ほっぺたのアレはなんやねん
わたしの同居人はわたしがマンガを買ったり読んだりするのを実は不満に思ってるらしいのですが(何といっても金とスペースは大きな問題)、そこはそれ、最近はまあしょうがないとあきらめているみたいではあります。不満だろうがなんだろうか、わたしは買うしね。ただーし、マンガにギモンがあるとき、怒りながらわたしにつっかかるのはやめていただきたい。
本日のギモンは何かというと、あのほっぺたの線。
きっかけは、TV番組表雑誌に載っていた、ゲーム「蒼穹のファフナー」の広告。ここにはカラーで3人の顔が描かれているんですが、全員のホオに荒い線が描いてある。カラーですから皮膚の色も塗られているわけですが、そこはフツーなの。ホオのあの線はなんやねんな。
「まあ、ホオを赤らめるという表現やろね」
「なら、なんで皮膚の色が赤くないんや。あれは下まつ毛か。それともヨゴレか。きゅっきゅと拭きたくなるぞ」
バンダイのサイト見てみると、このほっぺたの線って、オトナ以外の登場人物の全員にあるのね。
この表現は、特に少女マンガでよく見かけるようになりました。ほっぺたに描かれた短く荒くひかれた数本の線。最近の「なかよし」とか「ちゃお」とかを読むと、ほとんど全ページにある。ないほうが珍しいくらい、この線が描かれています。で、「わけのわからんもの」がキライな同居人はこれに怒るわけです。こんなモノにおこるなよー。
物理的なものであると考えるなら、普通の生活で顔はそんなにヨゴレませんし、下まつ毛であるはずがない。ホオを赤らめる描写であることも、もちろんあるのですが、それなら全ページ赤らめっぱなしのはずもなく。化粧のホオベニじゃあないよなあ。紅潮しているのを、色じゃなくて線で表現したもの? それともコドモだからほっぺが赤いのか?
この線の元祖は「おそ松くん」のチビ太でしょうか。チビ太のほっぺたには3本の線が描かれていました。でもチビ太の場合は明らかに物理的なヨゴレか、肌が荒れているという表現でしょ。
現代日本マンガにおいてこの線は、多くの場合、物理的なものではなく、「上気している」精神状態の表現か。あるいはもっと微妙に「冷静じゃない」程度の表現かしら。「冷静じゃない」なら「普通の状態」ともいえるわけで、デフォルトで描かれていてもしょうがないか。
漫符の中には、頭の上の「噴火」でおこっているのを表現するような非現実的なものもありますが、「アセる気持ちをあらわす汗」や「怒りをあらわすコメカミの浮き出た静脈」など、もともと物理的な存在だったものも多い。それがそのうち、単に精神状態をあらわす記号と化しました。
ホオにひかれた数本の線も、これと同じように、すでに物理的な存在じゃなくなっているようです。漫符というほどのものでもなく、デザインであるともいいにくい微妙な表現ではあります。すでにあたりまえのように広く使用されていますが、うーむ、わかりにくいぞっと。
Comments
日焼けですが、何か?
Posted by: sai | February 01, 2005 04:28 AM
みなさま、コメントありがとございます。
長くなりそうなので、別項でもういちど書かせていただきました。
Posted by: 漫棚通信 | February 01, 2005 12:20 AM
私もみなもと先生の御意見に納得しつつ
池本さんと同じ見方をしていました
理由は「年かさのキャラクターには少ない」からです
池本さんが指摘されたように
頬の隆起を示す処理線だとすると
実は頬の影になる下に残ってもいいわけですが
実際に下に処理を施すとキャラクターの口角が緩み
そのキャラは老けた印象になってしまう
だから上部隆起の表現のみが「若さの記号」として残されたのではないか
そうとも思うのです
Posted by: たにぞこ | January 31, 2005 06:53 PM
みなもと氏の見解の後に自説を述べるのは気が引けるんですが…敢えて。氏が仰る『崩し』としての側面も当然あるとは思いますが、更に言うなら、僕はあの線は、立体表現のための線の名残りなんだろうと思います。劇画でもメビウスでも何でもいいですが、とにかくは立体を表わすための線という物が輪郭線とは別に存在しますよね。あれを模倣・借用していく内に萌え絵の世界では頬の部分だけ、それが残ったんじゃないか、と。そしてコピーを重ねていく内に『本来何のために存在したのか』という意味が喪失した結果、意味不明の線になってしまったんだろうと思います。では何故、頬だけが残ったのか…?それは「頬を紅潮させている」意味の漫符としての側面が関係しているのではないか、と思うのです。「頬を紅潮させている」キャラクターあるいは状態というのは萌えに繋がる要素だと思うんですが、この時にその『状態』と『記号』とが合わさる事で「頬の紅潮」という意味を為すわけですが、今ここで問題となっている線の場合は、この『状態』が欠落しています。なので「頬の紅潮」という意味を為してはいません…が、潜在的な『気分』としての「頬の紅潮=萌え要素」は残留している。ですから…『立体表現としての名残り』と『潜在的な萌えの気分』との混合物というのも、件の線の正体としてはあるんじゃないかと思います。
Posted by: 池本 | January 31, 2005 11:15 AM
私、50過ぎてから18禁コミック誌「姫盗人」の表紙絵を3年ほど描くなど、チイと萌え絵をカジってみたんですが、あの美少女をセル画、もしくはCG着色で仕上げますと、お肌やほっぺがツルツルのっぺりゆで卵。妙に完成度が上がって人間味が消えるんですな。大理石みたいで筆、鉛筆、手描きのよさが出ない。どこかに書きなぐりとゆーか、逃げ場がほしくなる。で、ほっぺにガシャガシャっとあーいう線を入れますとですね、アラ不思議、ほのかに擬似手描きふう、人間味が蘇えるんですな。これはおそらくですね、日光東照宮で1本だけ柱を逆さに立てるとか、完成され過ぎてる
陶磁器を千利休がわざとチョット壊すみたいな、日本独特の「破綻の美」に通じているのかいな、と思いますね。ま、利休は清原なつののマンガで読んだんですが。まるっきり間違っているのかも知れませんが、私は勝手にそう解釈して、先達にならって半分くらい、ホッペにヨゴシをいれて「おてんばちゃん」らしさを
出すようにしております。そういう意味ではチビ太と五十歩百歩ですな。いずれにせよこれらは日本人の感性から生まれた表現だと思いますね。
Posted by: みなもと太郎 | January 31, 2005 01:27 AM