スパイダーマン日本上陸(その1)
池上遼一のベストワークは何でしょうか。「GORO」連載時の「I・餓男 アイウエオボーイ」アメリカ篇を選びたい。1970年代後半、「男組」とダブる時期ですが、初期の勢いのある荒々しい線がシャープな線に変化したのがこのころ。上唇に斜線をいれるという手法を開発した時期です。なんせ「GORO」はでかい雑誌でしたからね。大きな版形でしっかりした絵じゃないともたない。その点、池上遼一はたいしたものでした。
このころの池上遼一の絵を誉めるとき、「アメリカの摩天楼がすごい。あれはスパイダーマンを描いたときに修行したね」という言い方がありました(初出は覚えてないんですが)。
池上遼一版「スパイダーマン」は「別冊少年マガジン」1970年1月号から1971年9月号まで連載。池上遼一は当時まだ「ガロ」を中心に描いていた時期で、100ページ巨弾連載でしたから抜擢といっていいでしょう。翻訳・構成は小野耕世。仕掛け人は1970年夏には「週刊少年マガジン」「ぼくらマガジン」を含めてなんと3誌の編集長を兼務することになる内田勝です。講談社はマーヴェルと提携し、この後「ぼくらマガジン」では
「超人ハルク」(絵は西郷虹星)
を掲載、他にも
「タイガー・マスク」辻なおき/梶原一騎(旧「ぼくら」からこれだけ継続)
「仮面ライダー」石森章太郎(TV版と同時スタート)
「魔王ダンテ」永井豪
「バロム・1」さいとう・たかを
「ウルフガイ」坂口尚/平井和正
このラインナップは意識的に「変身するスーパー・ヒーロー」を揃えたもので、日本のマンガ雑誌がもっともアメコミに近づいた一瞬でした。池上遼一版「スパイダーマン」はその先駆だったわけです。
さて、「別冊少年マガジン」でスパイダーマンが始まったとき、読者はまだ本家スパイダーマンを知らなかった。小野耕世が虫プロ「COM」でスパイダーマンの紹介をしたのが1968年4月号でした。新連載「海外まんが紹介」の第1回が「スーパー・アンチ・ヒーロー『スパイダーマン』」です。
この中で小野耕世はスパイダーマンをアメリカの新しい「青年まんが」と呼び、この理由を主人公の性格に求めました。「いつも自分に自信がもてず、おどおどと不安にとりつかれている」「女性恐怖症の気味があり、女の子に気ばかりつかっているわりには、そっけなく扱われて悩んでしまう」「すぐ誤解されて、警官に追っかけられることすらある」「『小さいときからまんがを読んでスーパー・ヒーローにあこがれていたんだけど、夢と現実は大違いだ。ついてないなあ』と、ぼやいている」
まあ、そのとおりなんですけど、小野耕世はここでスパイダーマンをその性格から語っているだけです。字数が少なかったのか舌足らず。1969年12月号でもういちど「スパイダーマン再説 クールなヒーローの時代」を書きました。「別冊少年マガジン」での連載開始の直前ですね。
こちらでは社会問題について指摘されています。スパイダーマンの世界には社会的な悩みや現代的な矛盾が反映されている。世代の断絶、父娘の対立、若者の絶望などがテーマとしてとりあげられる。スパイダーマンは正義のために戦おうとしますが、社会はヒーローとしての彼を無条件には受け入れない。ここに純真な若者と、冷酷な偏見に満ちた社会との戦いが始まります。小野耕世はここでホットなヒーロー・星飛雄馬とクールなヒーロー・スパイダーマンを対比させてみせました。
日本ではヒーローはマジメに戦うものでした(飛雄馬のように)。本家は悩めるスーパーヒーローとはいうものの、戦いの間じゅう軽口を言ってるような野郎です。スパイダーマンが日本人・小森ユウになったとき、スパイダーマンは戦いの中での軽口を捨て、ひたすらマジメに悩むだけの存在と変化してしまいました。しかも社会と現代の矛盾と悩みを背景にして。こうして日本版スパイダーマンはひたすら重苦しい展開を見せることになります。
以下次回。
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