W3事件の意義
夏目房之介氏のブログで、元少年マガジン編集長・宮原照夫氏のW3事件に関するインタビューが取り上げられていました。わたしも以前にW3事件を調べて書いたことがあります。今回の証言では、当時の状況が生々しく語られています。
宮原によると「ナンバー7」は少年マガジン1965年6号から連載開始予定でした。1964年12月31日になってやっと予告の絵を手塚に描いてもらいますが、年明け早々、1965年1月5日に手塚から1回目のクレーム。アニメ「宇宙少年ソラン」に宇宙リスが登場する。ナンバー7のアイデアがマガジンから漏れた、というものです。「ナンバー7」は連載中止になります。
その後1月末にW3の設定がパイロットフィルムの形でできあがり、少年マガジン13号から連載開始(宮原は16号からと語っていますが記憶違いでしょう)。その後マガジンに「宇宙少年ソラン」の連載予告が載ってから、手塚から2回目のクレーム。ソランの連載をやめろ、と。結局マガジンはソランを切ることはできず、手塚はW3の連載を少年サンデーに移してしまいます。
宮原の言うとおりなら、12月31日から1月5日の間に宇宙リスのアイデア流出がわかったという急激な展開。ところが山本暎一「虫プロ興亡記」によると、すでに12月中にはナンバー7の中止は決まっており、1月4日には会議でW3を雑誌連載した上でアニメ化することが決定されています。虫プロスタッフを「鉄腕アトム」班、「ジャングル大帝」班に振り分けても、余ってしまったスタッフ25人の仕事をつくるためでした。
両者の言い分を信じるなら、手塚は虫プロ内部と少年マガジン編集部に対して別の顔を見せていたことになりますが、結局、真実はわかりません。
W3事件はゴシップ的にも興味深いのですが、実は、この事件は戦後マンガ史の分岐点であったと考えられます。戦後マンガ表現史を考えるとき、まず手塚治虫が切り開いたストーリーマンガがあり、つづいて反・手塚として劇画が登場する。第3に少女マンガが心理描写を進歩させる。
W3事件は手塚マンガから劇画への転換をうながしたことになります。事件をきっかけに、少年マガジンは手塚的な古典的少年マンガの絵・語り口から離れ「劇画」にアプローチします。水木しげる、さいとう・たかを、そして梶原一騎。「巨人の星」も「あしたのジョー」もW3事件が作ったものと言えるかもしれません。劇画はその作品の力でいずれマンガの主流となることができたと思われますが、W3事件がなければその後のマンガ史はどんな展開を見せたでしょう。
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