美少女と萌え(その2)
(前回からの続きです)
ただその後に書かれる吾妻ひでお「ふたりと5人」を「描かれなかった恋愛まんが」としてロマコメの先駆と考え、「やけくそ天使」の阿素湖を美少女であるとするのは、そらあんたムチャやがな。前者は著者が言うところの「オヤジ的お色気コード」内の作品でしょうし、後者はそもそもセックスの怪物・阿素湖は美少女か。彼女が幼女に変身したときは別として、あれは「富江」につながるような妖怪マンガじゃないのか。
美少女前史として1970年代、戦う理由に「女性のため」という言葉が登場します。この指摘は面白い。少女マンガ的なものが少年マンガを侵食したとき、「男らしさを証明する相手としての女性」がまず出現した。例に出されているのは「あしたのジョー」「愛と誠」「デビルマン」「男おいどん」「硬派銀次郎」など。
80年代になると少年マンガのラブコメブームがあり、ここで何を選んで語るか。あだち充「みゆき」「タッチ」は当然として、著者は美少女とパロディを社会閉塞の時代の屈折から出てきた表現と考え、島本和彦「炎の転校生」を例に出します。この部分、あまりにあっさり流されていて惜しい。パロディの流行は確かに著者のいうとおり熱血を許さない社会閉塞の結果でしょうが、美少女=恋愛マンガもそうなのか。もっと読みたい部分です。
このあとアニメの話。「うる星やつら」「DAICON III オープニングアニメ」「超時空要塞マクロス」そして宮崎駿と富野由悠季。
第3章「変貌していく美少女」第4章「美少女という問題」になると「『見る』ポルノグラフィ」「ただ見るだけの存在」「視線としての私」「箱男化」という言葉が頻発するようになります。これまでの歴史認識に立って現代の状況を分析する章ですが、このあたりわかりにくいんですよう。著者の主張はわたしには以下のように思われます。
(1)まず「オヤジ的お色気コード」からラブコメやロリコンへの変化がおこった。男性は70年代少女マンガを読むことで無意識のフェミニズム的偽装を獲得し、女性の内面をわかってあげようとする存在になった。(2)しかし男性が「見る」行為はやはり暴力的なものである。(3)いっぽう、80年代後半少女マンガが崩壊し、少女の心理描写はなされなくなり、男性は少女の内面を入手できなくなる。(4)その結果、現在、人間じゃない「キャラクター」に対しての視線の暴力性が過激に解放されている。
上記あたりの要約であってますか? 「美少女の現代史」は新書なんで、残念ながら書かれているボリュームが少ない。作品や歴史を語る前半はともかく、第3章以後の考察部分はもっと詳しく知りたい部分です。とくにわたしの要約の(3)の部分、この部分の記載が最も少ないんですが、これってあれですか、やおいやボーイズラブによって腐女子が外に対して自分を語らず、空想と仲間内の輪の中で自閉してるっていう意味ですか。うーむムズカシイなあ。いい本なんだけど。
というわけで、わたしの中では「萌え」をまだ理解できてません。阿島俊「漫画同人誌エトセトラ'82-'98 状況論とレビューで読むおたく史」というぶ厚い本を手に入れましたので、これを読みながらもっと考えてみますね。
あとひとつ、著者ササキバラ・ゴウは少年キャプテンの編集長だったそうですが、同誌に連載してた島本和彦「逆境ナイン」に登場して「それはそれ、これはこれ」とか言ってる産休教師、サカキバラ・ゴウと、どのようなご関係が。
Comments
はじめまして。
「萌え」と言う言葉がビビッと引っかかりました。(笑)
しかも吾妻ひでお!! 大好きな作家です。
Posted by: 獅子神頭取 | May 05, 2005 10:56 PM