手塚マンガで和解はいかになされるか
夏目房之介の2004年6月6日のブログはNHKBS「THE 少女マンガ!」の話題でした。ここで萩尾望都に関連して「手塚マンガの『異者との矛盾』テーマ」「手塚が最終的に『異者との和解』へと向かう」という文章が出てきます。これを読んでずっと考えていたのが、手塚マンガで和解はどのようになされたか。
ひとつの典型は主人公の死で解決されるパターン。「ロック冒険記」では、主人公・ロックの死に際の説得で地球人と鳥人の争いが和解の道へ向かいます。「キャプテンKen」でも同様に、主人公・ケンが爆弾を大気圏外へ誘導して死亡。これで地球人と火星人は和解します。アトムではどうでしょうか。「青騎士の巻」は人間とロボットの争いという大きな話のはずなのですが、ラストはアトムと青騎士の一騎打ち。アトムは負けて破壊され、青騎士も人間に壊され、ロボットの反乱はなしくずしに終わってしまいます。これらでは主人公の自己犠牲がすべてを解決するという、いかにも日本的でウエットな展開ですね。
「アトム大使」はちょっと複雑。アトムの生みの親であり、科学省長官、そして宇宙人排斥のための赤シャツ隊首領でもある天馬博士。彼が宇宙人を憎む理由は、アトムをとられそうになったから。子であるアトムが親の天馬博士を倒すことで、地球人と宇宙人は和解。ひとつの家庭の親子間の愛憎が宇宙戦争を起こし、かつ収束させるという空前絶後のオハナシです。親子関係を抜きにして考えるなら、主人公の(自己犠牲じゃない)活躍が紛争を解決するという、最もありふれたパターンともいえます。
これらの作品では確かに和解があるのですが、そうじゃない例も。
「0マン」では、地球人との闘いで数万人もの犠牲者をだした0マンたちが金星へ去っておしまい。「来るべき世界」のフウムーンもノアの箱船となる円盤で宇宙へ去ります。「バンパイヤ」も人間の前から姿を消すだけでした。一応闘いは終わるので和解といえなくもないんですが、作者は相互理解をあきらめています。
大人向け手塚マンガではどうか。「人間ども集まれ!」では無性人間の勝利に終わり、有性人間は滅びます。「地球を呑む」では男女の闘いから人類の文明が消滅して終わり。和解はなく、世界は破壊されます。
「きりひと讃歌」は特殊です。この作品で異者とは顔が変形した病人であり、いわれなき差別をうけるひとびと。ここでの和解は、ひとがひとにたいして行う差別をなくすということを意味します。一応は作品内での解決はつきますが、現実はもっと複雑であることを手塚は知っているはずです。
手塚治虫は「異者との和解」が可能であると考えていたのでしょうか。手塚マンガは、作品によって理想主義とニヒリズム・ペシミズムの間で大きく揺れているのがよくわかる。もちろん対象とする読者層によって展開を変えていたでしょうし、作劇のテクニックとして主人公の死をもってきたこともあるでしょう。ただそれよりもテーマ・展開のこの振幅の大きさこそ、手塚治虫のぬえのような複雑さじゃないでしょうか。
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