February 12, 2024

『セクシー田中さん』を考える

 原著者が亡くなるという不幸な結果を迎えた『セクシー田中さん』について、多方面から多くの意見が寄せられています。自分もマンガとしての『セクシー田中さん』のいち読者として、また映像化された同作品の視聴者として、ここしばらくこの事件についてずっと考えていました。

 

 マンガ制作現場、あるいはマンガの映像化について、門外漢の自分が口を出すのはどうかと思いこれまで何も発言してきませんでしたが、今回の事件にはいろんな問題がからみあっていて複雑です。当事者のコメントが出そろったのを機に、マンガ出版の問題として自分なりに整理して書き記しておこうと思います。

 一般的にマンガ作品の映像化における当事者は以下になります。(A)原著者となるマンガ家、(B)マンガ家と直接に接するマンガ編集者、(C)編集者の上司および出版社上層部、(D)映像化の責任者である映像プロデューサーおよびテレビ局、(E)映像化作品の脚本家、(F)映像化作品の演出家および出演者。

 これに加えて(G)読者や視聴者も存在します。今回の場合、ツイッターなどでつぶやいた彼らが事件にどの程度影響を与えたかは不明です。さらにテレビ局で重視される顔のない「視聴率」が影響したかもしれません。

 本事件の経緯としては、まず映像化作品全10回のうち、最終回を含む9回、10回の脚本を(A)マンガ家自身が書くというイレギュラーなことがおこります。これに対して(E)脚本家が不満を表明しました。不満先はぼかされていますがその対象は(A)マンガ家と(D)プロデューサーであることは明らかです。

 これに対して(A)マンガ家が反論し、映像化に関して自身の要望が入れられなかったという経緯を説明しました。こちらの不満の対象者は(D)プロデューサーおよび(E)脚本家となります。この時点で(A)マンガ家は、(B)編集者と(C)出版社はマンガ家サイドに立っていたはずであるという認識があります。

 その後、不幸な結末を迎えるのですが、ここから「藪の中」ともいうべき事象が出現することになりました。

 (D)テレビ局は早々に、すべてマンガ家の監修下に作成された映像化であると表明。(B)小学館第一コミック局編集者の声明でも、マンガ家の要望をテレビ局にきちんと伝え、マンガ家自身が脚本にかかわっていたことが強調されています。(C)小学館のコメントでもほぼ同様。いっぽう(E)映像化脚本家の声明では、自分はマンガ家の意向を何も知らなかったと。

 (F)出演者に関してはどうか。(A)マンガ家と映像化作品が対立するとき、(A)マンガ家は(F)出演者に対して不満を言いません。むしろ出演者のファンであったりすることがありえます。マンガ家は現場に不満を伝えられない。

 構造的なことを考えますと、映像化を進める(D)プロデューサー、(E)脚本家、(F)出演者はみな、映像化作品の成功の方向しか見ていません。そこに(A)マンガ家が口を出すのを躊躇するのは当然でしょう。

 (C)出版社はどうでしょうか。彼らにとって企業の業績が一番。当然、映像化作品の成功を期待します。それがマンガの売り上げに寄与することになるからです。ですから(D)(E)(F)と同様の行動をとることになるのは必然となります。

 残るは(B)マンガ編集者です。

 日本マンガ出版において編集者は、マンガ家にもっとも寄り添う人間であり、マンガ作品の方向性を決定し、さらにシナリオライターになってしまうことすら可能な存在です。しかし彼らはマンガの映像化において、マンガ家サイドに立つ人間なのでしょうか。

 マンガ編集者はマンガ出版社に属する社員であるか、その社と契約する社外編集者です。いかにマンガ家と密な関係をとっていたとしても、彼らは出版社の意向によって行動せざるを得ません。

 その結果、(A)マンガ家が映像化作品の方向性に違和感を持ったとき、(B)(C)(D)(E)(F)すべてと対立することになります。さらにその外側には、マンガの映像化に対しておめでとうと言う、あるいは不満を言う、(G)読者や視聴者がいます。彼らはマンガ家の心情を知らず、適当に発言するひとびとです。

 マンガ家ひとり、対、編集者、その背後にある出版社、テレビ局、脚本家、出演者もろもろ、さらに読者や視聴者。マンガ家にかかるこのプレッシャーがどれくらいのものになるか。これはあまりにきびしい。この状況で多方面に自分の意思を表明できるマンガ家がどれだけいるのか。実際に複数のマンガ家が自作の映像化に関して、自分がいかに疲弊したかという経験を語っています。

 本邦での映像作品の多くがマンガを原作としていますが、その多くが原作をリスペクトしていない。これは日本の映像作品の大きな問題ではありますが、それは映画、テレビのほうで考えてもらいたいこと。マンガ出版では別の問題を抱えています。

 『セクシー田中さん』の不幸な結末は、その原因に日本マンガの出版システムを挙げなければなりません。

 本事件の本質は、マンガの映像化問題によって明らかになった、日本マンガ出版におけるマンガ家対編集者の問題に帰結します。出版社の社員である編集者は、どちらを向いて仕事をしているのか。これはマンガ出版の構造的な問題です。その意味では小学館第一コミック局の声明はゆるく感じてしまいます。

 日本マンガは商業的にきわめて成功していますが、今回の事件はその出版システムのマイナス面を露呈させました。マンガ家対編集者、さらにマンガ家対出版社の力関係は微妙なバランスの上に成立しています。現状に満足している人は多くないでしょう。ならば万人が納得できるようなシステムはなにか。それを構築していくのが今後の課題となります。

 

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July 01, 2022

マンガ単行本 価格の謎

 先日書店で以下の三点を見つけて、やったね、と喜んで買ってきたわけですが。

●高松美咲『スキップとローファー』7巻(2022年講談社、680円+税、amazon
●山下和美『ツイステッド・シスターズ』2巻(2022年講談社、650円+税、amazon
●泰三子『ハコヅメ』21巻(2022年講談社、660円+税、amazon

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 いずれも楽しく読みました。が、以前から気になってたのがこの価格。この微妙な値段の違いはなんだろう。

 出版関係の方にはアタリマエのことなのかもしれませんが、消費者としてはよくわからない。もちろん、でかい本は高い。ページ数が多くなると高い。装丁やデザインに凝ると高い。そして少部数の本は高くなる。こういうことはわかってますが、同時期に刊行された同じ出版社の同じB6判のマンガ単行本でこの差をつけてある理由は。

 単純にページ数によるものかと思いましたが、これが違う。

『スキップとローファー』と『ツイステッド・シスターズ』を比較しますと、紙は同じものを使っているみたい。そして前者は176ページ、144グラムで680円。後者は192ページ、158グラムで650円。なんと、ページ数が多いほうが、安い。ページ単価は3.8円対3.4円。なぜかベテラン作家山下和美の方がお安くなっております。

 さらに『ハコヅメ』はもっと特殊で、160ページ、169グラムで660円。これでも本の厚さは前二者と同じくらいです。触った感じでわかりますが、紙が厚い。だから本が重い。ページ単価は4.1円で格段にお高くなっています。

 おそらく、もっとも発行部数が多いのは『ハコヅメ』。以下はわたしの邪推になるかもしれません。少部数の本が高くなるのは当然です。しかしベストセラーが安く設定されているわけではないらしい。むしろ、ページ単価を高く設定して、出版社は少しでも多く収入を得ようとしてるのじゃないかしら。

 つまり、売れるマンガは努力しなくても売れるからページ単価を高くして出版社の収支に寄与してもらう。そうじゃない作品はページ単価を安くしてお得感を出して、販売促進につなげたい。

 ちなみにわたし自身がもっともページ単価が安いと思ってるのがこれ。

●石森章太郎『サイボーグ009』1巻(1966年秋田書店サンデー・コミックス、当時220円、今は490円+税、amazon

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 新書判コミックス黎明期のベストセラーにしてロングセラー。なんと今も現役、新刊で入所可能です。秋田書店すげー。この1巻は302ページで1966年の発行時に220円。当時としても納得のお値段でした。ページ単価は0.73円。新書判コミックスの発売が開始されてから、マンガのコレクター、そしてオタクが誕生したのです。

 そして現在もっともページ単価の高いマンガはきっとこれです。

●エイドリアン・トミネ/長澤あかね訳『長距離漫画家の孤独』(2022年国書刊行会、4200円+税、amazon

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 造本はまるきりモレスキンノートを模している凝りよう。168ページでこのお値段。ページ単価は25円となっております。

 

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April 07, 2022

最後のトリアッティ

 今回の文章はブログに掲載せずにnote.comを利用してみました。

「遠くから遠くまで」を遠くから想う

 無料です。

 2005年から10年にわたっていろいろ書いてきた、『忍者武芸帳』とトリアッティについての話題を総括してみました。

 みなもと太郎先生を追悼する文章のつもりで書きました。

 

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July 12, 2019

誰が誰にあやまるのか:花とゆめ2019年14号

 2019年7月5日、白泉社のサイトで下記のお詫びが掲載されました。>こちらがそのお詫び

 将来的に消えてしまうページかもしれませんので、以下に全文を転載します(ちなみにこういう文章に著作権が存在しないことはみなさんご存じのとおり)。

*****
花とゆめ14号よみきり作品に関するお詫び

2019.07.05

花とゆめ14号の読みきり作品に関して、多くの読者の皆様から、主人公の女性キャラクターが既存の先生の絵柄に非常に似ているとのご指摘を頂戴しました。

該当作品の絵柄は、編集部が率先して先生の絵柄に近しい方向へと誘導した結果のものであり、本来なら掲載を中止しなければならない程、酷似していたにも関わらず、雑誌に掲載するという過ちをおかしてしまいました。

この度読者の皆様をお騒がせしてしまった原因は、すべて編集部の意識・認識の甘さによるものです。花とゆめをご愛読頂いている皆様の信頼を損なってしまいましたこと、誠に申し訳ありませんでした。

そして絵柄を酷似させてしまった先生、そのために誤解や混乱を生じさせてしまったファンの皆様、該当作品を執筆された先生に、多大なご迷惑をお掛けしました事を心よりお詫び申し上げます。

今後は二度とこのような事態を招かぬよう編集部内で意識改革を徹底し、読者の皆様の信頼を取り戻してゆく所存ですので、これからも花とゆめをご愛読頂けますようお願い申し上げます。

花とゆめ編集部

編集長 佐藤一哉

*****

 一読、きわめて奇妙な文章です。盗作あるいは剽窃事件に関してのお詫びのようなのですが、その理由は「絵柄に非常に似ている」かららしい。

 この文章は編集部=出版社が謝っているのですが、その対象が(1)剽窃されたらしい原著者である作家(しかも名前は秘す)。(2)読者(原著者のファンだけ?)。(3)読み切り作品であるマンガを描いた作家(名前は秘す)。作品名も不明なら作家名も不明で、何が言いたいのかよくわかりません。

 原著者に対するお詫びなら、本人に何かひと折り持って行けばすむように思いますが、読者や読み切り作品の作家にも謝罪されている。

 編集部主導で既存作家の「絵柄に非常に似」たマンガが雑誌に掲載された。それについて編集部が謝罪している。ここで引っかかります。それってマンガとして問題なのか。

 そもそも、マンガそして絵画の修行・鍛錬は、模写によってなされてきたという歴史があります。というか、それを指摘するまでもなく、絵を描くひとにとって模写はアタリマエのこと。

 手塚治虫は先行するディズニーやジヨージ・マクマナス「ジグスとマギー(親爺教育)」を模写し、藤子不二雄は手塚を模写し、少女マンガ家たちはミュシャを模写する。これはアメコミの世界でも同様で、マンガ家たちはみんな先行作家作品の模写をしてきました。

 一般読者に対しても、出版社はマンガ作品の模写をつのり、投稿された読者のそれを雑誌に掲載してきました。それがマンガというメディアを進歩、発展させてきたことは間違いありません。

 ならば、既存作家の「絵柄に非常に似」た新人作家マンガの何が問題なのか。

 白泉社は何ゆうてんねん、自分で自分の首しめてるんとちゃうんか、という気持ちで、「花とゆめ」2019年14号を入手して読んでみました。

*****

 該当作品は白泉社「花とゆめ」2019年14号、ほぼ巻末作品で、作者は宇和野宙(うわのそら)、タイトルは「ロマンスとバトル」です。

 巻頭ページ、アバンタイトルで、主人公である女子高生ルミが、食パンを口に「遅刻遅刻~っ!」と言いながら、奥から手前に向かい走ってきます。彼女の目は顔の三分の一を占めるほど大きい。全段ぶちぬきでバックには桜の花をしょっている。

 キャプションで以下。
「私 夢川ルミ!」
「キッラキラの女子高生☆」
「この恋愛少女漫画の主人公なの!」
「あの曲がり角で爽やか王子系イケメンにぶつかる予定!」

(クリックで拡大)

Romanceandbattle

 こ、これは…… メタ作品やん! パロディやんか!

 ページをめくると、主人公ルミは出会い頭に交通事故にあってしまう。

 そしてルミは、バトル系少年マンガの世界に転生します。その世界の登場人物はルミとは絵柄も違うし、行動原理も違う。彼女は自身の少女マンガ世界に戻るため、「必殺奥義 泣き落とし!」や「キラキラトーン フラッシュ!」を駆使して、少年マンガ世界の登場人物と戦い続ける……。

 オープニングからして、遅刻少女+パン+出会い頭の衝突ですよ。

 主人公は、自分が典型的少女マンガの主人公であることを自覚しており、泣き落としやキラキラトーンをギャグ的「技法」として使用しています。

 本作は、商業少女マンガ雑誌に掲載された、典型的少女マンガキャラが、自身が典型的少女マンガキャラであることを自覚して行動する、メタ的少女マンガであります。ならば主人公の姿は、典型的少女マンガスタイルであるべきでしょう。

 つまり、今回のパロディ作品に対して、本作は正しいキャラ設定をした。というのが本ブログの考えです。本作の設定に対し、キャラクターを「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女に設定したのは正しい。そして本作キャラの原著者と推察される、種村有菜キャラに似せたのは、まったく正しいと考えます。

 種村有菜といえば、一時期のりぼんの表紙で知られているかた。バランスを失するほど眼が大きい少女の絵が有名です。本作については、「ちょっと驚いています。全く知らない方です…」というツイートをされていました。

 しかし、本作の作品構造、さらにマンガと模写の歴史について考えを及ぼせば、本作のキャラクター造形も許してくれるのではないか。

 現代日本、パロディはきわめて生きにくい時代となっています。いわゆるパクリと混同されることも多い。原著者に対して仁義を切らないと、パロディは存在することも困難です。田中圭一が原著者からどこまで許可を得ているかは知りませんが、本来のパロディは原著者に連絡など不要なのです。

 わたしの世代はパロディを崇高な権利として理解していました。本来パロディは原著および原著者に対する批判であり風刺であり、さらにはそれとは無関係のナンセンスな自己表現、のはずでした。これをわたしたちは筒井康隆や長谷邦夫から学んだのです。パロディに対して著作権を行使して反対する行為。これを施行する原著者は、ケツの穴の小さいやつ、と思われていました。わたしは現在もそう思っています。

「ロマンスとバトル」の作者は花とゆめ2019年14号に以下のコメントを載せています。「デビュー作になります。メタギャグ(?)漫画です。ルミの作画が大変でした…。マッチョキャラが描けて嬉しかったです。」

 その後の展開を思うと、このコメントには涙しかない。

 白泉社のコメントは、原著者、読者、作者の三者に謝っていますが、本来は謝るべきではなかった。本作に何らの非はない。むしろこの謝罪は、マンガ表現を萎縮させるだけでしかありません。そして今こそ、白泉社は「ロマンスとバトル」の作者を救済すべきであると考えます。

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November 27, 2016

永遠に働き続けるキャラクターたち

 アニメやマンガでは、作者が没したあともずーっと働き続けるキャラクターがいます。なんせ最近は日本政府からしてコンテンツがどうのこうのといってる時代なので、いつまでたっても引退させてくれません。

 たとえばサザエさんご一家。すでに作者・長谷川町子が亡くなって20年以上。マンガ版は終了していますが、アニメのサザエさんはずっとテレビに出続けています。

 アニメは1969年開始だから、タラちゃんですらもうすぐ50歳です。波平さんなんかいくつになるんでしょ。毎週、日曜の夜7時になると、バテきって倒れてるのじゃないか。

 働きづめに働いてるキャラクター。声優さんは交代できるでしょうが、キャラクターは毎週毎週いつまでもたいへんだよなあ。

 アニメならドラえもんグループもそうですね。しずかちゃんとかもうそろそろ若作りはやめて、引退したいなー、とか思ってないかな。

 マンガなら、ブラック・ジャックは人気があって忙しそう。鉄腕アトムはたまにCMやキャンペーンで呼ばれたりで、大御所としてのんびり仕事してました。でも最近は『アトム・ザ・ビギニング』が始まって、いろいろとトレーニングし直したり、整形したりでタイヘン。

 サイボーグ009とかは、ときどき映画に出演する程度なので、むしろ楽しんで仕事してるのかもしれません。

 青木雄二プロダクションのキャラクターなんか、「搾取されるキャラクター」という言葉にぴったりな感じ。そのうちキャラクターのストライキとか労働争議が始まるのじゃないか。

 アメコミにも「永遠に終わらない連載」と「搾取されるキャラクター」に反発したキャラクターの話、なんつーのがあったりします。サザエさんやドラえもんがのんびり休める明日は来るか?

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October 30, 2016

マンガの自家コピー問題『アイアムアヒーロー』

 今のひとはあまり知らないかもしれませんが、ディズニーのアニメが、商業的にも作品的にもダメダメだった時代があります。

 長編アニメのリストを見れば、「ロビン・フッド」が1973年(日本公開はずっと遅れて1975年)、次の「ビアンカの大冒険」が1977年(日本公開はなんと1981年)です。この間、ディズニーアニメの商業的価値は地をはっていました。

 劇場公開時に「ロビン・フッド」を見に行ったわたしがいちばんあきれたのは(地方とはいえ、観客10人程度?)、同じ絵、同じ動きがくりかえし、違うシーンで出てくるところ。すでにTVアニメではあたりまえのテクニックだったのでしょうが、あのディズニーが、劇場用長編で、それをやるかー、という感想でした。

 ときは流れて2016年。花沢健吾『アイアムアヒーロー』21巻(2016年小学館、552円+税、amazon)について。

 いやもうなんだよこれは。

 同じアングルの同じ絵が、くりかえしくりかえし出てくる出てくる。本作では前巻、20巻の末あたりから頻発し始めます。

 コピー機を使用した作画上のテクニックですね。有名なのは神江里見/小池一夫『弐十手物語』で、週刊ポスト連載でしたが、連載一回ぶんに同じ絵がばんばん出てきます。

 こういう表現は、作画上の労力を減らすためになされるわけです。もちろんマンガを描く労力が、時間的経済的に見合わないために開発されたテクニックです。現代のマンガ制作においては許容される表現なのでしょう。だから制作者も編集者もこれをオッケーとしているわけで。

 ただし、わたし、これ引っかかりまくり。

 同じ絵が出てきても気にならずにどんどん読み進める読者もいるのでしょう。でも、わたしダメです。この絵はさっき見た、この絵もさっき見た。影の付け方を変えて、黒目の位置を変えても、おんなじ絵じゃんかー。

 そこが気になって気になって。まったく物語に没入できません。

 そもそもマンガというのは、19世紀にロドルフ・テプフェールが、同じ顔を複数のコマに描く、というところから始まったわけです。くりかえし同じ顔を描くことでマンガが成立しました。

 その後コピー機が発明され、赤塚不二夫がコピー機を使って『おそ松くん』の六つ子の顔を描く実験をしました。そして現在、コピー機はさらに進化して、数年前の絵ですらストックして使い回すことが可能になっています。

 マンガ表現というのはそれでいいのか、という根源的疑問以前に、すらっと読めないんだよなあ。

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June 09, 2015

通俗にしてウエルメイド『サーガ』

 エンタメ系のアメコミで、ここ数年、最も注目されてる作品がついに邦訳。

●ブライアン・K・ヴォーン/フィオナ・ステイプルズ『サーガ』1巻(椎名ゆかり訳、2015年小学館集英社プロダクション、1800円+税、amazon

サーガ1 (ShoPro Books)

 出版社よりご恵投いただきました。ありがとうございます。けど惜しかった、本が届く四日前に、自分で買っちゃってました。さらに、すでに英語版も持ってたりするのですね。

 とまあ、それほど楽しみにしてた作品です。アメリカアマゾンでは第1巻のカスタマーレビューが500超ついてますが、この数は、フランク・ミラー/デビッド・マツケリー『バットマン:イヤーワン』と同レベル。アイズナー賞も獲ってるしベストセラーだし、やっぱ注目作でしょう。

 1巻部分のお話はいたってシンプル。宇宙最大の惑星ランドフォールには背中にハネが生えてる種族が住んでる。いっぽうその衛星には頭にツノが生えてる種族が住んでます。このふたつの勢力による戦争は、銀河全体に広がっています。

 そんな中、ハネ人の女兵士アラーナとツノ人の男兵士マルコは恋に落ちる。ふたりの間に子供が生まれるシーンがオープニングです。そこに現れる両陣営からの追っ手。新生児を連れた彼らの逃避行のゆくえは……!?

 あらまあ、なんて通俗なんでしょ。

 ならば本書が称揚される部分は何かというと、キャラクターのデザイン的および人格的造形の魅力につきます。主人公の男女は性格が男前で単純にかっこいいっす。彼らを追う賞金稼ぎの女性は、クモ(八本脚のアレです)体型であるのに、いかに色っぽくかつ凶悪であることか。

 もひとりの賞金稼ぎ(♂)は、いかにもアウトロー・ヒーローらしく、弱きを助け強きをくじくタイプ。歓楽惑星のクリーチャーたちはエロエロ。ハネ人の上位に位置する貴族階級のプリンス・ロボット四世というキャラ(頭がテレビという造形)はEDに悩んでます。主人公たちを助ける幽霊の少女は、下半身が切断されて腸が見えたりしてますが、これがまたかわいいんだ。

 1巻のラストではマルコにかつて婚約者がいたことが明かされ、アラーナの前に突然マルコの両親が現れます。ホームドラマだなあ。今後も主人公たちの逃避行アクションと並行して、愛だの恋だの家族だの、というようなお話が、ちょっとグロでエロだけどスタイリッシュな絵で描かれるはずです。

 SFとしては、宇宙の存在を脅かすような展開にはなりそうもありませんが、展開と描写がウエルメイドで楽しい。7月末には2巻が発売予定です。刮目して待て。

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May 19, 2015

変化球グルメマンガ『忘却のサチコ』

 昨日買った2冊は、それぞれネットと新聞の評で誉められてたマンガでした。どっちも1巻めですが、ううーんちょっとハズレ。2巻を買うことになるかどうか微妙だなあ。

 さて下記作品は2巻発売を待ってました。1巻と2巻が並べて平積みされてる書店がめだちますね。売れてるのかしら。

●阿部潤『忘却のサチコ』1・2巻(2014年、2015年小学館、各552円+税、amazon

忘却のサチコ 1 (ビッグコミックス) 忘却のサチコ 2 (ビッグコミックス)

 グルメマンガの変化球。食を扱ってはいても、主人公が食を求める理由が、「おいしいものを食べるときだけは別れた男を忘れられるから」と、そうとうひねってます。

 四角四面のマジメ雑誌編集者・サチコ(巨乳)が、いかに食のために奇矯な行動を起こすか。という主人公のキャラクターに依存したコメディ。端正な絵で書かれたサチコの造形(巨乳)がステキ。

 サチコは食において無我の境地にいたるため、ひたすら運動する、ひたすら空腹を我慢する、むしろ満腹を求める、などですね。ご当地ネタも多くて、長崎トルコライス、盛岡わんこそば、大阪串カツ、讃岐うどん。

 でも食べ物の題材は無限ですが、おいしくいただく工夫のアイデアはなかなかむずかしい。だもんでマンガの方向性は、食事とはちょっと関係ない、サチコの奇矯な行動に向かいます。ところが、これがコメディとしてココチよいのですな。

 2巻で最も笑ったのは、サチコの女王様サンタコスプレと、逃げる作家をひたすら走って追いかけるサチコ、だったりします。食べ物関係ないやんっ。でもおもしろいからよしっ。

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April 16, 2015

アメコミ邦訳は今どうなっているのか:バットマン編

 スーパーヒーローものアメリカン・コミックス(以下アメコミと略します)のうち、ヴィレッジブックスから邦訳されてる、ブライアン・マイケル・ベンディス脚本によるアベンジャーズを中心とした一連のシリーズがこの四月に完結しました。というか、アメコミには完結がないので、とりあえず一段落しました。

 原著でこのあたりが発表されたのが2005年から2010年まで。邦訳開始は2010年で完結が2015年ですから、ちょうど5年遅れですね。

 その途中では、スーパーヒーロー同士の内戦はおこるわ、キャプテン・アメリカは死ぬわ、スパイダーマンの過去のエピソードはなかったことになるわ、宇宙人の侵略によってどいつもこいつも宇宙人が化けたヤツだったことが明かされるわ、悪役グリーンゴブリンがアイアンマンになるわ、などのハデでムチャな展開。

 物語としては、万能の力を持つセントリーという「統合失調症のスーパーマン」みたいなヒーローが、アベンジャーズに参加して正体があきらかとなり退場するまで、という結構を持ってました。これだけまとまった量で連続したアメコミのエピソードを邦訳で読めることなどなかったから、ずいぶんと楽しませていただきました。まあお腹いっぱい。

     ◆
 
 ただし単体ヒーローなら、現在最も多く作品が邦訳されているのは、バットマンです。

 歴史が古い、何度も映画化されてる、以外にも理由があって、やっぱり日本人読者にとってもバットマンのキャラクターは魅力的です。

 闇の騎士と呼ばれる彼は、超能力を持たない普通人で苦悩するヒーロー。何といってもひたすら正義「だけ」を求める性格破綻者。純粋に悪を求めるジョーカーを裏返した人格で、珍妙な(でもかっこいい)コスチュームを着たヒーローであることにも自覚的です。

 最近のバットマン邦訳にはふたつの流れがあって、ひとつは原著で2006年から2013年まで発表された、メイン脚本家がグラント・モリソンのシリーズ。邦訳は2012年から2015年まで。

●バットマン・アンド・サン
●バットマン:ラーズ・アル・グールの復活
●バットマン:ブラックグローブ
●バットマン:R. I. P.

バットマン・アンド・サンバットマン:ラーズ・アル・グールの復活バットマン:ブラックグローブ (ShoPro Books)バットマン:R.I.P. (ShoPro Books)

 一巻めの『バットマン・アンド・サン』でタイトルどおり、バットマンの息子ダミアンが登場します。ダミアンの母親はタリア・アル・グールといって、映画「ダークナイトライジング」に登場してたあのラスボスね。

 反抗的で生意気なダミアンを新ロビンとして教育するバットマン。この後、父と子というテーマはずっと続きます。

 じつはロビンの名を継承した少年は代々四人おりまして(その他に少女もいたりしますが)、ダミアンは四代目ロビン。複数のロビンたちが、父であるバットマンに反発したり、彼の愛を求めて互いに戦ったりするのがバットマンの裏テーマだったのです(知らなかったでしょ。わたしもこんな話だとは知らなかった)。

『バットマン:ブラックグローブ』は、バットマンがお気楽なおバカマンガだった1950年代につくられたキャラクター「世界各国のバットマン」たちが孤島に集められ、連続殺人事件が起こる、という趣向です。脚本のグラント・モリソンは、狂気にあふれた『バットマン:アーカム・アサイラム』を書いたひとです。彼はアメコミ愛に満ちた『スーパーゴッズ』という分厚い本(一種の歴史書ですな)まで著していて、こういう過去作品が大好きなのが伝わってきますね。

 ここで新しく登場する悪役はトーマス・ウェインという名前で、これはバットマン=ブルース・ウェインの死んだ父と同じ。ここでも父子のテーマが出てきます。

●バットマン:バトル・フォー・ザ・カウル
●バットマン&ロビン
●バットマン:ブルース・ウェインの帰還
●バットマン:ブルース・ウェインの選択

バットマン:バトル・フォー・ザ・カウルバットマン&ロビン (ShoPro Books)バットマン:ブルース・ウェインの帰還バットマン:ブルース・ウェインの選択

 その後バットマンが死んでしまうという事件があり(アメコミヒーローはよく死ぬんですよ)、初代ロビンと二代目ロビンによる熾烈な跡目争いを描いたのが『バトル・フォー・ザ・カウル』。

 その結果初代ロビンが二代目バットマンを襲名し、新ロビン=ダミアンとコンビを組んだのが『バットマン&ロビン』。ここでは父子じゃなくて兄弟の反発と愛が描かれるわけですね。

 死んだはずのバットマンは、時空をさまよいながら自分の極悪非道なご先祖さまたちと対面したりしてましたが、やっと現代に帰還。そして第三部へ。

●バットマン・インコーポレイテッド
●バットマン・インコーポレイテッド:デーモンスターの曙光
●バットマン・インコーポレイテッド:ゴッサムの黄昏

バットマン:インコーポレイテッド (DCコミックス)バットマン・インコーポレイテッド:デーモンスターの曙光 (DCコミックス)バットマン・インコーポレイテッド:ゴッサムの黄昏 (DCコミックス)

 バットマンはバットマン株式会社を設立し、全世界のいろんな国々のヒーローを、その国のバットマンとして援助することにします。『ブラックグローブ』の発展形ですね。日本のバットマン、ミスター・アンノウンというヒーローも登場します。彼の本名は「おさむ・じろう」といいまして、手塚治虫と桑田次郎(かつて日本版バットマンを描いてました)の名を合体させたもの(!)。

 敵となる組織リバイアサンの首領は、毎度おなじみ、バットマンのかつての妻タリア・アル・グールです。なんかこう、世界は年じゅうバットマン家の夫婦ゲンカにまきこまれてないかい。この闘いのラストで、ダミアンはお話から退場することになります。このグラント・モリソンによるシリーズは、バットマンの息子の登場から退場までを描いていて、父子のテーマを徹底させてました。

     ◆

 邦訳バットマンのもうひとつの系統は、スコット・スナイダー脚本によるものです。

●バットマン:ブラックミラー
●バットマン:ゲート・オブ・ゴッサム

バットマン:ブラックミラー (ShoPro Books)バットマン:ゲート・オブ・ゴッサム

『ブラックミラー』はゴードン本部長の息子、ジェームズ・ジュニアがサイコキラーとして登場する話で、陰惨な描写がすばらしい傑作。『ゲート・オブ・ゴッサム』では、19世紀のゴッサムシティ(ということは昔のニューヨークですな)が描かれ、バットマンやペンギンのご先祖が登場します。で、これが下記の作品につながるわけです。

●バットマン:梟の法廷
●バットマン:梟の街
●バットマン:梟の夜

バットマン:梟の法廷(THE NEW 52!) (ShoPro Books THE NEW52!)バットマン:梟の街 (ShoPro Books THE NEW52!)バットマン:梟の夜 (ShoPro Books THE NEW52!)

 これらの作品に登場する悪の組織「梟の法廷」は、昔からゴッサムを闇から支配していた秘密結社です。タロンと呼ばれる不死の暗殺者を育てており、彼らが現代に復活します。

 その過程で、初代ロビンがご先祖のタロンと対決し、ロビン自身もタロンになるはずだったことが明かされます。さらにバットマンの生き別れの弟(!)が悪役として登場したりして、今回のゴッサムシティはご親戚同士の争いに巻き込まれるわけです。

●バットマン:喪われた絆
●ジョーカー:喪われた絆(上)(下)
●バットマン:ゼロイヤー陰謀の街

バットマン:喪われた絆  (THE NEW 52!) (DCコミックス)ジョーカー:喪われた絆〈上〉(THE NEW 52!) (DC)ジョーカー:喪われた絆〈下〉(THE NEW 52!) (DC)バットマン:ゼロイヤー 陰謀の街(THE NEW 52!) (DCコミックス)

『喪われた絆』シリーズはジョーカーがバットマン・ファミリーをひとりずつ拉致監禁していく話。「羊たちの沈黙」続編の「ハンニバル」にインスパイアされたんじゃないかと思われるシーンがあって、これも残酷風味です。『ゼロイヤー』はバットマンのオリジンを描いた名作『イヤーワン』を描き直した意欲作。

     ◆

 これら以外にもバットマンは、単発の傑作や過去の有名作品がいっぱい邦訳されてます。脚本ジェフ・ローブ、作画ティム・セイルが組んだ『バットマン:ロングハロウィーン』『バットマン:ダークビクトリー』『キャットウーマン:ホエン・イン・ローマ』はぜひ押さえておきたいところ。リー・ベルメホの絵が圧倒的に迫る『ジョーカー』『バットマン:ノエル』も傑作ですなあ。

バットマン : ロング・ハロウィーン ♯1バットマン : ロング・ハロウィーン ♯2バットマン:ダークビクトリー Vol.1バットマン:ダークビクトリー Vol.2キャットウーマン:ホエン・イン・ローマ (ShoPro Books)ジョーカー (バットマン)バットマン:ノエル

 バットマン誕生からの歴史を簡単にたどるには、パイ・インターナショナルから発売された『バットマンアンソロジー』がいいかもしれません。また1999年に描かれた巨大クロスオーバー『バットマン:ノーマンズランド』の刊行も始まってます。ただし、頭身の小さなカワイイ系のバットマンが活躍する『バットマン:リル・ゴッサム』には、わたしもうひとつノレませんが。

バットマン アンソロジーバットマン:ノーマンズ・ランド 1 (DCコミックス)バットマン:ノーマンズ・ランド 2 (DCコミックス)バットマン:リル・ゴッサム 1 (DCコミックス)バットマン:リル・ゴッサム 2

(書誌データは書いてませんが、それぞれ書影クリックでアマゾンに飛びます)

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March 22, 2015

『鼻紙写楽』はまちがっている

 日本でもっとも絵がうまいマンガ家にして、きわめて寡作。オビに「伝説」と書かれる一ノ関圭の新作がついに発行されました。

●一ノ関圭『鼻紙写楽』(2015年小学館、1800円+税、amazon

鼻紙写楽 (ビッグコミックススペシャル)

 連載されたのは不定期刊だった小学館の雑誌「ビッグコミック1(ONE)」。2003年から2009年にかけての連載も不定期でした。雑誌休刊とともに連載は中断されていましたが、連載一回分が描き下ろされ、2002年に描かれた10ページの短編「初鰹」を加えて単行本化されました。単行本編集・企画としてビッグコミック1の編集長だった佐藤敏章の名がありますね。

 わたしが雑誌休刊時に描いた記事はコチラ。→(

 堪能しました。超絶的な絵のうまさ、マンガ的な人物造形の色気、これでもかという考証と歴史を絡めて練られたストーリーの妙、緻密な構成と演出、どれをとっても一級品です。

 しかし。

 連載一回一回がとんでもない濃密さですばらしい仕上がりなのに比して、全体を通して読むと、このアンバランスさはどうしたことか。

 これは本作が未完であるのに、全体の構成をやや無理に改変して刊行したせいでしょう。本書の章立ては連載時とは異なり、エピソードが時系列になるように変更されています。でも雑誌連載で読んでたわたしにいわせていただければ、ここはどう考えても、発表順に読んだほうがよいと思われるのですよ。

 以下、ストーリーや謎に触れます。




























 雑誌連載第一回は「卯の吉その二」です。上方から江戸に出てきた絵師・伊三次と、威勢のいい芝居茶屋の娘が出会います。彼女には徳蔵という幼い弟がいますが、彼が誰かもわからない。背景にあるのは、寛政の改革による芝居や出版への弾圧。

 連載第二回が雑誌に掲載されたのはその半年後。本書では「卯の吉その三」。

 幼い徳蔵は五代目市川団十郞の子供であり、小海老の名を持っていることが明かされます。調べてみるとわかりますが、徳蔵が六代目団十郞ですね。徳蔵はかつて誘拐されたことがあり「心に傷」を負っている。いっぽう、伊三次といい仲になっている芝居茶屋の娘・ひわは、じつはすでに結婚しているらしいことが匂わされます。

 連載第三回の掲載はさらにその半年後でした。本書では「卯の吉その一」。徳蔵の付き人、卯の吉による回想。彼の目から見た徳蔵の姿が描かれます。

 この回で初めて、徳蔵が誘拐されたとき、男性の陰部を傷つけられたことが明らかにされます。さらに「ひわ」の名はじつは「りは」であり、五代目団十郞の娘。芝居茶屋に嫁いでいることもはっきり描かれました。

 つまり連載時には、人間関係や徳蔵の事件の真相が小出しにされ、読者の前にじわじわと明かされていったのです。これぞ構成の妙、マンガを読む楽しみ。ところが単行本化で変更されたエピソード順では、こういう事実や人間関係は冒頭の「勝十郎その一」ですべて語られています。それなのに、後の章でこういうじっくりした謎解きを読まされてもなあ。

 以下、連載では、徳蔵の役者としての才能の発露や、父親・五代目団十郞との微妙な関係、伊三次が写楽として開花していく過程がじっくりと描かれ、さてお話は過去へ。

 連載第七回ではエピソードは過去にさかのぼり、同心・綴(つづり)勝十郎が主人公となります。徳蔵の誘拐事件が描かれ、第八回で勝十郎は、田沼意次と松平定信の政治的暗闘に巻き込まれます。

 描き下ろしとして描かれた部分を含めたこの三回、「勝十郎その一、その二、その三」はミステリとしても読める、もっともおもしろい部分です。とくにこの部分で主人公となる勝十郎は、御家人からドロップアウトして芝居小屋で笛を吹いているけど、腕も頭も切れる男。時代劇ヒーローとして完成されてますね。連載時、彼の姿は雑誌表紙も飾りました。

『鼻紙写楽』は実質、描き下ろしの「勝十郎その三」で未完のまま終了しています。勝十郎が主人公の部分を冒頭に置くという単行本の構成では、読者は主人公らしい主人公である勝十郎が出てこないまま(一瞬だけちらっと出てきますが)、時間的にはその後となるエピソードをずっと読み続けることになります。時系列としては正しいが、マンガの構成としては、やっぱりこれはおかしい。未完なんだから未完のまま、読者にあずけてもいいのじゃないか。

『鼻紙写楽』を読むかた、読み直されるかたは、ぜひとも、連載時と同様の順番で読み、最後に七代目団十郞の出生の秘密を明かす短編「初鰹」を読むことをおすすめします。

 本書では語られなかったいろいろなこと、写楽がいかに写楽になっていくか、六代目団十郞がどのように成長していくか。わたしたちはそれらを読める日が来るのか。読者としては気長に待つだけです。

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