スパイダーマン日本上陸(その2)
(前回からの続きです)
トラウママンガと言われたり、からかいの対象になることもある池上遼一版「スパイダーマン」ですが、どういうものだったのか。今も繰り返し再版されてますから現物にあたっていただくとして、当時のリアルタイム読者のわたし(雑誌で読んでます)はどう考えてたんでしょ。本家スパイダーマンを知らないからといって、そうかこれがアメコミか、とは感じていませんでした。これはちゃうやろと思ってました、やっぱりね。
池上遼一インタビューや平井和正のエッセイを読むと、池上版スパイダーマンは3期に別れていたようです。
第1話「スパイダーマンの誕生」第2話「犬丸博士の変身」第3話「強すぎた英雄」が小野耕世翻訳、編集部主導の部分。
第4話「にせスパイダーマン」第5話「疑惑の中のユウ」第6話「狂気の夏」が池上遼一オリジナル。
第7話「おれの行く先はどこだ!?」から最終第13話「虎を飼う女」までが平井和正原作。
編集部主導の1話から3話までにはちゃんと怪人が出てきます。エレクトロ、リザード、カンガルー男(これは元ネタがわからない)。でもエレクトロは、北海道から上京してきたガールフレンド・ルミちゃんの兄。ルミちゃんは美人ですが田舎者。いかにもあか抜けない。三つ編みを両肩にたらしリボンをつけるという、1970年としてもちょっとなあというファッションです。本家のガールフレンド、メリー・ジェーンとはえらく違いますね。
エレクトロは1話のラストで主人公・高校生の小森ユウが変身したスパイダーマンに殺されます。本家の怪人たちが死ぬことなく、繰り返し悪役として登場するのと大違い。このやりきれない第1話のストーリーと、ルミちゃんの造形が、この後のスパイダーマンの方向性を決定づけました。
池上遼一オリジナルといわれている4話「にせスパイダーマン」は全話を通して、もっとも日本版スパイダーマンらしい作品じゃないでしょうか。それなりに秀作。怪人・ミステリオとにせスパイダーマンの登場。マスコミからの非難。おばさんからの疑い。という本家の設定がちゃんと残ってる。加えて、夢の中でユウはスパイダーマンの姿で犯罪をおかした上に、本当のクモに変身してルミちゃんを追いかけてます。そして現実のルミちゃんとの再会と、彼女からの非難。意外な犯人。最後にルミちゃんは置き手紙を残して都会の闇の中へ去ってしまいます。怪人、ニセモノを含めていろんな要素をてんこもりにしたうえ、カタルシスのないラスト。1970年という時代を象徴してるような作品でした。
5話「疑惑の中のユウ」は高校生の強姦事件という、スパイダーマンじゃなくていいだろっというお話。最後までスパイダーマン登場しません。「ゴーゴーホール」で働いてるルミちゃんと再会。
6話「狂気の夏」はハイジャックテーマ。犯人はベトナムに帰りたくなかった米軍兵。ユウは暑さにいらついて大量殺戮の幻想を見てます。もはやスパイダーマンのお話じゃなくなってるような気が…
このように平井和正が登場する以前より、すでに物語はあっちの方向へ走り出していました。日本においてスパイダーマンは、どうしてもお気楽なお調子者の側面を表現できず、ひたすらリキんでいました。これは池上遼一の資質と、当時の日本の社会状況・マンガ状況のため。みんなマジメだったというか、余裕がなかったというか。1970年の日本で日本人がスパイダーマンの仮面をかぶるとき、飛雄馬にならざるをえなかったのです。この時代、もしお気楽なスパイダーマンが描けるとしたら、永井豪しかいなかったのじゃないか。
そして7話「おれの行く先はどこだ!?」で平井和正が登場。オープニングでユウはヌードのルミちゃんを妄想し、オナニーしてます。このシーンが大ゴマを使って、なんと10ページにわたって展開。これで池上版「スパイダーマン」は伝説となりました。
以後は「平井和正の作るお話」となります。多くのエピソードがのちに主人公を変えて小説化されている。確かにSFとして十分に読ませるアイデアと展開を持った作品でありました。自身のエッセイでは「本国版のフォーマット、ストーリーを放棄し」「行動原理を、“青春の彷徨”」とすることで「青春ストーリーとして成功を収めた」と。しかし、これまで書いたように、日本版スパイダーマンを創造し、その方向性を決定したのはやはり池上遼一。良くも悪くも、この作品は池上遼一のものでした。
さて、その後のルミちゃん。彼女は後半の平井和正原作では忘れられた存在となってしまい、久しぶりに登場した10話「狂魔(くるま)」であっさり交通事故で死亡。作者に愛されなかったヒロインの末路哀れ。ってわたしはいまだにこの件怒ってます。これはあんまりだ。ヒドかったぞー。
The comments to this entry are closed.
Comments