伝説の「漫画少年」カレー事件の謎
「漫画に愛を叫んだ男たち」についての文章。再録ですが、こっちにも載っけておきます。
**********
長谷邦夫「漫画に愛を叫んだ男たち」(清流出版2004年)を読み終わりました。最近は何かみんな叫んでばっかりだなあ。1954年赤塚不二夫との出会いから1992年フジオ・プロ退社、訣別まで。どう読んでも自伝なんですが、帯には「渾身の書き下ろし小説!」とありまして、なぜかフィクションであると宣言してます。確かに少しながら著者が登場しないエピソードもあります。赤塚不二夫のなけなしのスープを横山孝雄が食べてしまった話。鈴木伸一が「フクちゃん」の横山隆一に会う話。「少年マガジン」編集の内田勝が福島正美→柴野拓美→平井和正を紹介され「8マン」ができる話。
しかし、その他ほとんどのエピソードに著者が立ち会っています。この程度なら小説じゃなくて自伝としていいと思われるんですが、この態度は何か。大きな嘘が隠れているのでしょうか。
1955年「漫画少年」の廃刊が決まったとき。赤塚と長谷は学童社を訪れ、返本の山の中から石森章太郎の「二級天使」の原稿を探し出してきます。このときふたりが目撃したのがカレー事件。本の山の上で、学童社の編集者とすでに新人マンガ家として活躍していた永田竹丸が、泣き笑いながらカレーライスを顔にぶつけ合っていた、という話。このエピソードは実に印象的で、清水勲「『漫画少年』と赤本マンガ」や加藤丈夫「『漫画少年』物語」にも紹介されています。赤塚と長谷が学童社を訪れたことは間違いなく、直後に長谷が横山孝雄に送ったハガキも残っています。ところがこのハガキには「編集部の人々は全然姿をみせず」と書いてあるんですね。
カレー事件は赤塚不二夫「ギャグほどステキな商売はない」(1977年)で書かれた話。ところがこの事件について、ほかの場所では言及されたことがないのです。赤塚も永田竹丸も。赤塚は自伝をいくつか書いてますが、学童社に行き誰もいなかったとは書いてあっても、カレーは出てこない。だいたいマンガ家の永田竹丸がなぜ倒産した出版社でカレー食ってたのか?
今回「マンガに愛を叫んだ男たち」の中にカレー事件に関する2回目の記載があります。これによると学童社にいたのは編集者やマンガ家ではなく、3人のアルバイトの青年でした。そしてカレーを投げつけてたのも彼ら。
いったいカレーを食べてたのは誰か。そしてホントにカレー事件はあったのか。
ここから先は妄想です。
赤塚不二夫のエッセイの多くは長谷邦夫が書いていたことは確か。少なくとも「シェー!!の自叙伝」(1966年)、「人生破壊学」(1974年)、その他雑誌のエッセイのいくつかは長谷が書いたとされています。「ギャグほどステキな商売はない」が書かれた1977年当時、フジオ・プロは経理担当者の横領で破産に近い状態。芳谷圭児と古谷三敏が独立してしまい、赤塚はタモリら芸能人と遊び回ってた時期です。こんなとき赤塚が文章の仕事をするとは考えにくい。ちょうどこの年、全編書き下ろしのエッセイ集「笑わずにいきるなんて ぼくの自叙伝」も書かれていますが、この文章の密度を見ると口述筆記ではなく、やはり長谷の文章だろうと思われます。となると「ギャグほど」も長谷の手になるものではないか。
赤塚が「ギャグほど」でカレー事件を永田竹丸と編集者によるものと思いこんで書いたものを、のちに長谷が自身の自伝「漫画に愛を叫んだ男たち」で修正した。と考えるのじゃなくて、ふたつとも長谷が書いたもの、という可能性は十分にありそうに思えませんか。
そして長谷邦夫がこれほど日付まできっちりした自伝を書けるのは、きっと日記をつけてるんじゃないか。ならばアルバイトの青年たちを、永田竹丸と編集者に間違うなんてことがありうるのか。ましてや「カレーの皿をパイ投げのように」投げるという、一生お目にかかることはないかもしれないハデな事件です。記憶に残らないはずがない。
わたしはカレー事件そのものが長谷の創作じゃないのかとまで考えております。一度は永田竹丸と編集者を出演させていい話をこしらえたものの、矛盾に気づき今回の自伝でアルバイトの青年たちを登場させて作りなおした。とはいうものの、真実を知る者は赤塚と長谷しかいません。結局はわたしの妄想ですね。
Comments