戦後マンガの二大巨頭をあげるとするなら、手塚治虫に対抗するのは白土三平か、横山光輝か、はたまた水木しげるか。誰になるのでしょう。
水木しげる1922年生まれ、手塚治虫1928年生まれ。1965年、手塚治虫がW3事件で少年マガジンから離れたのち、少年マガジンの方針転換により、貸本マンガから最初にひっぱられてきたのが水木しげるでした。すでに43歳、前年にガロが創刊され、貸本時代の極貧から一息ついたところ。水木しげるのメジャー進出そのものが手塚治虫との因縁があったことになります。
同時代に手塚治虫という巨星が存在するわけですから、意識しないわけはない。水木しげるも手塚についてはフクザツな気持ちを書いています。
水木しげるが紙芝居を描き始めた1951年ごろ、手塚のマンガを読んで「アメリカのディズニー漫画の日本支店だな」と感じたと。画家になる夢をまだ持っていた水木しげるにとっては、少年マンガはすべて幼く見えました。
・絵の清新さと筋の運び方のスピードには敬服した。すなわち、なかなか上手だった。(略)あの白土三平さんも、つげ義春さんも、初期の作品には手塚色がないこともない。(「水木さんの幸福論」2004年日本経済新聞社)
誉めているのやらなにやら、奥歯になにかはさまったような言い方です。
実際の手塚との出会いは、自伝などによると、1965年ごろだったらしい。水木が少年マガジンに登場する直前、長井勝一、白土三平、つげ義春らと一緒にマンガ大会のようなもの(「ねぼけ人生」では王子公民館、「水木しげる伝」では板橋)に参加したとき、手塚治虫や石森章太郎も参加していたと。
その後水木しげるは人気マンガ家となり、手塚治虫からも当然ライバル視されたはず。いっぽう水木しげるも気になります。
・私が四十を過ぎてようやく売れ出したころ、手塚さんはすでに、押しも押されもせぬ漫画界の重鎮で、スーパースターだった。だから、そのころの手塚さんは売り出したばかりの中年漫画家のことなんかあまり意識していなかっただろう。だが、私は「ライバルだ」と思ってやってきた。若いときから漫画界に君臨してきた彼に対して、屈折した思いもあった。
・手塚さんがコンクリート舗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまづきながら歩いてきたようなものだ。(「水木さんの幸福論」)
水木しげるが手塚治虫をモデルにして描いた「一番病」(1969年)という作品があります。
主人公は江戸一番のカンオケ屋徳兵衛。寺社奉行から使いがきて、このたびカンオケ文化向上のためカンオケ賞を設定することになった。ついては徳兵衛に審査員になってほしいと。
「聞くところによりますと昌平コウあたりでもカンオケを研究する者がでてきたとか これはまあ当然のことだと思いますね」
「なんつったって俺が日本一のカンオケ職人よ」
「カンオケ界の王者だよっ」
この業界にもライバルがいて、ひと月の生産量を競っています。
「いずれにしても怪物屋の四百五十個には挑戦しなければなりませんね」
「しかし先生のように 日本にはじめて丸いカンオケを作られ それを今日の産業にまで高められた先生が なにも若い者と一緒になって数に挑戦される必要もないでしょう」
「でもぼくはお上に納める税金も一番です」
「もちろんカンオケの数だって負けられるものですか」
葬儀社主宰の瓦版用の座談会では、同業の「水又屋」と口論になります。
「そうですねえ カンオケは必要品ですから人類がある限りあるんであって 金魚の糞のようにいつも人間についてまわって………」
「水又屋 カンオケ芸術を糞にたとえるのはフキンシンじゃないか」
「糞もカンオケも同じですよ」
「なんだと! カンオケを軽蔑することは俺を軽蔑したことになるんだぞ」
「なんだと この誇大妄想狂!」
「俺はケンカだって一番なんだぞ コーン」(←殴った音です)
一番病という狂気にとりつかれた人間は、仕事が苦しみじゃなくて楽しみなんだ、年をとってもはりきってる、と登場人物が語り、ちょっとだけ毒をうすめてはいますが、そうとうな作品です。「カンオケ」を「マンガ」に置き換えてお読みください。
手塚の没後、2003年に第7回手塚治虫文化賞特別賞を水木しげるが受賞しました。
・(前略)複雑な思いもあって、内定の連絡を受けて躊躇したが、賞金の百万円も目の前にちらつき、受けることにした。妻も二人の娘も「えっ、もらうの?」と言った。(「水木さんの幸福論」)
授賞式でのスピーチ。
・会合にいくと、手塚さんや石ノ森さんがいつも徹夜自慢をする。私は生まれつき眠りに対して弱いタチでしたが、これが今日の健康につながっています。半分寝ぼけたような一生でしたけど、これが良かったわけです。
(http://ja.tezuka.co.jp/news/special/200307/shakai.html)
ここでも、自分は一番病じゃなかったので長生きしてると。
水木しげると手塚治虫が並んだ写真があります。週刊少年マガジン1969年3月30日号の表紙。マガジンの創刊10周年記念超大号として、当時の人気作家が勢ぞろい。マガジン系じゃないひとも多く、ここにマガジンとは袂をわかっていた手塚治虫も参加しています。集合写真風ですが、合成かどうかはわかりません。
水木しげる、手塚治虫、横山光輝、さいとう・たかを、ちばてつや、川崎のぼる、桑田次郎、つのだじろう、赤塚不二夫、藤子不二雄AとF、影丸譲也、矢代まさこ、永井豪、石森章太郎、ジョージ秋山、楳図かずお、森田拳次、一峰大二。
最前列は手塚を中心に水木、横山という並びでした。
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