『セクシー田中さん』を考える
原著者が亡くなるという不幸な結果を迎えた『セクシー田中さん』について、多方面から多くの意見が寄せられています。自分もマンガとしての『セクシー田中さん』のいち読者として、また映像化された同作品の視聴者として、ここしばらくこの事件についてずっと考えていました。
マンガ制作現場、あるいはマンガの映像化について、門外漢の自分が口を出すのはどうかと思いこれまで何も発言してきませんでしたが、今回の事件にはいろんな問題がからみあっていて複雑です。当事者のコメントが出そろったのを機に、マンガ出版の問題として自分なりに整理して書き記しておこうと思います。
一般的にマンガ作品の映像化における当事者は以下になります。(A)原著者となるマンガ家、(B)マンガ家と直接に接するマンガ編集者、(C)編集者の上司および出版社上層部、(D)映像化の責任者である映像プロデューサーおよびテレビ局、(E)映像化作品の脚本家、(F)映像化作品の演出家および出演者。
これに加えて(G)読者や視聴者も存在します。今回の場合、ツイッターなどでつぶやいた彼らが事件にどの程度影響を与えたかは不明です。さらにテレビ局で重視される顔のない「視聴率」が影響したかもしれません。
本事件の経緯としては、まず映像化作品全10回のうち、最終回を含む9回、10回の脚本を(A)マンガ家自身が書くというイレギュラーなことがおこります。これに対して(E)脚本家が不満を表明しました。不満先はぼかされていますがその対象は(A)マンガ家と(D)プロデューサーであることは明らかです。
これに対して(A)マンガ家が反論し、映像化に関して自身の要望が入れられなかったという経緯を説明しました。こちらの不満の対象者は(D)プロデューサーおよび(E)脚本家となります。この時点で(A)マンガ家は、(B)編集者と(C)出版社はマンガ家サイドに立っていたはずであるという認識があります。
その後、不幸な結末を迎えるのですが、ここから「藪の中」ともいうべき事象が出現することになりました。
(D)テレビ局は早々に、すべてマンガ家の監修下に作成された映像化であると表明。(B)小学館第一コミック局編集者の声明でも、マンガ家の要望をテレビ局にきちんと伝え、マンガ家自身が脚本にかかわっていたことが強調されています。(C)小学館のコメントでもほぼ同様。いっぽう(E)映像化脚本家の声明では、自分はマンガ家の意向を何も知らなかったと。
(F)出演者に関してはどうか。(A)マンガ家と映像化作品が対立するとき、(A)マンガ家は(F)出演者に対して不満を言いません。むしろ出演者のファンであったりすることがありえます。マンガ家は現場に不満を伝えられない。
構造的なことを考えますと、映像化を進める(D)プロデューサー、(E)脚本家、(F)出演者はみな、映像化作品の成功の方向しか見ていません。そこに(A)マンガ家が口を出すのを躊躇するのは当然でしょう。
(C)出版社はどうでしょうか。彼らにとって企業の業績が一番。当然、映像化作品の成功を期待します。それがマンガの売り上げに寄与することになるからです。ですから(D)(E)(F)と同様の行動をとることになるのは必然となります。
残るは(B)マンガ編集者です。
日本マンガ出版において編集者は、マンガ家にもっとも寄り添う人間であり、マンガ作品の方向性を決定し、さらにシナリオライターになってしまうことすら可能な存在です。しかし彼らはマンガの映像化において、マンガ家サイドに立つ人間なのでしょうか。
マンガ編集者はマンガ出版社に属する社員であるか、その社と契約する社外編集者です。いかにマンガ家と密な関係をとっていたとしても、彼らは出版社の意向によって行動せざるを得ません。
その結果、(A)マンガ家が映像化作品の方向性に違和感を持ったとき、(B)(C)(D)(E)(F)すべてと対立することになります。さらにその外側には、マンガの映像化に対しておめでとうと言う、あるいは不満を言う、(G)読者や視聴者がいます。彼らはマンガ家の心情を知らず、適当に発言するひとびとです。
マンガ家ひとり、対、編集者、その背後にある出版社、テレビ局、脚本家、出演者もろもろ、さらに読者や視聴者。マンガ家にかかるこのプレッシャーがどれくらいのものになるか。これはあまりにきびしい。この状況で多方面に自分の意思を表明できるマンガ家がどれだけいるのか。実際に複数のマンガ家が自作の映像化に関して、自分がいかに疲弊したかという経験を語っています。
本邦での映像作品の多くがマンガを原作としていますが、その多くが原作をリスペクトしていない。これは日本の映像作品の大きな問題ではありますが、それは映画、テレビのほうで考えてもらいたいこと。マンガ出版では別の問題を抱えています。
『セクシー田中さん』の不幸な結末は、その原因に日本マンガの出版システムを挙げなければなりません。
本事件の本質は、マンガの映像化問題によって明らかになった、日本マンガ出版におけるマンガ家対編集者の問題に帰結します。出版社の社員である編集者は、どちらを向いて仕事をしているのか。これはマンガ出版の構造的な問題です。その意味では小学館第一コミック局の声明はゆるく感じてしまいます。
日本マンガは商業的にきわめて成功していますが、今回の事件はその出版システムのマイナス面を露呈させました。マンガ家対編集者、さらにマンガ家対出版社の力関係は微妙なバランスの上に成立しています。現状に満足している人は多くないでしょう。ならば万人が納得できるようなシステムはなにか。それを構築していくのが今後の課題となります。
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