3」は1965年13号から18号までの連載で中断。その直前、というか、W3事件の最中に発生したのが、桑田次郎の拳銃不法所持事件でした。これで「8マン」は1965年15号の掲載分をアシスタントの代筆とし、終了となってしまいました。マガジンとしてはえらいことです。

・「W3」「8マン」両事件と前後して、ちばてつやさんの結婚という朗報があったが、新婚旅行のため、「ハリスの旋風」は長期休載を余儀なくされ、『マガジン』は人気上位三本を欠く誌面となり、部数はみるみる減少していった。片や『サンデー』は「おそ松」「オバQ」、それに横山光輝さんの「伊賀の影丸」が人気絶頂で、まさに旭日昇天の勢いを見せ、彼我の部数は五十万部対三十万部という大差となってしまった。(内田勝「『奇』の発想」)

 マガジンは、この後、貸本劇画作家を積極的に採用する方針を固めます。すでに貸本作家としては別格の白土三平は、「風の石丸」(1960年)、「狼小僧」(1961年)でマガジンに連載を持ったことがあり、「ワタリ」が1965年より始まっていました。

 まず登場したのが、水木しげる。1965年から「墓場の鬼太郎」、1966年には「悪魔くん」。続いて、楳図かずお。「半魚人」(1965年)、「ウルトラマン」(1966年)。そして、川崎のぼる・梶原一騎「巨人の星」が1966年に開始。これでついに1966年の夏には、マガジンはサンデーを抜いて少年誌トップの座につきました。

 さいとう・たかをは、「カウント8で起て!」(1966年)でマガジンに初登場。「無用ノ介」が始まったのが1967年。佐藤まさあき「でっかい奴」1967年。横山まさみち、影丸譲也が1968年から。

 この劇画路線に加えて、1967年より赤塚不二夫「天才バカボン」が開始、1968年よりはついに、ちばてつや・高森朝雄「あしたのジョー」が開始。マガジンはどんどん部数をのばし、1967年夏には100万部、サンデーの倍近い部数。これは瞬間最大でしたが、1968年夏には毎号100万部以上を発行することになります。

 マガジンが劇画路線をとっていたとき、サンデーが劇画を無視していたわけではありません。

 以下次回。

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