「物語消滅論」タイトルの意味がわかんないよう
マンガについての本じゃないんで、このブログに感想書くのもアレなんですが、読むもの読むものにすぐ影響受けちゃうたちなので。大塚英志「物語消滅論 キャラクター化する『私』、イデオロギー化する『物語』」読み終わりました。
「語り下し」というわりに整理されてます。第1章「創作する読者と物語るコンピュータ」、第2章「キャラクターとしての『私』」、第3章「イデオロギー化する『物語』」と分けられております。
内容は多岐にわたるんですが、章タイトルの意味だけ書きますと、「創作する読者」ってのは、ビックリマンチョコや、やおいの二次創作に代表されるような、物語や創作を求めるような消費のあり方のこと。「物語るコンピュータ」は、そのものズバリ、小説を書く創作支援ソフトや、その前段階の物語の構造論、さらには物語の構造の教育についての話。
「キャラクターとしての『私』」とは、近代の日本、とくに近代文学では「私」を求め表現することを目的としてきたが、「私」が仮想現実内のキャラクターと化してしまったこと。この章での結論は、現代の読者、とくに子供たちには「私」を求める文学はやっぱり必要だ、と文学を擁護しております。文学に対抗するのはサブカルチャー、マンガやライトノベルで、マンガ原作者でもある著者はサブカルチャーの限界を語っております。「おたく文化的サブカルチャーは実はファシズムの産物」とありますが、「大量消費される商品」っていう意味でしょうか。
「イデオロギー化する『物語』」てのは、ソ連の崩壊によって世界をイデオロギーで理解することが困難になり、今では物語・説話で現実を理解しているということです。イラク戦争をイデオロギーで理解するのではなく、ハリウッド映画的善悪の戦いと眺める事。あるいは逆に、マイケル・ムーアの登場を「悪の主人公としてのブッシュを描き出す」オハナシとして見ること。なるほど、そういや自分もそうだったか、と膝をたたいたわけです。
実はここでやっと1章に物語の構造論が書いてあることの意味がわかりました。確かに3章こそが結論なんですが、この部分最初に持ってきてくんなきゃわかりにくいぞ。このあたりが理系の論文と違うとこなんだよなあ。
で、最後の結論が、文芸批評は物語を批判するだけでなく、社会を批判する武器になっていくぞ、というものです。
わかんないのが「物語消滅論」のタイトルでして、この本の中で物語は消滅したのか? あるいはこれから消滅するのか? 文芸批評はジャンル内部の物語の批評はもうやめて、もっと上位の社会思想としての物語論が必要、と結論づけられてますから、批評すべき対象の物語を大きなものに、てのはわかるんですが、これでこのタイトルになりますか。それともわたしが読み落としてるんでしょうか。
というわけで、一番わかりにくいのがタイトルの意味でした。ああもうっ。
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