マンガ編集者の本にはこういうのもあります
マンガ編集者が書いた本をもう一冊。秋山満「COMの青春 知られざる手塚治虫」(1990年平凡社)は小説仕立ての回想録です。虫プロ「COM」は1967年1月号から1971年12月号までの短期間発行、その後「COMコミックス」と名前を変えて4冊。1973年に1冊だけ復刊されています。著者は1968年11月に虫プロ商事入社。副編集長や編集長代理もしていました。当時24歳から25歳、お若い。
友人や家族から見た仕事中毒者手塚、読者から見たヒューマニスト・人格者手塚と違って、編集者、しかも「手塚治虫の個人商店」虫プロ商事の編集者から見た手塚治虫は。著者にとって手塚治虫は、編集者として原稿を催促しなけりゃならない作家であり、かつ会社のオーナー。入社早々「COM」連載「火の鳥」担当になった著者は、手塚から編集長に対し身に覚えのない苦情を言われ、イヤイヤながら手塚のところに謝りに行きます。すると手塚はそんな苦情を言った覚えないよーんと。「川崎氏(編集長)は、なにを勘違いしているのかな。困っちゃうな」
あるいは手塚のマネージャーとの打ち合わせで、その日から「火の鳥」にとりかかってもらうはずだったとき。「それはおかしいよ。こういう状況なので、今日は『COM』の仕事はできないと、ちゃんと高見沢氏(マネージャー)に言っておいたんだが……」「まいっちゃうんだよ。高見沢氏には……。僕の話なんか全然聞いていないんだもの。無能で、無責任でどうしようもない」著者にとって手塚は、人に責任をおしつけるウソツキだったようです。
編集者たちも手塚を「天才と狂人は紙一重というが、とにかくそういう人だ」といって、「怨んで」「嫌われ」「敬遠されて」「反感や憤りを持って」いたと。「COM」創刊号ができたとき、「ああ、これはひどい雑誌だ。こんなものを、虫プロ商事の名前で出版されたら、僕の名前にかかわります」編集者のことなど何も考えていません。
でも天才に人格者であることを期待するのは無理なんじゃないかしら。作者がどんなにきらわれても作品は残る。戦後マンガの巨人・手塚治虫と梶原一騎はある意味似ていたともいえます。
会社に組合ができたとき、「僕の会社なのに、勝手なことをして。これじゃ、飼い犬に手を噛まれたようなものじゃないか!」虫プロの少女マンガ雑誌「ファニー」は編集長の事故死がきっかけで休刊するんですが、「僕があんなに反対したのに(略)赤字を作って死んじゃうんだもの。商事はいつもそうなんだ。好き勝手なことをして、尻ぬぐいは僕にさせるんだから……」死者にムチ打ってます。
この調子でつっぱれば、手塚への恨みの書としてブラックな名作になったかもしれませんが、著者はもうひとつ歯切れが悪い。恋人とのラブシーンとかフーテン少女のエピソードとか不要なものが出てきて、だれます。著者は1970年6月に虫プロ商事退社。1972年「COM」から名を変えた「COMコミックス」休刊(最後のころの話はココ)。1973年虫プロ商事倒産。同年虫プロダクションも倒産します。
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