May 14, 2008

手塚先生吼える

 手塚治虫が他のマンガ家や評論家について書いた、しんらつな文章のかずかず。


●手塚治虫への弔辞(「話の特集」1966年10月号)

・だいたいマンガ批評家はおとなが多すぎる。その批評たるや、ノスタルジーか、もしくは“自分が好きだからほめる”調のものである。

・ボクにいわせれば、白土三平氏や赤塚不二夫氏や、水木しげる氏を推賞する一部批評家ごとき、なんにもわかっちゃいない連中だと思う。あの作家達は優秀な作品を生んでいるには違いないが、それは現時点での評価であって、あと五年後にはどうなっているかわからない。そんなおとなに限って、手のひらをかえしたように、「ああ、そんな作家も、いたっけねえ」というだろう。

・かつておとなにかなり高く評価されたマンガ家が、相次いで本の上から消えていった。福井英一(イガグリくん)、武内つなよし(赤胴鈴之助)、前谷惟光(ロボット三等兵)、堀江卓(矢車剣之助)、うしおそうじ(おせんち小町)、山根一二三(まんがそんごくう)等々。現在活躍している、白土、赤塚や、横山光輝、ちばてつや、石森章太郎たちでもあと何年続くかわからない。

(ま、これは、それほど子どもマンガの人気というものはうつろいやすい、という論旨で書かれた文章ではあります。ただし評論家を切ると同時に、同時代のマンガ家にも矛先が向かってます)


●まんが賞の審査をして……(「COM1967年3月号」)

・ところで、なさけない話だが、今年ほど、まんがの不作の年はなかった。

・じっさい、小学館のにも講談社のにも、きわだって賞をあげようといえる人がひとりもいなかったのである。

・(講談社の賞では)審査委員十人が集まって、検討したのだが、これという絶対的な票がぜんぜん集まらない。しまいに、恐怖まんがの楳図一雄(ママ)にやったらどうだ、という冗談まで出るしまつである。

(この時代の楳図かずおを評価することは、手塚にとって「冗談」であったようです)

・石森氏のはみんなそれぞれ水準作だが、これという代表作がない。つまり安打はつづく三割打者だが、決定打がない選手みたいだ、と阿部進センセイ。ことに昨年の候補作である「サイボーグ009」は、石森氏の作品として代表的なものとはいえない。「ミュータント・サブ」は小粒すぎる、という評。

(すでに「009」は東映動画で劇場アニメ化され、かなりの人気がありました。ただしこの時点で少年マガジン版「009」は、まだあの「ジョー! きみはどこにおちたい?」という有名なラストにたどりついていません)

・川崎のぼるのは、講談社側がとくに「巨人の星」を推したのだが、なにせ原作がべつの作家であるというハンディがある。

・小学館のまんが賞はもっとひどくて、予選で候補にのぼった十人の作品のうち、圧倒的に審査員の票を集めたのは白土三平の「忍者武芸帳」だったが、これが、六年前の作品だということを、審査員がだれも知らなかったという情ない始末で、昨年一年間の代表作、という条件から脱落した。そのほかの候補作品は、ガタッと落ちてしまい、石川球太の「原人ビビ」、ムロタニ・ツネ象の「ビリビリビート」などあったがけっきょく今年は“受賞者なし”という結論になってしまった。

・けっきょく、ぼくや、馬場のぼる氏や、福井英一氏が『漫画少年』を中心にかいていた時代以後、ほとんどユニークな新人は出なかったということだ。

(ま、賞の選評というのは苦言を呈するというか、きびしい言葉が並ぶものですけどね)


●最近のまんが評論に思う(「COM」1967年6月号)

・政治評論、文芸評論、音楽評論、評論の評論が存在するジャーナリズムだから、まんがブームに則して、まんが評論が生まれても、おかしくはないわけなのだが、一言も二言ももの申したい点は、これらの評論が、お話にならぬくらい貧弱な資料をもとに無責任に書かれていることだ。

・しかも、加うるに、純粋に客観的な視野から書かれたものがほとんどなく、たいてい筆者ご自身が、マニアをもって任じ、熱っぽく論じていることである。

・(まんがマニアによる)これらの評論は、内容がかなり偏重しており、最近の二、三の評論でも、長編児童まんがにかなりのスペースをさいているのを見ても、調査や分析の方向に、かなり独善的な欠点があるのはいなめない。

(この時代にマンガプロパーの評論が出現し始めましたが、彼らが評価したのは劇画や「ガロ」。手塚先生はこれがずいぶん気に入らなかったらしい)


●児童まんがひとくさり(「COM」1967年8月号)

・多分、いまのままでは、外国へだしても恥ずかしくないストーリーまんが、劇画の作家はひとりもいないだろう。

・絵にもなっていない絵ばかりでは、どうしようもないじゃないの。

・若い人たちが、まんが勉強にてっとり早く、先輩まんが家のまねをすることからはじめて、デッサンのデもしないことにはガッカリだね。

・というのは、先輩そのものが、ろくに絵の勉強もなしに、ふらーっと売れっ子になってしまったから。


●まんが家一言診断(「COM」1967年9月号)

・まず話題の劇画だが、デッサンを正確にやっているのは白土三平氏のみで、あとの御大連は絵がひどすぎる。さいとう・ゴリラ氏と川崎のぼる氏は、自己流だがまだいい、が中には、デッサンをもう一度やりなおしてもらいたい御仁がそうとういるのだ。

・それから白土センセイに一言申す。「カムイ伝」は、構成がよいので救われているが、「ワタリ」は荒れている。

・永島慎二さん。あなたにはあなたの個性が──うらやましいほどの個性があるのになぜはやりの画ふうをまねたり、高倉健のような顔がでてくるヤクザものを描くんですか?

・貝塚ひろし氏。まっとうなスポーツものが本命である貴兄が、新しい分野にとっ組む気持ちはよくわかる。しかし「どろぼっ子」は勇み足だったようだ。

・ちばてつや氏の「ハリスの旋風」はりっぱな作品だが、かなりマンネリズムなので、ひとつ稿を新たにしたほうがよくはないか?

・赤塚不二夫氏の「おそ松」のロングランには敬意を表するが、あまりおとなを意識しすぎると子どもの気持ちからはずれていくからご用心。

・石森章太郎氏に申し上げたいことは、SF小説にしろ、ほかのものにしろ、アレンジしても、ナマすぎるので、どうもイミテーション(まね)に見えることが多いのだ。

・望月三起也氏のは、どうかすると、ヤクザっぽいのがゴロゴロ登場するときがあるが、そうなると、ガタッと東映の深夜興行みたいにおちるのでさけたほうが質的に安全だ。

・久松文雄氏。原作つきのものを、もうそろそろ敬遠して、あなた自身のアイデアの傑作を見せてほしいがいかがだろう。

(現役マンガ家の文章として、ここまで過激なのはめずらしい)


●「COM」創刊一周年を迎えて(「COM」1968年1月号)

・少なくとも表面上は、まんが万々歳の年を迎えようとしている。だが、ほんとうはどうだろうか。うわべだけははでで、中身のない、きざなえせまんがのはんらん。それに迷わされての、安易で、ひとりよがりな作品ばかり描くまんが家志望者のむれ……危険なのだ。もっときびしく、つらいまんがの道をきみたちは知らなければならない。


●石子順造氏への公開状(「COM」1968年2月号))

・あなたが昨年末に、ある週刊誌に書かれた記事──その大上段にふりかぶった刀は、かなり的をはずれて、よこっとびに石へぶつかったような感じがします。あなたは、刀の使いかたを知らなさすぎた──というよりズブの素人だったことから起こった間違いでしょう。あえて、間違いだったと申し上げるのは、インテリであるあなたが、よもや本気でこれを書かれたのではないと思いたいからです。でももし本気だったとすれば、あなたはどうも、刃物を持つには、未成年すぎたように思えます。

・あなたにいま必要なのは、評論家としての資格です。資格というのは、まず一部の劇画やノベルティ・まんがしか、しゃべれないのではなく、「めざまし草」あたりからじっくり、一つのこらずまんがをお読みになることです。

(「めざまし草=目不酔草」とは森鴎外が創刊した雑誌。長原止水が風刺的なマンガを寄稿したことで知られてます。ってこんなものまで読めとはちょっとムチャです)


●火の鳥と私(虫プロ版『火の鳥黎明編』1969年12月発行)

・あと何年続くかわかりませんが、どうか「火の鳥」の評価は全編が完結したあとで、もう一度全部読みかえしていただいてからのことにしていただきたいと思います。そうでなければ、ご批判に対してお答えすることが困難な場合が多いからです。

(40年前のこの文章はわたしに強い印象を残しました。えっ、途中で感想言っちゃいけないの? 手塚先生、つくづく批評されるのがイヤだったようです)


●劇画について(「COM」1968年4月号ふろく「弁慶」)

・なによりも劇画に苦言を呈すれば、白土三平氏、つげ義春氏、水木しげる氏などの作品を除いて、内容が一般に希薄で安易なアクションでページを埋めている作品が非常に多いことだ。


●ささやかな自負(「児童心理」1973年9月号)

・ところで、漫画は著しい進歩をとげて──と書きたいところだが、残念ながらそうは思えない。しいていえばぼくが戦後漫画の開拓をしたあとは千篇一律のごとく、ぼくの手法の踏襲でしかなかったと思う。漫画ブームが何回か来、漫画世代が育ったが、漫画は劇画やアンチ漫画と称するものを含め、ほとんど新しい改革はなされていないのである。

・もし漫画に新革命の火の手が上がっていれば古株のぼくなどとっくに引退していただろうが、いまだに注文が相次ぎ、月産数百ページを書きとばし読者も支持してくれているとなると、うれしいがいささかさみしい気もする。いったい三十年間漫画家はなにをしてきたのだろうか。

・武内つなよし、堀江卓、桑田次郎、田中正雄、高野よしてる、白土三平、つげ義春、森田拳次……その他もろもろの売れっ子たちが第一線から消え、あるいは引退し、マスコミから忘れられて行った。そして今、書きまくっている新しい作家たちもいずれそうなる運命だろう。それが所詮マスコミ文化の宿命であろう。だが、それは漫画にとって悲劇だ。も一度漫画に新しい息吹きを吹き込まねばならない。そして、それのできるのはぼくしかないと思っている。


●「火の鳥」のロマン(「旅」1983年1月号)

・マンガのファンである三島由紀夫氏が、「火の鳥」を読んで、A誌に、
「手塚治虫もついに民青の手先となりはてたか」
と批判した。ぼくは、ぼくの意図をはっきり知ってもらわねば困ると思って電話をかけた。
「とにかく最後まで読んでから批評してほしいですね」

・だがその三島氏も最後まで読むことができなかった。現在まだ連載が完結していないからである。

(これほど手塚が「最後まで」にこだわっていた「火の鳥」ですが、残念ながら完結を見ることはできませんでした)


●カミソリ感覚(「ユリイカ」1988年8月臨時増刊「総特集大友克洋」)

・大友さんを激賞する人の多くは、センスの新しさ、SF感覚、迫真力と仕掛けなどについてである。ぼくは同業者の立場から、絵柄についてホメる。内容につていては、新しい時代感覚は若い人なら誰でも持っているから、そのセンスがいつ枯渇するかは年月をまたなければならない。評価はその時にこそきめるべきである。しかし絵のタッチについてはオリジナリティに溢れていれば、それは生涯の宝物である。大友さんはその宝物を両手一杯に持っている。

・貴方が四〇、五〇歳を越しても枯淡の境などにはいらずにこのカミソリ感覚を保つことができれば、ぼくは心から脱帽します。ここ十年、いや、「アキラ」以後が貴方のタッチの真の勝負どころです。

(大友克洋特集の巻頭に掲載されたこの文章、当時読んだわたしは、いったいこれ誉めてんのかどうなのか、ずいぶん首をひねったものです)

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May 12, 2008

『イキガミ』再考

 パラレルワールドの現代、日本。国家繁栄維持法は、国民に命の尊さを認識させるため、無作為に選ばれた国民を1000人にひとりの確率で死亡させるという法律。小学校入学時に注射されたナノカプセルが肺動脈にひそみ、18歳~24歳で破裂して若者を突然死させる。本人にその死亡予告証=「逝紙」が届くのは死亡の24時間前です。

 主人公は死亡予定者に「イキガミ」を届ける公務員。24時間後の自分の死を知った若者たちは、どのような行動をとるのか。主人公はそれを目撃してゆきます。

 これが、間瀬元朗『イキガミ』の設定です。

 かつてわたしは『イキガミ』について批判的な感想を書いたことがあります。この作品に対するわたしの最大の不満は、登場人物の視線が国家やシステムに向かわず、彼らの行動が自分の周囲だけで完結している点でした。

 わたしが前の文章を書いた時点で、作品は3巻までしか刊行されていませんでしたが、最新5巻(2008年小学館、514円+税、amazonbk1)が発売されました。

 今回の5巻では、風向きが変化してきたようです。5巻のエピソードはふたつ。

 第9話では、イキガミをもらった若者は、死ぬまでの間に、(1)「良いこと」をして、(2)自分の生きた証を残し、(3)さらにイキガミのシステムを批判します。(1)(2)はこれまでどおり、いつもの展開ですが、(3)は、この物語世界でほとんど初めてなされたシステム批判でしょう。

 さらに第10話では、システムを妄信する者の行動が、システムに反してしまうという皮肉なオチ。おそらくこれまでのお話中、物語設定を利用してもっともトリッキーな展開を見せます。

 おお、物語はやっと、国家やシステムを敵としてとらえだしたようです。

 ところが。

 今も本のカバーには、「魂揺さぶる究極極限ドラマ」というコピーがあります。そして5巻のオビには、「いま、一番泣ける物語!!!」と書かれています。出版社はあいかわらず『イキガミ』を、死を目前にした人間の、感動のドラマとして売ろうとしています。

 このコピーって内容とずれてきてないかい。第9話はともかく、第10話は「泣ける物語」じゃないよなあ。

 すでに物語内部はイキガミ否定に向かっているにもかかわらず、本の広告は、イキガミが引き起こす「感動」を看板にしている。

 この明らかな分裂は、物語内部のホンネとタテマエの関係が、そのまま現実の世界にスライドしてきたような印象です。つまり作者=イキガミに疑問を抱いている登場人物。版元の小学館=システムを推進する国家。

 意識してなされているのではないはずのこのメタ構造は、作品内容から作品外に飛び出し、その売られかた、読まれかたを考えさせることになります。

 この5巻が物語の転換点となるのか、再度揺り戻して「感動」や「涙」を売りにし続けるのか、今後が注目です。

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May 10, 2008

第12回手塚治虫文化賞発表

 本日の朝日新聞で、第12回手塚治虫文化賞が発表されました。

●マンガ大賞:石川雅之『もやしもん』
●新生賞:島田虎之介(これまでに刊行されてる作品は『ラスト.ワルツ』『東京命日』『トロイメライ』)
●短編賞:大島弓子『グーグーだって猫である』
●特別賞:大阪府立国際児童文学館

 ちなみに大賞の候補作はこちら。

○吉田秋生『海街diary 1 蝉時雨のやむ頃』
○よしながふみ『大奥』
○五十嵐大介『海獣の子供』
○矢沢あい『NANA』
○柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』
○石川雅之『もやしもん』
○真鍋昌平『闇金ウシジマくん』
○あずまきよひこ『よつばと!』
○あさりよしとお『るくるく』
○山本直樹『レッド』

 審査員は、荒俣宏、いしかわじゅん、印口崇、香山リカ、呉智英、萩尾望都、藤本由香里、村上知彦です。

 わたしの予想がコレ

 オオハズレでありました。当てにいったのに、だめじゃん。石川雅之は歴代受賞者中最年少ですね。おめでとうございます。

 今回の手塚賞の大ヒットは、大阪府立国際児童文学館に賞をあげたこと。このタイミングはすばらしい。橋下知事は、よーく考えるように。

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May 09, 2008

連休読書

 この五月の連休中に読んでたマンガは、山上たつひこと手塚治虫なわけですが。

●山上たつひこ『神代の国にて 単行本未収録傑作選2巻』(2008年小学館クリエイティブ、1600円+税、amazonbk1

●山上たつひこ『原色日本行楽図鑑 THE VERY BEST OF Tatsuhiko Yamagami 4巻』(2008年小学館クリエイティブ、1700円+税、amazonbk1

●手塚治虫/みなもと太郎『手塚治虫WORLD 少年マンガ編 これがホントの最終回だ!』(2008年ゴマブックス、1300円+税、amazonbk1

●手塚治虫『おもしろブック版ライオンブックス』2巻(2008年小学館クリエイティブ、3600円+税、amazonbk1

   

 しかしあれですなあ、マンガの一線から退いて長い山上たつひこや、没後20年になる手塚治虫の新刊を、この時期になっても読めるとはねえ。現代作家以外だけ読んでてもマンガ生活できちゃいますね。

 それはともかく、四冊とも楽しく読みました。山上たつひこ『神代の国にて』は、かつて読んだことのある作品もあって懐かしい。山上たつひこがギャグ作家になる以前も以後も、前衛のひとであったことがわかります。

 『原色日本行楽図鑑』には、マンガだけじゃなくてエッセイが多く収録されてまして、これがまた虚構エッセイとでも言いますか、エッセイに書かれている内容がすでに虚構っぽいだけじゃなくて、作者の感想そのものも虚構っぽくて、いったい何を信用してよいやら、という文章です。これおもしろいなあ。

 みなもと太郎編の『手塚治虫WORLD 』は、むかしJICC 出版局から刊行されてたシリーズ『いきなり最終回』の、手塚治虫版。ただし手塚が単行本で描き直す以前の、雑誌版最終回を収録してくれてます。

 おどろいたのが『ジャングル大帝』の最終回。大空にレオに似た雲がうかぶ感動の名シーンがあるのですが、これ雑誌版では、1ページを12分割した、小さな小さなヒトコマだったのですね。わたしが読んだ『ジャングル大帝』は小学館ゴールデンコミックス版でしたが、すでにこのコマは1ページ全部を使ったものに修正されてました。

 みなもと太郎は「レオの特大ゴマは空々しく映る」と書いてますが、このゴールデンコミックス版は後年の講談社全集版よりケン一の顔の修正などが少ないですし、わたしとしてはここでの大きなコマが好きです。あれは(めずらしく)いい修正だったんじゃないかしら。

 『ライオンブックス』2巻では、「双生児殺人事件」が読めました。後半、他人が代筆してますが、ちょっと絵がアレすぎて誰が代筆してるのかよくわかりません。主人公の顔だけ手塚が描いた絵を切りはりしてます。さすがにこれでは、ということになったのでしょう。容疑者のひとりが女ことばをしゃべったり男ことばをしゃべったり、オマエは男か女かどっちやねん。確かに珍本です。

 わたし、2001年に『手塚治虫漫画大全集 DVD-ROM 』を買ったときには、これでもう手塚の本は買い納めだあ、と思ってたし、そういうふうにウチの同居人にイイワケしてたのですが(なんせ12万円でしたから)、なんのなんの、その後も手塚の本っていくらでも発売されます。カラー復刻なんかされちゃうと、これまた買ってしまうのでありました。

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May 07, 2008

マンガ編集者列伝

 長谷邦夫『マンガ編集者狂笑録』(2008年水声社、2800円+税、amazonbk1)読みました。

 実在のマンガ編集者を主人公にした連作小説。

 登場する編集者たちは、長井勝一、加藤謙一、松坂邦義、丸山昭、壁村耐三、峯島正行、内田勝、宮原照夫、長野規、長崎尚志。

 「たけくまメモ」に、「共犯者」としての編集者、という名コピーがありましたが、本書に書かれたマンガ編集者たちは、まさにこれ。新しいマンガを作家と共謀してつくりあげるために、この世とあの世の境界に立っているひとびと。彼らの記録であります。

 著者は評伝じゃなくて小説であると強調しています。確かに一人称で描かれる部分も多く、主人公であるそれぞれの編集者の内面に思いっきり踏み込んだ記述ですから、小説の形式でなければ書けなかっただろうと思います。人間同士の確執もあって、長井勝一と白土三平、内田勝と宮原照夫のそれなど、よくぞ書いたなあ、という印象です。

 『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004年清流出版)も小説という形式でしたが、本書のほうがかなり技巧的になってて、フィクション度数が上がってます。長井勝一の章にトリアッティの話が出てきたりしますからね。巻末の参考文献に、ウチの「遠くから遠くまで」が記載されていて、これには驚きましたです。

 小説ですから、ここに登場するのは著者が出会ったそれぞれの実在の編集者でもあり、かつ全員が著者自身でもあるという複雑な存在。わたしはむしろ後者として読みました。登場人物みんながマンガを愛していて感動的ですが、これすなわち、著者の心情の投影です。

 ラストに登場するのが長崎尚志。ノスタルジーだけの本ではありません。将来のマンガ編集者像というのはどうなるかわからない。著者の目はさらに未来を見ています。

 本書でおもしろかったのが丸山昭の章と、内田・宮原の章。やっぱ著者がもっとも知ってる時代とエピソードだからでしょうか。

 で、気になったのは松坂邦義の章です。わたしこのかたの名前、知らなかったのですが、貸本マンガの名編集者として「貸本マンガ史研究」にインタビューが掲載されたりしてます。

 1971年から1972年にかけて、虫プロから「ベストコミック」という名前のB5判のマンガ再録雑誌が刊行されていたことがあります。ジョージ秋山、ちばてつや、手塚治虫、川崎のぼる、水木しげるらの特集号や、複数の有名作家の短編を集めた号などがありました。この雑誌、名作ぞろいでずいぶん楽しませてもらいました。「ぼくらマガジン」に連載された、ちばてつやの壮絶に救いのない話『餓鬼』が初めてまとまって読めたのも、この「ベストコミック」。

 この雑誌を編集してたのが、松坂邦義でした。長谷邦夫はベストコミックの表紙イラストを描いたこともありますので、ここが接点なのかしら。

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May 04, 2008

江戸時代のモノクロマンガ『奇想の江戸挿絵』

 辻惟雄『奇想の江戸挿絵』(2008年集英社新書ヴィジュアル版、1000円+税、amazonbk1)読みました。

 著者はかつて『日本美術の歴史』(2005年東京大学出版局)という日本美術通史で、おそらく初めてマンガとアニメを美術としてとりあげたかた。「異端」であった若冲や国芳を再評価した『奇想の系譜』(2004年ちくま学芸文庫、原著は1988年)は有名です。

 「読本挿絵の中から現代の読者にアピールしそうなものを選んで」つくられたのが本書です。「草双紙」(=子ども向け絵本)がおとな向けになったものが「黄表紙」や「洒落本」。これが寛政の改革で弾圧され、代わって登場したのが「読本」だそうです。

 「読本」は挿絵入りの小説で、妖怪変化や幽霊がいっぱい登場します。本書は奇想に満ちた読本の挿絵を紹介したものです。読本の代表的作家が馬琴と京伝、代表的絵師が北斎と豊国。本書にも北斎の絵が多く掲載されていますが、いやとくに北斎、すごいわ。

 本書には大友克洋とか水木しげるの絵の引用があったり、コマ割りという言葉が登場したりしてて、現代の読者向けにマンガを意識した文章とつくりになっております。その記述、ちょっと違うんじゃない、と思うようなところもあるのですが、読本挿絵がマンガの遠いご先祖であるのは確かなようです。

 現代日本マンガは、モノクロで印刷されるという特殊性から、モノクロ表現がどんどん進化しました。近年はとくにスクリーントーンを使ったいろんな技が異常に発達しました。

 対して読本挿絵もモノクロ木版。その表現にはマンガと似たものが存在します。たとえば薄墨を使った重ね刷りは、現代のスクリーントーンもかくや、という表現を可能にしています。見開き二ページでどーんと薄墨で幻想の地獄を描き、それに重ねて黒で描かれたリアルな人物がこの地獄をながめている。

 薄墨で暴風を描く、飛んでゆく鉄砲の弾のケムリを描く、妖怪が吐く毒気を描く。こんな薄墨の使い方は、モノクロという特殊性と、「動き」を絵で表現しようとした結果ですね。

 本書に登場する妖怪変化はもちろん楽しいのですが、もっと目を見張るのがこれら「動き」の表現です。光や爆発、嵐や大雨を、江戸時代のモノクロ木版はどのように表現したのか。これは一見の価値あり。書影のカバー絵は、わかりにくいですが、北斎の描いた迫力満点の爆発シーンです。

 「挿絵」ですからマンガの「コマ」のように絵の枠があることが多いのですが、登場人物たちがけっこうこのコマから飛び出している。これはマンガでもよくやりますが、立体を意識させる表現です。また現代のマンガと同様、ページをめくることを意識して描かれた見開きページとかも紹介されています。

 「モノクロ印刷」「物語」「絵」「本」という縛りがあっていろんな表現が誕生した、という意味で、読本とマンガはずいぶん似ているようです。いやおもしろい本でした。

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May 01, 2008

いやお若い『ぼくたちのアニメ史』

 辻真先『ぼくたちのアニメ史』(2008年岩波ジュニア新書、780円+税、amazonbk1)読みました。

 最近の著者は、アニメ脚本家よりむしろミステリ界の大御所、と言ったほうがとおりがよいのでしょうか。わたしもかつて、『アリスの国の殺人』や薩次・キリコシリーズなどを楽しく読みました。本書と同時期に刊行された、牧薩次名義『完全恋愛』の評判も上々のようです。

 著者は1932年生まれ、テレビアニメ草創期から脚本家として活躍。もう本人でもわからないくらいの数の脚本を書いてらっしゃいます。「ジャングル大帝」も「アタックNo.1」も「キックの鬼」も「タイガーマスク」も「ゲゲゲの鬼太郎」も「コン・バトラーV」も、第一話の脚本はぜーんぶ、辻真先です。

 その著者が、個人的経験をとおしてアニメ史を概観したのが本書です。裏話も豊富ですが、アニメ史と題したからには、できるだけ客観的に記述するようにこころがけられています。

 本書では作品はひとである、と考えられています。作品を語ること、すなわちプロデューサーや脚本家を含め、スタッフを語るというスタンス。ですから本書にはアニメにかかわったひとびとの名がいっぱい登場します。そして著者による作品評価の基準は、「よくわかるが面白くない作品より、わからないが面白い作品のほうがずっといい」です。

 しかしまあ、なんつってもお若い。文章も若々しく、とても76歳のかたの文章とは思えません。枯れてませんねえ。しかも著者が脚本書いてたころの昔のアニメだけじゃなくて、最近のアニメにもくわしいったらない。

 わたしなんぞはもうアニメは門外漢としてたまにしか見なくなってますが、それは(1)アニメの数が多すぎる、(2)テレビアニメは一本だけ見たんじゃわかんないからシリーズ全部見なきゃなんない、(3)その結果アニメを見るのにはすごく時間がかかる、(4)アニメばっかり見てたらほかになんにもできなくなるよー、という理由だからです。

 ですからアニメをきちんと見てるひとたちには頭が下がるのですが、辻真先も、いったいどれだけ見てるんだ、というほどアニメ見てます。どうやって時間つくってんだろ。つくづくアニメを愛してるんですね。

 かつて手塚治虫文化賞にアニメ部門をつくろうという考想があったそうで、著者のところに朝日新聞が相談に来たそうです。しかし4クール52本のテレビアニメを見続けたひとだけが優劣を下すことができる、というのが著者の考えです。

 本書はアニメガイドとして利用するのも可能なつくりとなっております。この本読んだおかげで、わたしもいろんなアニメが見たくなってしまいました。

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April 28, 2008

ストーリーとプロットの違い

 ストーリー、そしてプロットという言葉はよく聞きますし、わたしも使ってるのですが、このふたつの違いは何か。みなさんは、ぱっと答えられるでしょうか。

 実はこれについてわたしが意識したのは、野田昌宏『スペース・オペラの書き方』(1988年早川書房)を読んだときでした。この本ではストーリーとプロットの違いについて、SF作家、今日泊亜蘭が自作を語る形で、このように述べられています。

 そりゃそうだよ、お前、いいかね、『光の塔』で言ゃぁ……だ。
 未来の連中が、自分たちの悲惨な現状をなんとかしようと、原子力を乱用してその原因を作った過去の歴史を改変しようと狙って未来から攻め込んできやがって……と、
 これが『光の塔のプロットよ。

 それに対して、な。
 まず、本の冒頭で主人公が木星から帰ってくる宇宙船のなかから窓外に奇妙な飛び火を見る。
 そして地球に帰って来てから渋谷で原因不明の絶電現象に出会わす。
 それから、新造の木星向け宇宙船が展示現場から消える、東海原子力研究所の壁のなかから窓外なんとも知れないシケた奴が現われる……。
 これらがすべて伏線となって……。(略)そいつらの正体はなンと未来からの侵攻軍だった……と、
 これが『光の塔のストーリーだ。

 この本には「プロットからストーリーへ」という章もありましたし、これを読んだわたしは、プロットとは設計図のようなものと理解しました。そしてストーリーとは、そのエピソードをどの順で語るかを含めた最終仕上がりなんだろうなーと。

 つまりミステリを例にあげるとわかりやすいのですが、AとBが出会い、AがBをトリックを使用して殺してしまう。探偵が登場して謎を解きAを逮捕する。これが物語の設計図であるプロット。

 この同じ設計図を使用しても、AとBの出会いから語り始める、殺人の場面から始める、探偵に依頼があるところから始める、事件後の裁判から始める、とまあ、仕上がりは無数に書くことが可能なわけで、こっちがストーリー。ストーリーのラストにクライマックスの盛り上がりが来るように作家はいろいろと工夫するものである。とこのように、20年間ずっと思っておりました。

 このつもりでひとと話してても、別に混乱しなかったしなあ。ウチの同居人もこんな感じで理解してたし。

 とーこーろーがー。
 
 Wikipedia をのぞいてみると、こんなことが書いてあるじゃないですか。

物語の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたものがストーリーであるのに対して、その出来事を再構成したものをプロットと呼ぶ。プロットは時間軸に沿っているとは限らないが、出来事の因果関係を示している。

 あれれ? これってわたしが思ってたのとまったく逆じゃん? わたしはずっとまちがっていたようです。どうもスミマセン。上の文章はタワゴトだと思って忘れてください。

     ◆

 そこで読んでみました。『E・M・フォースター著作集 8巻 小説の諸相 Aspects of the Novel 』(1994年みすず書房、中野康司訳)。

 ご存じ『眺めのいい部屋』『ハワーズ・エンド』を書いたイギリスの作家フォースターが、1927年にケンブリッジ大学でおこなった連続講義をまとめたものです。例が多く、平易な文章でたいへん読みやすいです。

 さてフォースターによると、ストーリーはこのように定義されます。

ストーリーとは、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものである。

 これはまあ、昔からの言葉の使い方、「ストーリー=物語」なんですからそのとおりかなと。いっぽうプロットという言葉も、もちろん昔から存在していました。

 有名なのは「アリストテレスのプロット」。アリストテレスは、劇のプロットには「葛藤、運命の転換、解決」という三段階が必要だと述べました。ただし、フォースターはこれを、あくまで演劇においての法則であり近代小説にはあてはまらない、としりぞけています。

 フォースターによると、ストーリーが「下等な段階の技法」であるのに対して、プロットは「もっと高級な技法」です。

プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただしプロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点が置かれます。

 フォースターの出す例がこれ。「王様が死に、それから王妃が死んだ」=ストーリー。「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」=プロット。「王妃が死に、誰にもその原因がわからなかったが、やがて王様の死を悲しんで死んだのだとわかった」=もっと高度なプロット。

ストーリーなら、(読者は)「それから?」と聞きます。プロットなら「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。

 フォースターによると、プロットは作者が作品に仕掛けたたくらみです。プロットという表現手段を使うと、謎で読者を引っ張り、ラストシーンでそれを解決して読者をあっと驚かせることも可能になるのです。

 ただし「あらかじめ小説のすべてを決定し支配するようなプロット」は、お話の害になることもありえます。あまりに厳密に作り上げられたプロットは登場人物の自由な行動を制限し、「登場人物のヴァイタリティーはプロットに吸い取られ干からびて」しまうこともあるからです。

 フォースターは、小説の主要な要素を「ストーリー=時間」「登場人物」「プロット=論理」であるとしました。

     ◆

 日本ではどうでしょうか。

 かつて自然主義小説の時代に、プロット無用論がとなえられたことがあったそうです。作者の小さな主観から作られたプロットは、作品の真実を傷つけるだけだと考えられました。

 たしかに意識の流れのまま順に記載されていくタイプの小説などには、プロットは必要ないかもしれません。

 少し古いのですが、丹羽文雄『小説作法』(1958年文藝春秋新社)に「プロット(構成)に就いて」という文章があります。

プロットとは、ふつうに筋と訳されているが、この訳は誤解されるおそれがある。脚色、結構、骨組、機構と訳すひともあるが、構成と訳しておいたほうが無難である。むしろ筋書ともちがう。私は、小説の運命はこの構成によって決定するものだと解している。

 丹羽文雄は、小説を物語性小説(ストーリー重視、時間連続重視)と構成性小説(プロット重視、因果関係重視)に分け、近代小説は後者であると述べています。

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 エンタメ、とくにミステリ要素を含んだものになりますと、プロットはもう存在してアタリマエ。というかプロットのないミステリなどは想像もできません。

 門下に多数の作家を輩出している山村正夫による小説作法も読んでみましたが、「ストーリー作りのプロットが決まったら」などという表現があります。

 ミステリのような謎と論理が主体の作品では、ストーリーとプロットを分けて考えること自体無意味なのでしょう。ストーリーとプロットは不可分の存在で、どうやら別の言葉として語られてはいません。

 ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方 How to Write Best Selling Fiction 』(1996年朝日文庫、大出健訳)という本がありますが、ここでクーンツはこう書いています。

世の中にプロットのない小説ほどおかしなものはない。なんといってもプロットは小説の最大必要条件のひとつである。(略)
ときたま、プロットのすべてを、登場人物たちの動くままにまかせるべきだと信じている批評家やもの書きに出くわすことがある。(略)
ばかげた話である。

 まさにプロット至上主義と言いますか、クーンツは、登場人物よりも、テーマよりも、プロットが大切と考えています。プロットこそ、ストーリー・ラインを登場人物から作家の手にとりもどすための手法であると。ここでいうプロットとは、ストーリーを論理的に組み直した全体の構成のことのようです。

もしも作家が登場人物たちに全権をゆだねてしまったら、知性という冷静で確実な案内人なしに、作品を書くことになる。その結果は、現実の世界に起こる多くのできごとと変わらぬ、形も意味もない小説ができあたり、そんな小説が多くの読者をがっかりさせるのは目に見えている。

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 ところが、プロットを重視しないエンタメ作家もいます。

 スティーヴン・キング『小説作法 A Memory of the Craft 』(2001年アーティストハウス、池央耿訳)によりますと、キングはこんなことを書いています。

私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話。この三つで小説は成り立っている。
構想はそのどこに位置するかと問われれば、私としては、そんなものに用はないと答えるしかない。(略)構想に重きを置かない理由は二つある。第一に、そもそも人の一生が筋書きのないドラマである。あれこれ知恵を巡らせて将来に備え、周到に計画を立てたところで、その通りにいくものではない。第二に、構想を練ることと、作品の流れを自然に任せることはとうてい両立しない。ここはよくよく念を押しておきたい。作品は自律的に成長するというのが私の基本的な考えである。

 「構想」が原語でどう表現されているのかは調べていませんが、これは「プロット」と同義で使用されていると思われます。クーンツの意見に真っ向反対しているばかりか、フォースターらの小説観にもケンカ売ってます。

 ただしキングは、むっちゃレアな例じゃないでしょうか。永井豪などと同じく、結末を決めずに書き出すひとのようですね。

 おもしろいのは、クーンツもキングも、そしてかつてのフォースターも、プロットと登場人物を対立する存在としてとらえているようです。プロットは登場人物を縛り、登場人物はプロットを破壊しようとするもの。

 よく登場人物が勝手に動き出すと言われますが、それをコントロールするのがプロット。どの程度コントロールするかは、作家の考え方で異なっています。

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 というわけでプロットとは、ストーリーを構成するエピソードを、論理的関連づけのもとで再構成したもの。登場人物の暴走を御するための作者の手段、ということになります。

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 さて、マンガではどうか。

 マンガのシナリオのお手本になるのは、映画や演劇のシナリオですが、とくに映画では「箱書き」という用語があります。箱書きとはシナリオのもとになる設計図です。これすなわちプロットを意味しています。

 映画は二時間程度で必ず終了するという制限を設けられています。さらにシーンとシーンの時間間隔や距離間隔も自在に変更でき、どんどん複雑にすることも可能ですから、観客の理解を助けるためにも、プロットのないストーリーは存在し得ません。

 それぞれのエピソードは時間配分も計算され、これがつながれて映画を形成します。映画では、ストーリーはプロットとほとんど同義でしょう。

 むしろ完成した映画から、もとの時系列ストーリーを思い浮かべるのに苦労したりして。クリストファー・ノーラン監督の「メメント」なんかねえ、あそこまでストーリーが分解されちゃうとねえ、もうタイヘン。

 映画シナリオをお手本にするマンガでも、ほぼ同様です。ストーリーを考えることはプロットを考えることです。

 ですから少なくともマンガを語るときには、ストーリーと言ってもプロットと言ってもどっちでもいいのじゃないかと。適当ですけど、これでオッケーのような気がします。

 でも、ひとが使ってる「ストーリー」「プロット」は、どんな意味なのか、やっぱ知っておかなきゃなりません。わたしはクーンツの本、昔から持ってましたけど、今回あらためて理解できたような気がしたのでした。

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April 26, 2008

王道を歩く『少女ファイト』

 わたしが今もっとも続きを楽しみに待ってるマンガ、日本橋ヨヲコ『少女ファイト』4巻(2008年講談社、590円+税、amazonbk1)が発売されたわけですが。

 と思ったら、早々に講談社から文字欠落のお詫びとかが出たりして。こういうのどのくらいのひとが交換するのかな。

 それはともかく4巻では、前巻でのベットバレー(アンダーグラウンドでおこなわれるバレーボールの賭け試合)を受けて、主人公たちが謹慎することに。

 おお、これは、主人公が禁じられた私闘や野試合をして、師匠から破門される、のちにゆるされる、そして主人公が成長する、という黄金のあの展開だったのですな。

 梶原一騎作品のあれこれ、いやいや、もっとさかのぼって赤胴鈴之助やイガグリくんも、みんなこれは経験してきました。それどころか戦前の姿三四郎がすでにやってましたからね。

 私闘が禁じられてるのはわかってるけど、義や情のためにこの闘いからは逃げるわけにはいかない。闘うかどうか、それ自体に主人公が葛藤するわけで、こういうのが、いかにも日本人好みなのでしょう。

 こういう王道というか不滅のパターンが、今もくりかえし描かれるのは楽しいなあ。

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April 23, 2008

村野守美×池波正太郎

 こういう本が刊行されてます。

●村野守美/池波正太郎『池波正太郎江戸絵草子 女ごよみ』(2008年ホーム社/集英社、933円+税、amazonbk1
●『同… 男ごよみ』(2008年ホーム社/集英社、933円+税、amazonbk1

 

 村野守美が池波正太郎作品を描きました。江戸を書かせてこれ以上はないという名人の作品を、手練のマンガ家がマンガ化しています。1995年から1996年にかけて今はなき文藝春秋社のマンガ雑誌に描かれたものと、2004年からホーム社の「時代活劇」に連載されたものです。

 本書の作者紹介では村野守美の代表作をビッグコミックオリジナルの『垣根の魔女』としてますが、それはちょっと違うんじゃないかと。『オサムとタエ』なんかはどうかなあ。

 すでに1971年虫プロ「COM 」に登場した『ほえろボボ』で、村野守美はその圧倒的画力を披露していました。

 何がスゴイかといって、人物やイヌもそうですが、その背景がスゴイ。リアルというのとはちょっと違う、白黒のコントラストをきかせたスタイリッシュな背景。1971年当時の最先端ですが、今から見てもすばらしい。この背景は時代劇でも描かれ、写真を二階調化した感じの建物など、村野守美作品の背景はひと味違うのです。

 イエス小池『漫画家アシスタント物語』(2008年マガジン・マガジン)には、「劇画屋の絵はダメだ!」と怒鳴る村野守美先生が登場しています。やっぱその絵は、劇画とは異なる、リアルな背景へのアプローチだったのですね。

 本書でもその背景となる江戸風景はすばらしい。お話は池波正太郎ですからもちろんおもしろいのですが、これをちゃんとマンガ化できる人材が今どれだけいるのか。たいへん楽しく読みました。

 さて今回の作品集は村野守美の熟練の技、と言いたいところですが、ちょっと残念なことに、作品ごとの出来不出来がありすぎる。作品によってはえんえんとコピーの人物が続くこともあって、なんともはがゆいことであるのです。

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