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October 29, 2004

クマさんのマンガ:「ガロ」のメディアミックス

 鉄のゲージツ家、クマさんこと篠原勝之、スキンヘッドと和服で最近もTV「誰でもピカソ」なんかに出演したりしてます。鉄のゲージツ家以外にも、エッセイストであったり小説家であったりするでヒトですが、以前は二次元の仕事がメインでして、状況劇場のポスターを描いたりしてました。自身のサイトで見ることができますが、いや、かっこいいなあ。

 昨日、書棚の「ガロ」をあさっていましたら、クマさんが鉄に目覚める前に描いたマンガが出てきました。唐十郎原作「糸姫」(ガロ1975年11月号)。ガロにはもう一回登場してまして、1976年8月号には「におい横町」を発表。この2作は1983年青林堂から単行本「糸姫」として刊行されました。

 ガロ1975年10月号の次号予告。南伸坊の文章。

・遂に出る!
 唐世界の初の劇画化!
 いま日本中の青少年を魅きつけて席巻する現代のパイドパイパー
 「状況劇場」の総帥唐十郎と
 怪人クマこと幻のガロ作家篠原勝之が組んで
 ガロ第三の黄金時代へ向けて友情寄稿
 待望のスーパー巨編『糸姫』70p!
 巻頭から一挙掲載!!

 あおってますねえ。唐十郎はともかく、篠原勝之ったってそのころのわたしは知らないもんね。で、翌11月号。巻頭二色です。タイトルページは空に月、荒野で馬に乗る糸姫。糸姫はマントをはおりサーベルを持つ。剥き出しの腕と太ももには糸が巻きつき肉がもりあがる。糸は画面外から引っ張られていますが、その先は何か不明。馬はだれかを踏み潰そうとしており、下から人間の腕が見えます。

 糸の町で糸を売る少女と、その糸を使って彼女のまぶたを手術する美容外科医。少女をたずねて糸の町を訪れた兄。唐十郎らしくセリフは難解。絵はシュール。ああ、わからんっ。雰囲気と意欲は伝わってきますが、残念ながらマンガとしてはあまりに洗練が足りません。唐十郎のセリフに引っ張られすぎたのか、絵に比べフキダシの分量が多すぎる。描写はコマとコマの間の飛躍が多かったり、逆に無意味なアップのコマがあったり。タイトルページの絵は抜群にいいんだけどなあ。

 その号の南伸坊の編集後記。

・今月巻頭は、状況劇場の総帥唐十郎氏と怪人篠原勝之氏の熱情で70頁一挙掲載の友情出演。9月20日より公演の「糸姫」にぶつけて、ガロ第三の黄金時代にテコ入れを戴いた。一ト月70頁の大作は気まぐれで出来る量ではない。初めての劇画に全力をつくしてくれた篠原氏、惜しみなく協力をいただいた唐十郎氏の友情に、感謝します。

 そしてさらに翌12月号の編集後記。

・11月号巻頭を飾って話題をさらった「糸姫」の掲載記念パーティーが友人有志で開かれた。

 って、単なる宴会だったみたいですけど。このころの状況劇場の役者は、大久保鷹・不破万作・根津甚八・十貫寺梅軒・小林薫など。そしてこの号にはそのとき公演中だった状況劇場「糸姫」の広告が。おお、なんと「糸姫」はガロが地味に展開したメディアミックスだったんですね。状況劇場と組むところがいかにもガロ。

 篠原勝之は翌年発表した「におい横町」になると描写が格段に進歩して、ちゃんとマンガとして読めるようになります。実はこちらのほうがずっとデキがよろしい。女を強姦して殺し、ローソクにしてしまう男のお話。篠原勝之のマンガはもっと読んでみたかった。

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October 28, 2004

吉田光彦「ばく食え」←どうして文庫なの

 イラストレーター・吉田光彦のマンガ家デビューは「ガロ」1975年8月号でした。「殴者(ボクサー)」16ページ。オープニングは自転車をこぐ牛乳ビン。ミッキー・マウスやらメンソレータムの看護婦さんやらエイトマンがでてくるポップな作品でした。ちなみにこの号では、渡辺和博がデビューしたりしてます。

 吉田光彦は、1981年から1990年までに「ペダルに足がとどく日」「視感」「エンドレス・パズル」「夢化色」という4冊の短編集を残して、マンガの仕事をやめてしまいました(実はこの後4冊の私家版が出版されていたそうです)。

 彼の作品群は土俗的ポップとでもいいましょうか、佐伯俊男・丸尾末広・つげ義春・赤瀬川源平らのエッセンスを混ぜたような印象。わたしの手許にある本は「エンドレス・パズル」と「夢化色」ですが、これらに収録されている作品は「SMスピリッツ」「SMスナイパー」「コミックアゲイン」「銀星倶楽部」「漫画ウインキ」などに掲載されたもので、エロくてグロいものが多い。1970年代演劇でエログロと前衛が接近しましたが、少し遅れてマンガの世界ではニューウェーブのひとりとして吉田光彦がエログロ・前衛・ポップを合体させた作品を発表していました(彼自身はニューウェーブなんて知らないよと言うでしょうが)。

 吉田光彦ひさしぶりのマンガ作品集が「ばく食え」です。すべて高橋克彦の小説をマンガ化したもの。伊藤潤二とは一味ちがう怪談をどうぞ。

 ただしこれ、祥伝社文庫なんですよう。マンガ文庫の存在意義は認めないわけじゃありませんが(多くは三次使用なので昔の作品が読めるとか、書棚のスペースが小さくて助かるとか)、ダメでしょ、吉田光彦の作品集を最初に文庫で出しちゃ。ああ、せっかくの絵が、小さいっ。

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October 26, 2004

Nessun dorma, nessun dorma...

 「Nessun dorma」とはプッチーニのオペラ「トゥーランドット」の中で歌われるアリア(だそうです)。「誰も寝てはならぬ」と訳されます。

 舞台は昔々の中国・北京。放浪の王子カラフは、この国の姫トゥーランドットに求婚しますが、3つの謎を解かなければならない(かぐや姫とか長靴をはいた猫みたいですね)。この謎解きに失敗すると殺されてしまうのです(なんちゅう姫や、殺人鬼やん、こんなのに求婚すんなよ)。見事に謎を解いたカラフですが、トゥーランドットは納得しません(やなヤツやねー)。そこでカラフは逆に、自分の名を当てる事ができたら結婚しなくてもいいよと、姫に提案します。姫は北京の民に命令します。世を徹して男の名を調べ上げよと(中国人もタイヘン)。つまり「誰も寝てはならぬ」ですね。

 カラフは夜中にひとりで歌います。

「姫は誰も寝てはならぬと言うてんねけど、ボクの名前はまあわからへんわね。朝になったらボクの勝っちゃ」

 このあとカラフを慕う娘が捕えられ責められますが、カラフの名を言わないように自ら命を絶っちゃいます。これを見たトゥーランドットは改心して真実の愛に目覚め、カラフと抱き合って終わり。「彼の名がわかりました。彼の名は『愛』です」(ちょっと待てーっ、今まで殺された求婚者や死んだ娘の立場はどうなるっ)[参考:青池保子「エロイカより愛をこめて」皇帝円舞曲]

 とまあこういうお話ですが、このアリアのタイトルを拝借しているサラ イネス「誰も寝てはならぬ」第2巻が発売されました。なんでまたこのタイトルなのかしらん。

 大阪出身のゴロちゃんとハルキちゃん。東京赤坂の零細デザイン事務所の社長とイラストレーター。関西弁でもっちゃりと展開するひたすらお気楽な日常。それぞれの回のタイトルがSS31「さあさあソレやん」とかSS36「公園でウダウダ」とかSS39「んなワケないやろが」ですからねー。お気楽でしょ。でもわかんないのがこの「SS」。何のこと?

 いいなあ、楽しいなあ。人であるなら悩みも苦しみもあるはずなんですが、それがすべて会話の中で昇華されていく感じ。このマンガの中はこの世の楽園か。前作「大阪豆ゴハン」との違いは、ゴロちゃんバツサンの独身、ハルキちゃんバツイチの独身なんで、男女のオハナシが多いところですね(というか、どうも恋愛がテーマのマンガらしい)。でも登場人物がみんなオトナですから、からっとしてる。

 サラ イネスは前作ではサラ・イイネスとなのってましたが、改名してます。このナカグロのあるなしに何かこだわりがあるようで。

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October 25, 2004

全員一番バッター

 マラドーナばかりをあつめてもサッカー・チームはできない。四番バッターばかりあつめても野球チームはできない。

 洋泉社から「コミック☆ワイドショー」という雑誌が出てます。vol.0と書いてあるからこの線でレギュラー雑誌が創刊されるんでしょうか。20作の短編が掲載されてますが、なんとTVとワイドショーをテーマにしたマンガばかりで、ここからはずれるテーマのモノは、映画「デビルマン」を批判したかわかずおの「ビビルマン」だけ。

 巻頭は長尾謙一郎、その他にしりあがり寿、みうらじゅん、辛酸なめ子、根本敬、とり・みき、蛭子能収、泉昌之、花くまゆうさく、安彦麻理絵、水野純子、大久保ニュー、ピョコタン、高浜寛、服部元信、ヨシダプロ、藤枝奈己絵、菊地秀規ら。なかなかのメンバー。

 それぞれけっこう読ませます。グロと難解をはずしてお笑いを指向した「ガロ」という感じ。笑ったのが駕籠真太郎の「バトル・ロ愛ヤル」。業界No.1の「愛ちゃん」を決定するため孤島で死闘が繰り広げられます。登場するのは、福原愛、大塚愛、杉山愛、前田愛、加藤あいなどなど。いや、愛ちゃんて多いね。

 でもこの雑誌、執筆者全員が、ショートストップの俊足一番バッターみたい。くせ者ばかりを集めたチーム。しかも、テーマが同じだから、ネタがかぶったりしてますし、続けて読むとちょとキツい。他の雑誌なら、雑誌の中盤でサンショはコツブでというか、アクセントになるような作家ばかりですしね。アンソロジーならともかく、雑誌としてはなあ。編集方針再検討希望。

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October 24, 2004

「マンガ学への挑戦」マンガ論・論だぞ

 マンガ家はよっぽどマンガ批評が嫌いとみえて、最近ならBSマンガ夜話に怒った藤田和日郎と椎名高志とか(あんなに絶賛だったのにね)、古くは批評をダカツの如く嫌った手塚治虫とか。

 手塚は、たとえば虫プロ「COM」1967年6月号で、最近のマンガ評論家はマニアであかんたればっかりと批判。「現代のある特定のまんがを新まんがの到来と、マニア的にとり組むことなど、新商品のPRとおなじで、笑止千万ではないか」 1968年2月号と6月号では、石子順造の文章に対して論争したりもしてますし、「火の鳥」は完結するまで批評することまかりならん、などとムチャなことも言ってました。

 現代にいたるまでマンガ家が批評に対して傷つきやすいのは、マンガ家側の問題だけではなく、マンガ批評が成熟していないことにもよります。

 さて、夏目房之介「マンガ学への挑戦 進化する批評地図」であります。「マンガの深読み、大人読み」はマンガ論ですが、こっちはマンガ論・論です。

 オープニングはBSマンガ夜話で辛口の発言をするいしかわじゅんが、なぜきらわれているのかという話から。そこから三人のレギュラー、いしかわじゅん、岡田斗司夫、夏目房之介のマンガ批評の立場の違いを語り、この本をつらぬく大きな命題「マンガは誰のものか?」が提出されます。

 マンガは誰のものか。作家のもの?読者=社会のもの? 議論して面白い問題ではありますが、結論が出るわけもないよなあ、と読み進めておりますと、なんと著者はこの命題に回答を出すのではなく、マンガ批評のありかたをこの命題に対する答えによって分類します。そうきたか。

 著者によるマンガ批評の歴史をたどると、

(1)古典的教育論。子供に対する教育効果や影響を語る。ここではもちろんマンガは社会のもので、教育的善悪が問われるだけです。

(2)マンガそのものにたいする批評の始まり。1960年代、鶴見俊輔・石子順造らによって、白土三平・つげ義春らが論じられました。大衆文化論としてのマンガ論。鶴見俊輔の言う「読者−作者共同体」は、この時代のマンガ市場の規模がまだまだ小さく、現実にマンガ制作現場と読者の距離が近かったことが、その発想の原点でしょうか。彼らのマンガ評価は、民衆史観に基づきマンガを理想化する傾向があり、著者は「マンガ論の片思い」「マンガと批評のスレ違い」と批判していますが、この時代の批評のあり方は、その後のマンガの商業的成功、市場の拡大によって、駆逐されてしまいました。

(3)1970年代末より団塊の世代によってなされたマンガ論。村上知彦・米沢嘉博・亀和田武・中島梓ら。著者は<私語り>のマンガ批評と名づけました。読者の「読み」こそマンガであり、思い込みでも誤読でも何でもあり。読者の数だけマンガはある。ここでは作者=読者(私)であり、マンガを語ることは読者論でもあるということになります。

(4)1990年代初め、夏目房之介を中心に始められたマンガ表現論。作者が読者に何を伝えようとしているかを知るために表現を読み解くわけですから、マンガは明らかに作者のものです。

(5)1990年代後半、マンガを社会学的に見ることへの回帰。マンガを商品として考え、市場を持った産業としてとらえる。世界の中の日本マンガとしてとらえる。アジアのマンガと日本マンガの関係を探る。戦前マンガと戦後マンガの空白を埋める。近代日本でのマンガ成立の起源は。マンガ著作権の問題は。

 著者はマンガ表現論の限界を感じ、社会学的視点をとりいれた批評の新たな展開に向かっています。というわけでマンガ学はまだまだ始まったばかり。ああムズカシかった。

 このように「批評地図」を書かれてしまうと、ひるがえってネットで駄文をだらだら書いている自分の立場は何なんだ、なんてね。ただ、ネット上のひとつひとつの作品評は印象批評であっても、面白い面白くないのひとことであっても、その集合こそ批評の原点、であると考えております。

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October 22, 2004

サンデーGX11月号にびっくり

 さて島本和彦「吼えろペン」も終わっちゃったし、サンデーGX11月号の島本和彦の新連載ってどんなのかなー、「逆境ナイン」の続編って「ゲキトウ」が引っ越してきたのかなー、と立ち読みを始めてびっくり。どわあぁぁぁっ。あんまり驚いたんで、思わず買うつもりじゃなかった雑誌買っちゃいました。

 月刊連載という行為を利用して2ヵ月かかって完結するギャグ。赤塚不二夫みたいだな。今月のお言葉。

「―― 俺は……」
「追い風は全然吹いていないが ――」
「勢いはあるっ!!!!」

 もひとつ。「映画秘宝」の連載「小池一夫伝説」、もう終わったのかと思ってたら、12月号は第7回「ザ・テロル」と「性病部隊」の話。これはまたげろげろげーなものを。映画と全然関係ないんだけどなー。来月号も続くらしいです。

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October 21, 2004

ブラック・ジャックと公害病

 水俣病を含む公害病も「病」ですから、ブラック・ジャックの出番があります。手塚治虫「ブラック・ジャック」に描かれた公害病。以下、テキストは少年チャンピオン・コミックス版です。

 「しずむ女」(4巻)では晦日市市の晦日市病。3つの工場が海に廃液をたれ流し、これが偶然化学反応をおこしたことが原因。魚や貝を食べると膝の関節がおかされる。この話では、発見から10年がたって、工場側が全面的に陳謝して患者のすべての医療費をだす約束をしています。

 患者である知恵遅れ(実は公害病による精神症状とブラック・ジャックは主張してます)の少女はもともと海で泳ぐのが得意だった。彼女とブラック・ジャックが出会う話。結局彼女は不自由な足で海に入り、溺れ死んでしまいますが、将来、海がきれいになるだろうという期待を込めたラスト。

 「ふたりのピノコ」(10巻)では見須洞市近郊の海辺の漁村。ここでブラック・ジャックが会ったのはピノコそっくりの少女ロミ。彼女は原因不明の肺疾患にかかっていたが、ブラック・ジャックはこれをベリリウム中毒と診断します。10キロ先の槍津花市誰永化学第4工場の工場廃棄物が風に乗って飛んでくるため。

 悪役はもみ消しをはかる工場側と、買収された保健所の医者。結局ロミは死んでしまいますが、ラストでは改心した医者が工場を告発するであろうことを予測させて終わり。

 「魔女裁判」(17巻)の舞台はイタリア。ミラノ化学工場の爆発事故(これは1976年の現実の事件)で有毒ガス中毒となった妊婦。彼女は目がひとつ、指が3本の奇形児を生む。地元の住民、聖職者、医者は彼女を魔女、子供を悪魔と迫害する。公害というより、宗教的頑迷がテーマですね。ブラック・ジャックは子供に形成外科手術をおこないます。

 「望郷」(22巻)。堅山半島沖合いの猫生島、別名要塞島。鉱山・工場の廃液による魚・貝が汚染され、これを食べた猫、ついで人間が死んでいく。訴訟により患者側の全面勝利となりますが、島は廃棄され、死の島となって三年経過。ブラック・ジャックが島を訪れてみると、島にはノラネコがもどっている。海が洗い流してくれたため、汚染は消えていたというオチ。自然の力は偉大だ、とはいうもののあまりに楽天的…

 医師としての手塚治虫が、とくに公害病に対して注目していたわけではないようです。むしろ、現代・未来を舞台にお話を考える創作者として、公害を多数ある社会問題のひとつとしてとらえていたにすぎないのかしら。

 今回読み直してみると、ブラック・ジャックはそのページ数の少なさ、そしてまぎれもなく子供向けであることもあって、おとぎ話なんだよなあ。だから公害のような、大勢の人間が被害にあい解決に長い年月を要するはずの問題も、あっさり解決されてしまう。手塚マンガというか、子供マンガの長所でもあり、限界でもあります。ただし扱うテーマの多彩さは、手塚治虫ならではです。

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October 19, 2004

マンガに描かれた水俣病「現代柔侠伝」

 原爆をテーマにしたマンガから、わたしの連想は、最近判決があった水俣病に向かいます。マンガに描かれた水俣病。バロン吉元「現代柔侠伝」の話。

 「柔侠伝」シリーズは、明治から現代までを、四代にわたる柔道家である柳勘九郎、勘太郎、勘一、勘平の人生を描いた大河マンガ。1970年から10年にわたって週刊漫画アクションに連載。特に柳勘一を主人公にした「現代柔侠伝」は、戦後日本現代史をマンガで描く試みでもありました。

 「現代柔侠伝」青春期(14)〜(40)では、柳勘一は熊本の鎮西高校1年生で柔道部員。昭和31(1956)年の5月から10月までが描かれます。「夕凪の街」の翌年であるこの年は、長崎で第2回原水禁世界大会が開かれ、10月には砂川闘争で多数の負傷者が出ました。マンガはこれらの事件を背景に進みます。

 勘一と知り合う色っぽい遊子は17歳。勘一の初エッチの相手だったりします。彼女は万引きや美人局をしており、彼女の3人の兄弟も札付きのワルばかり。勘一が尋ねていくと、彼ら4人はバラックにいっしょに住んでいるのですが、そこに寝たきりの父もいる。兄弟はいやいやながら父親のシモの世話などを交代でしている。

 勘一が興奮しながら観戦している第1回世界柔道選手権大会が開催された昭和31年5月は、水俣病が「公式発見」されたときでもありました。実は3年前には遊子の一家は水俣市に住んでいました。父親はまだまだ頑健だった。しかし体調を崩して中央病院へ行ってもなんでもないと追い返される。その1年後には父親は完全に寝たきりに。近所からは、あいつらに近づいたら骨がまがる病気がうつる、とううわさされるようになります。

 熊本市に引っ越した一家ですが、母親は赤松土建の社長(ヤクザですな)の妾になって家を出て行ってしまう。兄弟4人は復讐を誓い、赤松が県会議員に出馬した選挙の当日、ダイナマイトや銃で殴りこみます。兄弟3人は死に、遊子は裁判で実刑に。

 バロン吉元の筆は寝たきりの父親を容赦なく悲惨に表現します。排便した父親を前に兄弟たちはケンカをし、遊子は泣きながら下着を洗う。描写に救いはありません。彼らのエピソードは勘一の全国大会優勝と交互に描かれ、その対比が読者をよりやりきれなくさせます。日本のマンガは娯楽作品の枠の中で、このようなものも描いてきたのです。

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October 17, 2004

「夕凪の街 桜の国」マンガでなければ表現できないもの

 こうの史代「夕凪の街 桜の国」は、おそらく今後いろんなところで感想が語られることになるでしょう。まず、マンガで原爆をテーマにしたものがひさしぶり(かどうか実はよく知りませんのですが)。そして何より作品の力。

 表現力があってこそ、作品はひとを感動させる事ができる。すなおに泣いていればいいんですが、どうしても分析的に読んでしまうたちなので。以下、作品の内容に触れます。未読の方はご遠慮ください。

*****

・表紙カバーは川端を裸足で歩く皆実。桜の花の季節で、上着を着ています。マンガの内容とは季節がずれており、表紙カバーの絵は「夕凪の街」と「桜の国」を合体させたものです。

・目次(2-3p)に橋の欄干にすわる皆実。着ているのは、あこがれていたけど自分では袖を通すことのなかったワンピース。地面には打越さんがくれた草履。当然、このシーンは現実ではありません。手に持っているウクレレらしきもの。これについては不明。

「夕凪の街」

・昭和30(1955)年の広島。もうすぐ原水禁第1回世界大会ですから、季節は7月か。主人公・平野皆実、23歳。

・6pに出てくる型紙。昔はみんな手作りで新聞紙でつくるのがあたりまえでした。

・8-9pの情景描写。こうの史代の絵は、人物も背景も同じ線で描かれます。定規も、スクリーントーンも使わないフリーハンドの線は、背景すらも暖かい。遠景で川にはいっている人物が見えます。皆実の歌う「お富さん」の歌詞は「しんだはずだよ」「いきていたとは」です。自分の境遇と重ね合わせている。

・14-15pにそれぞれ一瞬、原爆投下の日の回想。その後16pに皆実の自虐の言葉。「そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない 人間になってしまったことに 自分で時々気づいてしまうことだ」 皆実が何を悔やんでいるのかは、ここではあかされません。

・21pでの打越さんとのデート。ページをめくって、ふたりのキスシーンのバック、川の中、橋の上に多数の遺体。もっとも衝撃的なシーンです。現実と過去が同じ画面に。皆実の回想が現実を侵食しているともいえます。

・22-23p、走る皆実のバックは、8月6日の悲惨な光景。マンガでなければ表現できない心理描写が続きます。ここで皆実が感じていた罪悪感が何かが明かされます。

・26pの皆実の言葉「わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった」を受けて、27p、原爆ドームを見つめる皆実。忘れない、という決意表明。これは作者の意思表明でもあります。

・28p、皆実と打越さんの会話。自分は被爆者であることを伝えます。当然そこには84pの母の言葉「…あんた被爆者と結婚する気ね?」で示される、被爆者に対する結婚差別が背景にあります。

・31p、吐血あるいは喀血をインクの大きなしみで表現。

・32-34p、皆実の目が見えなくなってからは、何もかかれない白いコマ連続するだけです。現実のセリフはバルーンにかこまれ、皆実のモノローグはワクなしでただよう。そして完全に空白のコマも存在します。死に向かう表現。大島弓子が描いていたセリフだけが空白のコマに浮かぶ表現がこういう形に変化しました。

・16pの「わかっているのは『死ねばいい』と 誰かに思われたということ」、33pの「十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て 『やった! またひとり殺せた』 とちゃんと思うてくれとる?」という言葉が、皆実の病気が、実は病気でなく、戦争という名の殺人である事を示しています。

・34p、「ああ 風…… 夕凪が終わったんかねえ」のモノローグと同時に白いコマに景色が見え出します。白いコマの消失→皆実の死。9月8日没。

・34p、「このお話は まだ終わりません」「何度夕凪が 終わっても 終わっていません」 ここで初めて作品の外から作者の声が聞こえます。

「インターミッション 36pのイラスト」

・おそらくは2歳上の姉・霞と皆実。これからお出かけするところ。お祭りでしょうか。

「桜の国(一)」

・昭和62(1987)年4月、東京都中野区。主人公・石川七波、小学5年生、11歳。祖母・平野フジミが80歳で8月27日没。

「桜の国(ニ)」

・平成16(2004)年夏、主人公・七波、28歳。弟・凪生が浪人したうえ研修医だから26歳ぐらい。

・62p、幼なじみの東子と再会して「あいたくなかった」 祖母の死、そして母の死を思い出すかららしい。

・64p、父・旭が会っているのは、おそらく古田さん(髪どめが…)。

・65p、会っている3人は、32pに出てきたひとたちか。

・67pで会っているのは、ハゲてるから、打越さんに間違いなし。

・69pであかされる、凪生と東子の愛と、被爆者家族の結婚差別。

・70-71p、同じ構図で回想シーンへジャンプ。父・旭は皆実の友人たちに会うために広島に来たのですが、ここからお話変わって、自分と妻の京花の回想に入ります。旭がすわっている場所はおそらく自宅の前、13pで皆実と打越さんがすわっているところと同じ。以下回想シーンではベタがなく、黒は斜線で処理される。厳密にいうと、最終コマでは旭がいなくなって、回想とはいえなくなります。

・79p、七波がカギでドアを開ける。ページをめくって80p、母が血を吐いて倒れている回想シーンへ。他の回想シーンと区別するために、コマの外側が黒ベタ。ここで「桜の国(一)」の39p、小学生の七波が家のドアを開けるときの緊張が何だったのかが判明します。七波は父と母の故郷、広島にやってきて、父が母の事を思い出しているのを知りました。そして自分も母の事を思い出している。

・83p、七波と東子がフタバ洋装店の前を通るとき、再度過去へジャンプ。この周辺には父・旭がいませんから、もはや回想じゃなくて過去そのもの。ここはむしろ七波が見ているように描かれる。

・87p、富士山のようですが、ちょっとこれは…

・89p、松ぼっくりを投げる七波。元野球部。

・91p、凪生の手紙を破り捨てる七波。手紙の破片が桜の花びらに変化して3回目の過去のシーンへ。父・旭が母・京花に求婚。このシーンにナレーションをいれるのは現代の七波という荒業。「生まれる前 そう あの時 わたしは ふたりを見ていた」「そして確かに このふたりを選んで 生まれてこようと 決めたのだ」 過去を見据える事で、七波も救済される物語となっています。

 「夕凪の街」では、過去と現在が同居するというテクニックでしたが、「桜の国(ニ)」では、過去のシーンを、それを知るはずのない現在の登場人物が眺めるという手法を使っています。ひとを感動させるためには、テーマだけじゃなくて、複雑な表現・手法が必要なのだと再確認しました。

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October 15, 2004

オビのはなし

 最近はマンガ単行本にもオビ(以前は腰巻なんて言い方もしてましたが)がついてることが多くなりまして、あれみなさんどうしてます。

 仕事用の本なら、わたしオビはとっちゃう、箱も捨てちゃう、カバーもはがしちゃって、裸にしてバシバシといぢめてるんですが、さすがにマンガは。美術品といえなくもないものですし。カバーはがす事はないですよ。でもオビはどうしよう。

 デザイン的にオビが重要なものもあります。吉田戦車「伝染るんです」のゆがんだオビ。羽生生純「恋の門」のカバーより絵の多いオビ。最近はオビの推薦文を誰が書くかで売れ行きが違う、なんてこともあるみたいで(柴咲コウのアレとか)、マンガにも推薦文が書かれたオビが増えました(みなもと太郎のコレとか)。

 マンガを除く古書の世界では、オビのあるなしで、倍以上の値がついちゃうこともあるらしい。プレミアのつくようなマンガ古書は、わたしの守備範囲外なんでよく知らないんですが、マンガでもオビで値段が変わることもあるんでしょうね。でも初版何百万部というベストセラーマンガの古書価格はオビの有無じゃ変わらんでしょ。でもこれがっ。あのまったく必要のないオビがっ。なかなか捨てられないんですね。数年たてば貴重な情報源になるかもしれないじゃないですか。

 マンガ単行本のオビがいつごろから始まったのかはよくわかりませんが、わたしの書棚にあるものでいうと、1979年のブロンズ社のシリーズにはオビがありました。ひさうちみちおの第一作品集「ラビリンス」(大胆な真夜中!細心の真昼!)、宮西計三第一作品集「ピッピュ」(君は恐怖のように美しい!)とかね。かっこいいコピーだなあ。

 読むのにジャマなんで、はずして本棚のすみっこに押し込んでおく。読み終わったらまたオビをかけりゃいいはずなんですが、一度はずしたオビは四次元へ消えてしまうことになってます。見つかることは、まず、ありえません。というわけで本棚のあちこちやら床やら、ときには居間のテレビの裏とかソファの下とかに、「何かの」オビが散乱してるこの状況をいかにすべきか。

 この落ちてんのはどうすんねん。ああ、捨てたらあかん、大事なもんなんやから、こないだゴミ箱にオビ捨ててあったやろ、あんなことしたらあかんやろ。こんなもんのどこが大事や、そんなに言うならまとめてカギでもかけとかんかっ。

 あと、その月の出版情報を書いたチラシもねー。

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October 13, 2004

マンガ読書の障害は金と時間ともうひとつ

 近況など。今読んでるマンガ。

 わたしの少女マンガ体験は乏しくて、最近のはもちろんくわしくない。雑誌を追っかけてたのは1970年代の萩尾望都、その前がりぼん時代のおおやちき、そしてその前が別マ時代の美内すずえ。

 「ガラスの仮面」より前、別冊マーガレットで、毎月のように繰り広げられていたロマン!冒険! しかも1〜3月ぐらいで完結するコンパクトさ。面白かったなあ。で、白泉社文庫の美内すずえ傑作選をぽつぽつと読んでます。

 実は読んでなかった荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」。イケマセンネ。初期に、なんだ「北斗の拳」じゃん、と思って読んでなかったら、いつのまにやらスタンドなんてえものが登場してえらい展開になってから、読みたいなあと思ってたんですが、機会をのがすとねえ。今回意を決して読み始めてます。ジャンプコミックスで揃えるか、文庫版で揃えるか迷ったんですが、ああた、全部買ったら何巻になんねん、書庫内でのスペースを考えて文庫で。失敗しました。この年になると、小さい絵や文字はキツい。今回のタイトルに書きましたが、マンガ読書の障害は、金と時間だけじゃありません。みなさん、年取るといずれ目にきますよー。大きい絵のほうがよろしい。

 あと久しぶりに未読のアメコミも消化し始めてます。こっちは遅々として進みませんが。

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October 12, 2004

4コマの神話、起承転結の呪縛

 夏目房之介「マンガの深読み、大人読み」66ページ、「いしいひさいちの極意」中の文章。

・「起承転結」という構成の概念と数が合うので、いつのまにか「マンガの基本は4コマ」という神話さえ生まれていた。

 あっさり書いてありますが、4コママンガは「起承転結」と単に「数が合う」に過ぎず、マンガの基本なんかじゃないぞ、という意味であります。

 辞書によると、起承転結というのはもともと唐代の漢詩・絶句から出た言葉らしい。これが日本で綴り方教室的に教えられるようになったのは、知識がなくて申し訳ありませんが、江戸時代、頼山陽あたりからでしょうか。有名なアレですね。

 三条木屋町 糸屋の娘
 姉は十八 妹は十五
 諸国大名は 弓矢で殺す
 糸屋の娘は 目で殺す
 (三条木屋町が京都三条になったり大阪本町・大阪船場になったりするバージョン、妹の年齢が違うバージョンもあり)

 「転」の部分の「諸国大名は…」の飛躍がスゴくて、「結」できれいにオチてます。この「起承転結」が漢詩の基本構造とされ、他の文章綴り方もこれに順ずるように指導されるようになりました。確かにこのように語られるとリーダビリティ十分。

 一方、コママンガが日本に輸入されたとき、コマ数は4コマであったわけではありません。もっと自由なコマ数を持っていた。ところが新聞マンガの形式では、いつのまにか「4コマ」が標準となり、昭和初期にはすでに定着していたそうです。ただマンガが4コマである必然は何もありません。そして4コママンガが標準となったとき、だれかがその構造を古典的漢詩の起承転結で解読したのじゃないか。当時、その解釈は新鮮であったろうと思われます。おおそうか、起承転結だから4コマなんだ、ユリイカ!

 これ以来、日本マンガは4コマと起承転結に二重に縛られることになりました。4コマで縛られ、起承転結で縛られ。以後現在にいたるほとんどのマンガ指導書が「4コマが基本」「起承転結が基本」と書き続けます。考えるに日本人てのは定型に縛られるのが好きなのかしら。俳句にしたって、五七五に季語をいれるという定型なんだし。

 しかし、考えていただきたい。「起承転結」は、もっと長編のエンタテインメントにこそふさわしい形式じゃないのか。「転」で大きなクライマックス、「結」で余韻のある結末を迎える。それに向かう「起」「承」ではきたるべきクライマックスに対する準備がなされる。物語を語るにふさわしい構造です。むしろ短く定型的な4コママンガには「起承転結」は自由な発想をさまたげる。そして起承転結がなければ、マンガが4コマであることに何の意味があるのか。

 戦後、日本マンガがこのことに気づく機会が3回あったと思います。まず、文藝春秋の「漫画読本」が創刊され、海外マンガが紹介され始めたとき。2回目がシュルツの「スヌーピー」ブームが起きたとき。海外マンガでは4コマは基本でもなんでもなくいろんなコマ数が存在し、もし4コマであっても、起承転結とは何の関係もない。それで十分面白いものができていました。しかしせっかく海外からの風が吹いていたのに日本マンガは4コマと起承転結に固執し、4コママンガの衰退を招くことになりました。

 結局、いしいひさいちの登場で、やっと日本4コママンガは起承転結を無視してかまわないことを知ります。いしいひさいちの功績は、4コママンガを複数並べ、長編を語ることを可能にしたこと、と言われますが、もうひとつ、いしいひさいちは4コママンガを起承転結の呪縛から解放しました。

 2004年10月10日朝日新聞「ののちゃん」2665回を見てみましょう。

・1コマめ:台風一過の青空の下、小学校の運動会。山田のの子、キクチ、久保の50m走。
・2コマめ:コース途中の水たまりを走る。
・3コマめ:コースに倒れている木を乗り越える。久保がコケる。
・4コマめ:ゴール。のの子が一等。久保のセリフ「いつもの50mなら勝ってたのに!」 キャプションに「平時のキクチ、乱世の久保、大乱世の山田」 

 2コマから3コマへのエスカレートに笑い、4コマめの饒舌がトドメをさします。古典的起承転結から自由になっていると思いますがいかが。

 さて、起承転結の呪縛は解けましたが、4コマの呪縛はどうでしょうか。ほとんどの新聞マンガはなお4コマ形式を守っています。いしいひさいちにしても、4コマじゃなくなるのはたまのことにすぎないし、他に4コマに拘泥しない作家といえば、佃公彦ぐらいでしょうか。これは作家が保守的なのか、読者が保守的なのか。読者は新聞マンガのコマ数なんか気にしないと思うんですが。

 「ブーンドックス」を読んでると、4コマでもないし、起承転結でもありません。「スヌーピー」もそうでした。日本の新聞マンガが4コマの呪縛から解放される日はくるのか。

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October 09, 2004

諸星大二郎むかしむかし

 2004年10月3日の朝日新聞読書欄での諸星大二郎インタビューには、みなさんけっこう反応していて、あちこちのブログで取り上げられています。

 諸星大二郎の初期作品についてはわたしも以前に書いたことがありましたが、今回はさらに「COM」初登場作品について。「むうくん'sPage」のご質問に答えて。

 諸星大二郎の虫プロ「COM」初登場は、1970年12月号の月例新人入選作「ジュン子・恐喝」にさかのぼる1970年5/6月合併号。「ぐら・こんコミックスクール」への投稿作品で、タイトルは「硬貨を入れてからボタンを押して下さい」13ページ。作者名はのちの2作で使用した「諸星義影」名義でなく「諸星大二郎」です。

 このころの「ぐら・こん」は有名マンガ家が交代しながら選者をつとめていましたが、この月はちばてつや。月例新人入選作なし。第一席なし。第二席5人。そして第三席が諸星大二郎。ただし、ちばてつやの選評を読むと、第二席が3人、以下順にずれて、諸星大二郎は第五席ということになってます。

 13ページのうち2ページが掲載。タイトルページは誰もいない街を歩くヒゲづらの男の絵。ビル群は破壊されておらず、ヒトがいないだけです。もう1ページは、男が自動販売機を見つけて「やあっ!!」「ジュースの自動販売機だ まだ動いているぞ」 10と書いてある硬貨投入口に10円コインをいれてボタンを押しますが、硬貨は帰ってくる。10の上にはってあったはがれた紙をよく見ると「値上げしました 20」と書いてある。「ま、これだけ便利で美しい町なんだから………。多少の値上げはがまんしてもらわなくっちゃあ、所得も上がっていることだし………。」←男の言葉じゃなくて回想みたいです。

 掲載されているのこれだけですが、以下はちばてつやの選評です。

・第五席は諸星大二郎君の「硬貨を入れてからボタンを押して下さい」です。人類が滅亡して、たったひとり残った人間。なにか食べたい。そこは文明国、なんでもある。自動販売機に硬貨さえいれれば。十円玉が一まいだけある。十円で食べられるものは……。おもしろい物語です。しかし、なぜこの男は銀行にいかないのだろうか。おれだったらこうするというものがひとつでもあったら、この種の物語は弱くなります。最後に十円の自動販売機がみつかって、お金をいれてみたら胃腸薬がでてきた、というところはきいています。絵のムードから静けさがよくでていますが、人のいないさびしさがでていません。作者が人物になりきっていないからでしょう。物語は主人公の空腹ではじまりますが、いきなり空腹にもっていかないで、孤独からはじまるべきだと思います。絵は線を整理すること。

 いやあ、諸星先生、ちば先生から線を整理するようにアドバイスされてますが、30年たっても、線は同じなんですよねえ。

 ちなみに諸星大二郎の次席は、黒咲一人だったりします。このころの「ぐら・こん」は投稿者名をながめるだけでも楽しい。

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October 08, 2004

楽しい深読み

 夏目房之介「マンガの深読み、大人読み」読みました。

 この本を読んでる最中、中野晴行「マンガ産業論」のことがずっと頭にうかびっぱなしでした。特に2部「『あしたのジョー』&『巨人の星』徹底分析」。

 内容がかぶってるというわけじゃなくて、互いに補完しあってるような関係。この2作とも、テーマのひとつは「なぜ日本人は大人のくせに電車でマンガを読むのか」です。今までは朝日新聞の記事をひいて、日本には手塚治虫がいたから、と答える事が多かった。でも、中野晴行と夏目房之介はこう答えを出してるんじゃないか。「日本には『巨人の星』と『明日のジョー』があったから」

 「マンガ産業論」の理解にもとづいて記すと、子供マンガは、読者が成長することで「卒業」していくものでしたが、これを卒業させずにずっと読者のままでいさせた原因のひとつが、少年マガジンの劇画戦略。新しいマンガ=劇画の採用は、新しい読者、すなわち年長読者を取り込んでいく。こののち、日本のマンガ供給者は、読者の成長に合わせたマンガを提供していくシステムを作り上げます。このためにはシステムだけでなく、年長の読者をひきつける優れた作品の存在が必須。夏目房之介はこれを「巨人の星」と「あしたのジョー」であるとしました。

 この2作があってこそ、日本マンガは年長読者を取り込むシステムを構築するのに成功した、という考えです。「マンガ産業論」が出版システム・社会構造・読者の行動を探る一方で、「マンガの深読み、大人読み」は作品に注目。作者・編集者へのインタビュー、作品論など。マンガ家だけでなく、編集者にもインタビューしているのは、夏目房之介が作品だけじゃなく、マンガ供給システムに注目しているからです。惜しむらくは、当然あるべきはずの梶原一騎(=高森朝雄)へのインタビューがないっ。夏目房之介もココがいちばんくやしいんじゃないかしら。

 『巨人の星』論も『あしたのジョー』論も、このマンガ史観に沿って書かれており、おそらくこの視点で飛雄馬とジョーについて書かれたのは初めてでしょう。とくに後者は、そのボリューム、詳細さにおいて圧倒されます。

 1部「マンガ読みの快楽」では戦前マンガと黄表紙の話がいい。というか、わたしの興味がそっち方面にあるもので。

 3部「海の向こうから読むマンガ」は、日本のマンガ状況を危機的なものととらえた上での、将来に対する提言です。海外における日本マンガ以外にも、海外マンガの話が多く出てきますが、タイのマンガのことを語っても、唐沢俊一と違ってやさしい視点なのは著者の人柄でしょうか。ここではあまりにドメスティックで自己完結的な日本マンガの現状についての怒りのお言葉。

 さて、自分の意見も書いておきます。日本マンガは世界一か。←そんなことはありません。

 とか言ってますと「マンガ学への挑戦」の発売が迫ってきました。申し訳ありませんが、ハッキリイッテ、目次を見るとこっちのほうが面白そうだから困ったもんだ。期待してます。

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October 07, 2004

「薩摩義士伝」のギャグ世界

 みなもと太郎氏から、ちゃんと読まんかいっとコメントされてしまいましたので、本日は平田弘史「薩摩義士伝」の読み直しでございます。注目はギャグ。笑えてしまう、というものではなく、作者が意識してねらってるものだけをピックアップして。

 「薩摩義士伝」は1977年増刊ヤングコミックに連載開始。1979年同誌の休刊にともない週刊漫画ゴラクに移って1982年まで連載されました。結局未完のままで終了しましたが、平田弘史の絵としては最もアブラののりきった時期のもので、代表作としてはこれでしょう。

 ストーリーは実話に基づいています。宝暦4年、木曽川・長良川・揖斐川流域の治水工事を命ぜられた島津薩摩藩の難行。内部では城下士と郷士の差別・反目。斬り合いと切腹がいっぱいのお話ですが、どんなギャグがあるか。テキストは日本文芸社・ゴラクコミックス版全6巻です。

 まずは軽いシチュエーションの笑いから。ギャグというよりコメディの手法。

・侍が百姓の手伝いをして芋をもらってくる。子供が「うめえや父ちゃん またもらってきてね!」「乞食じゃねえんだ」(1巻・ひえもんとり)

・久しぶりに酒を飲む侍たち。「お〜いおいおいオイ」「泣かデンよかっがな〜」「もったいなかデン チビチビ飲も〜ッ」「おいは一晩かかってナメるんじゃ〜ッ」(4巻・やんめごろ炎魂)

・夜中に子供が次々とおしっこに。「おらも!」「おらもだ!」「おらすんだ」「ええ!!静かに行かんか!!」(6巻・厄介者)


 こっけいな絵や擬音、会話。古典的です。

・神社や寺を荒らされたときの驚いた神官や坊主、とぼけた会話をする牢番のマンガふう表情。(4巻・鳥と百舌)

・「よしよしその方らは ああせいこうせい」「この方らは こうしろああしろ」(5巻・我、無点にあらず)

・食事のときの擬音「ポリポリカリッコ!」(5巻・我、無点にあらず)

・SEXのあとの「腰が軽」くなったときの歩き方。(5巻・我、無点にあらず)

・酌婦にむしゃぶりつく侍。「ヴヒヒヒ パクッ」「イヤ〜アン モット」「そう言うなッテ!」「シツコイシト!」「ブチューッ」(5巻・我、無点にあらず)

・キスする恋人たちの上にハートマークが飛ぶことも。(6巻・激突)


 ストーリーとは離れた図解にはいろいろお遊びがあります。

・「まさしく薩摩の武士の子は幼少からカチンカチンの武士魂を叩き込まれるしきたりであった」 絵は四角い顔と体の武士の子。「作・二才クラブ」「1748年第77号」の札がついてます。カナヅチで叩かれ、「フム ダイブ カトナッタ!」 着物の柄は「カト」です。(1巻・二才教育)

・コドモの絵のような渦巻きで描かれた太陽。矢印して「太陽」と説明。(1巻・二才教育)

・「金庫の金に羽が生えて飛んでゆく様なのものだった」 実際に小判に羽がはえた群れが飛んでます。(2巻・因縁関ヶ原)

・堤防の図解。アリのように描かれた人間から出たフキダシに、音符マークやらドクロマークが。(3巻・生命塚)

・閣老が薩摩藩江戸留守居役に上意を伝える場面。閣老が読んでいる紙には「命令する文」と。 驚いている薩摩藩士の背中に旗。役職・名前が書いてある。(2巻・因縁関ヶ原)


 時代劇の中に顔を出す現代。

・議論の途中「かしこくも日新大菩薩」と言われて、みんな気をつけをして刀をささげる(ただし西洋風)。擬音に「ピタ」「ピタ」「ミンナピタッ」(1巻・二才教育)

・吉宗と尾州藩主の会話。「あんたガタガタ云うけどね 諸大名とて今は皆苦しいときなのよ! 気持ちは分かるが今は無理じゃ」「何がムリじゃ! 無理もへったくれもあるか!! 少しは尾州の立場も考えてくれよ 吉宗君!」(2巻・議論紛糾)

・風呂にはいって「旅いゆけばァン〜ァア 駿河のォ〜ォ国にニイ〜ィ 茶の香りィ〜」「という浪曲はまだ創作られてなかったは…ハハハ」(5巻・我、無点にあらず)


 もっとも現代的ギャグらしいギャグはこのふたつ。

・旅の途中の宿、集団で床につく。修学旅行みたいですが、それぞれのふとんに書いてある文字を並べてみると「おやすみ」「みんなでねよう」「しょうりゃくしてごめんなさい」「ぐっすりおやすみなさい」(2巻・長兵衛の家族)

・大きな男根が勃起したシーン。ペニスそのものは透明。「ズバリカイテハイケナイ」という字が書いてあって大きさがわかるようになってます。(2巻・長兵衛の家族)

 多彩ですねー。しかもねらってやったギャグがちゃんと成功してるから驚き。他の劇画家、小島剛夕やさいとう・たかをを思い浮かべてみても、こんなことやってるヒトはいません。むしろ初期の大友克洋のテイストに近いかも。

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October 06, 2004

「PLUTO」の世界設定

 しつこく「PLUTO」について。

 実はわたしは、「PLUTO」の読者は「地上最大のロボット」をすでに知っているか今後読むだろうと考えて、以前の記事を書きました。ところがネットの感想などを読むと、どうも「PLUTO」の多くの読者が、オリジナルの「地上最大のロボット」を読んでいないし、読むつもりもないらしい。

 たとえば、わたしの同居人などは「PLUTO」はミステリ的にすごく面白い、ただし、オリジナルを読むつもりはないと、断言しております(その理由は、わたしがあえてオススメしていない、ということもあるんですが)。読めへんのか。いやや、こんだけ面白いのに、読んでまうとこれからの楽しみがなくなるやん。

 これもひとつの見識ではあります。テレビや映画とかアニメでもそうですが、読者・観客はオリジナルをあえて読まないひとのほうが多いんですね。というか、それが一般的。

 さて、彼らには、手塚治虫と浦沢直樹の合作であるアトム世界の設定はどのように感じられるのでしょう。手塚マンガに慣れているわたしですが、浦沢直樹の目を通したアトム世界の設定は、あらためて変わってるなあと再確認。

・世界は第39次中央アジア紛争を経て、現在は平和らしい。39次というからには、近未来というよりけっこうな未来でしょう。
・都市は高層ビルの間をハイウェイが走る「古典的」未来社会。デュッセルドルフの旧市街再開発地区は廃虚だが、スラムではない。イスタンブール旧市街もそれなりの落ちついた街。

・人間とロボットがあたりまえに同居する世界。
・なぜか黒人は登場していない。

・ロボットは人間とほとんど変わらない外見を得ている。しかし、人間はロボットを、なんとはなしに、人間じゃないと認識できる。
・明らかに機械と解る外見を持ったロボットもいる。
・ロボットは人間と同じ職場に就職している。
・ロボットの上司・部下・同僚は人間であったりする。

・ロボットを殺す(破壊する)ことは罪である。
・ロボットも犯罪者として処罰される。

 すでにロボットは単なる機械ではなく、社会的にも義務と権利を持っています。おそらく世界SFのなかでもめずらしい設定では。

・ロボットは結婚できる。
・ロボットは一家を持ち、世帯を形成できる。
・ロボットは養子をむかえることができる。

 アトムのようなロボット一家、というのは、あらためて読むとすごく変わった設定のように思いません?

 作品内で謎なのは、格闘ロボット・ブランドの5人の養子たちです。彼らは人間か、ロボットか。食事にサラダなどが出ていることを考えると、人間ということになるのですが、オリジナル・アトムの世界でもロボットの子が人間というのはなかったような。この世界の特殊設定か。

・ロボットは感情を持ち、夢を見る。
・ロボットはロボット法13条により、人間に危害を加えることができない。
・ただし、上記に縛られない、異常なロボットも存在する。
・ロボットは人間から尊敬されたり、逆に差別されたり。人間とロボットは複雑な関係にある。

 このうちほとんどが手塚治虫がつくったオリジナル設定です。1950年代初期、想定されていた読者はせいぜい小学生まで。ロボットの存在を人種差別のアナロジーとしてとらえるこの設定は、読者レベルから考えて、あまりに難しく複雑でした。でも読者はこれについていってたんだよなあ。

 おそらく「PLUTO」の今後の面白さの中心は、ストーリー以上にこのアトム世界の設定にあり、と予想しますがいかが。

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October 04, 2004

「血だるま剣法」と「天才バカボン」

 今発売中の「comic 新現実」1号で、みなもと太郎が平田弘史作品に言及してギャグがすごいと語ってます。それに反応して長谷邦夫が、自身のブログで「血だるま剣法」はギャグ・エスカレート構造を持った作品であると発言。一方山上たつひこは、かつて1989年「鬼刃流転」で「血だるま剣法」のパロディを描いています。

 わたしは先日のブログで「奇想」と表現しましたが、そうかぁぁぁっ、あれははっきりギャグであると言うべきだったのですね。当代トップの3人のギャグマンガ家たちは「血だるま剣法」を読んでそう考えています。実際に笑えるかどうかは別。要はギャグをつくるのと同じように発想された作品だと。実作者の目は鋭い。

 もう一度おさらい。「血だるま剣法」の主人公・幻之介は、まず師範代との稽古で右腕を失う。それでも鬼神のように強いのですが、次に先輩に両足を斬られる。床に臥しているところを、かつて幻之介がけがをさせた師範代候補に発見され、左腕を落とされる。この師範代候補も腕が使えないので口にくわえた刀で斬りつけてます。

 四肢をなくした幻之介は、山に住み、あたりを這いずり回りながら、うろこに似た石に胸や腹をこすり続け、ついには腹をうろこ形にして、鍛錬の結果、恐るべきスピードで這いまわれるようになりました(オイオイ)。左右の上腕に小さな刀を結びつけ、木の上や天井に這い登り、そこから落下して人を斬る剣法を開発(コラコラ)。

 かつてアニメーションの視覚ギャグでは肉体の破壊があたりまえだった時代があります。トムとジェリーを思い出してください。爆発、変形、歯は折れ、体に穴もあけば、水も漏る。平田弘史は黄金期アニメーションの遠い子孫か?

 山上たつひこの「鬼刃流転」では、アンクル・トリスのような体形(このたとえはかえってわかりづらいか)、えーとタマゴみたいな体形の登場人物が斬ったり斬られたり。肉体切断をギャグにするために、いつもの山上キャラと違った造形にしてあります。

 主人公・柳左近の師匠は、左近に右腕を斬りおとされる。復讐しようとした師匠は左近に返り討ち。残った手足を斬られちゃいますが、霊草・蛇含草のおかげで体がヘビに変化。口に刀をくわえてヘビの体で斬りかかる。蛇腹剣法の誕生。山上たつひこは、「血だるま剣法」の設定がそのままギャグになりうることを証明しました。

 肉体改造をギャグにしたので思い出すのは、赤塚不二夫「天才バカボン」の中でも有名な一篇。恋人が自分をホントに好きかどうか不安な男。もしかしたら彼女は自分の顔だけを愛してるんじゃないか? バカボンのパパにそそのかされた男は、自分を変な顔に改造。目を縦に。鼻の穴を大きく。耳を長く。「これでもまだ愛している!?」「きゃーっ 愛してるわ!?」

 ついには当初の目的を忘れてしまって「おもしろいからもっとやろうよ!!」 目玉が飛び出し、コウモリのようなハネで空を飛ぶ怪物になってしまう。長谷邦夫の言うギャグ・エスカレート構造のよい例でしょう。

 トムとジェリー、山上たつひこ、赤塚不二夫。平田弘史を彼らと並べて読むことになるとは思わなかった。

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October 03, 2004

浦沢直樹「PLUTO」:あなたのアトムわたしのアトム

 浦沢直樹「PLUTO」1巻発売! これぞ21世紀最大の問題作! 稀代のストーリーテラーによる、手塚マンガリメイク! よみがえるアトムを目撃せよ!

 広告コピーふうに書いてみました。ただこの「PLUTO」を読んで何を考えるかというと、なぜ「地上最大のロボット」なのか、という点。

 手塚治虫自身はアトムに対する自分のアンビバレントな気持ちを繰り返し書いてきました。しかし、やはり「鉄腕アトム」こそ世間の考える手塚マンガの代表作。「少年」連載だけでも1951年から1968年までなんと17年間続いたんですからね。これだけ長い連載だと、読者の世代によってアトムに対する思い入れも違ってきます。

 「創」2004年7月号の浦沢直樹インタビューによると、浦沢直樹が「地上最大のロボット」を読んだのが5〜6歳。自分の頭の中で作品が育っていって「地上最大のマンガ」になったと語っています。いずれにしろ1960年生まれの浦沢直樹は、この時期のアトムをすごく面白いと思っていた。

 でも違うんだよなあ。アトムは1950年代のものこそ面白いんだよー。泣ける話がいっぱいなんだよー。「海ヘビ島」も「電光人間」も涙なくして読めません。アトムは半ズボンで小学校の制服着てたりするくせに、すぐ裸になりたがるし、ブーツじゃなくてキャバサンやらスリッパやらわからんもの履いて足を見せびらかして、男のくせに色気ふりまいてました。

 「地上最大のロボット」は、1964年から1965年というアトムとしては末期に描かれたもの。すでに手塚治虫の絵は1950年代の色気を失ってしまっていた時期。ストーリーも「ロボイド」などと同様に、横山光輝の複数忍者対決モノ「伊賀の影丸」の影響下にあることは明らかで、複数のロボットを対決させて派手さを求めていた。そして何より、アトムが10万馬力から100万馬力に改造されたのがこのエピソード。「ドラゴンボール」に先行するように、スペックの数値が強さを決定する。かつて知恵で力を制していたアトムはどうした。

 「地上最大のロボット」は、一般的人気は高いものの、アトムのエピソードの中ではスケールだけを大きく見せた失敗作と考えます。でも、だからこそ浦沢直樹がどういうふうに料理してくれるかが楽しみ。

 「PLUTO」は人間とロボットが同居する世界。ロボットは知能を持ち、感情を持ち、結婚もするし、レクター博士みたいな異常なヤツもいる。いまさらながらアトムって変わった設定でしたね。このアトム世界をさまようのはユーロ連邦警察・ゲジヒト刑事。かっこいいぞ。

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October 01, 2004

消費されるキャラクター「二次元美少女論」

 吉田正高「二次元美少女論 オタクの女神創造史」はマンガ、アニメ、ゲーム等に登場する美少女の歴史をつづったもの。わたしはマンガ以外のジャンルにうといので、著者の知識量には圧倒されました。

 山のように固有名詞が出てきます。とくに同人誌に対して多く言及しているのが新しいところでしょうか。市場をオーバーグラウンドとアンダーグラウンドに分け、互いに影響しながら発展してきたという視点です(アンダーグラウンドに対する著者の定義がないのでわかりにくいのですが、同人誌・OVAの一部・ゲームのうちエロゲーがアンダーグラウンド、それ以外のものがオーバーグラウンドらしいです)。

 最初の章に「甲冑少女・パワードスーツ少女・触手」をもってきたところで、たいていの読者はひくでしょう。触手ってあれですよ、うねうねしてて女の子にからみついてエッチな事するヤツ。触手は半裸の甲冑少女とペアに語るべきものなのか? それはあんたが好きなだけやろっ。ギャグで書いたら面白かっただろうに、著者はあくまでマジメです。

 以下「メカ美少女(メカと美少女じゃなくて、ロボット美少女)」「美少女パイロット」「格闘美少女」「ヴァーチャル・アイドル」「ゲーセンの美少女」と続きます。どの章も書いてあることは同じで、ひたすら固有名詞を並べてそれぞれの歴史を追っていきます。情報の取捨選択は、どうも著者の心の中というか体の一部というか、そのあたりの反応で決めているようで、マイナーな作品も含めてデータがただ羅列されていきます。

 文章は大仰。「このような甲冑娘という表現形式に対する存在意義の高まりは、一般文化を巻き込んだ大きなうねりとなっていく」→ここで言う大きなうねりとは「聖闘士星矢」や「ビックリマン」のことを指します。そうか?

 多量の固有名詞を除けば、この厚い本で著者の主張はただひとつ。それぞれのテーマの美少女の流行があり、消費された結果、衰退しつつあると。でもそれは消費されるキャラクターとして、あたりまえのことじゃないのか。

 本書のまえがき・あとがきより。

・はなやかな「萌え」美少女が人々の関心を惹きつけ、表面を繕っているその内部では、形骸化が進行しており、二次元美少女表現の空洞化、さらには二次元美少女の消滅すらも目前に迫っている。

・表現様式自体が意識化、自覚化、メタ化の波にのまれ、新たな魅力をもった二次元美少女誕生の機会を減少させているという現状が明らかになった。

 要は、最近自分の好きな美少女が減ってきたなーと言いたいようです。

 市場というのはいろんなものを限りなく消費し尽くすものでしょう。そして新たな商品を求めて移動していくもの。もし変化しなくなれば文化=市場の沈滞です。わたしの理解では、二次元美少女というキャラクターがどんどん消費されていくのは市場の原理。二次元美少女が文化と同時に商品である限り当然の事であり、それをいまさら言われても。

 さらに日本の二次元美少女の市場、これをアンダーグラウンド、オーバーグラウンドの二つに分ける考え方はどうか。たとえばアメリカのアンダーグラウンド・コミックスに限っていえば、暴力・セックスに関する厳密なコミックス・コードがあり、これに対する反発としてコードを無視するcomix(comicsじゃなくてこのように表記しました)が出現してきたという歴史的経過があります。ここでは意識された対立があり、結局その後、コミックス・コードはなし崩しに無視されていきました。

 日本の市場ではオーバーグラウンドとアンダーグラウンドに文化的・市場的対立があったわけではなく、すべての新しいものがアンダーグラウンド発祥であったわけでもありません。ただ著作権やセックスに対する規制のゆるさと、消費者の傾向が偏っていただけです。そこでは消費者の好みは先鋭的であったでしょうから(それが著者の言うオーバーグラウンドに反映されるかどうかは別にして)、特殊な趣味を生み出してきました。その意味で同人誌に注目して歴史を語る事は正しいことでしょうが。

 結局、この本より知識は得られますが、それ以上の事を望んではいけません。

 著者は1969年生まれの大学研究者。自分のコレクションを「吉田コレクション」と誇らしげに書き、「家屋という家族の共同生活空間を蝕んで増殖していったコレクションに関して、長い間静観してくれている両親に」謝辞を述べています。…早く独立したほうが…

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