みなもと太郎出撃
みなもと太郎「風雲児たち 幕末編」5巻といっしょに新単行本「挑戦者たち」を買ってきました。「挑戦者たち」は少年画報社「斬鬼」に連載されたエッセイマンガを中心に「日本任侠史」「日本侠客伝」という評論マンガをまじえてまとめたもの。みなもと太郎の本領発揮というべきもので、こういうのこそおもしろいなあ。もちろん「風雲児たち」はちゃんと完結してほしいんですけどね。
この本には彼が東京に進出する前、京都時代のイロイロが描かれています。1960年代末に京都で就職したり、3カ月で仕事やめてアルバイトしたり、大阪の同人誌仲間の家でぐだぐだしたり。
みなもと太郎は、今でこそ「風雲児たち」のヒトですが、その前はマンガを模写で評論するヒトでした(名作「お楽しみはこれもなのじゃ」ですよ)。で、その前は平凡パンチのエッチギャグ(「男の劇場」だよ、覚えてる?)のヒト。彼が商業誌デビューしたのが1967年「りぼん」と紹介されています。
1968年聖悠紀らがいた「作画グループ」に参加。みなもとがいりびたっていたという大阪の会長宅というのは馬場吉明のところでしょう。同年より、馬場は虫プロ「COM」の主催するマンガファン組織「ぐら・こん」の関西支部長も兼任するようになり、11月にはみなもとは「京都地区代表役員」になりました。COM1969年2月号には「みなもと太郎君の『真夜中のこねこ』1カット」が転載されてます。
COM1969年9月号には「第2回同人誌推薦競作集」として、みなもと太郎「白い狩人(ハンター)」8Pが掲載されました。同時に掲載されているのが武蔵野漫画研究会「安達みつる」の「青い夏」8P。当時あだち充は高校卒業後石井いさみのアシスタントをしている時期でした。彼はCOMの常連投稿家でもあり、その画力は他を圧倒していました。
「白い狩人(ハンター)」にはハシラに「みなもと太郎氏は昭和22年、京都で出生し『女学生の友』に『あの壁を越えて』を発表、現在にいたる」とあります。作品はまったくの劇画調で、白ウサギをしとめようとして好意を持ってしまったハンター。ウサギを他のハンターにしとめられてしまい、その男を銃でねらう、という話。ウサギの眼がマンガ調でウルウルしてる以外は、後年のみなもとを思わせるところなし。ぜんぜん面白くないですよー。
みなもと太郎はこの翌年1970年少年マガジンに「ホモホモ7」を連載し、ギャグマンガに劇画を混在させるという、まったく新しい手法を開発することになります。このときは驚いた。
Comments